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源流なび Sorafull

古事記と日本書紀~ふたつの影法師⑶

 

  

 消された出雲王国

天武天皇帝紀の編集に関わった忌部子人は、その経験から古事記の最初の部分を担当したようです。物部の時代から宮廷祭祀を担ってきた忌部氏は、日本の神々や神社に詳しく適任でした。もとは徐福の第2次渡来時にやってきた氏族なので、道教的要素を持っています。例えば出雲では8が聖数であるのに対し、道教は7を聖数とします。そこで最高神を天之御中主として、上位の神を7神としました。神話に7と8が多く使われるのはそういう背景があるようです。

708年に忌部子人は出雲国司となりました。国司とは中央集権国家となってから始まった、国から派遣された官吏です。それまでの国造よりも上の存在です。不比等は子人に出雲王国の歴史を調べるよう求めた可能性もあります。

子人は古代史に詳しいため、出雲王国から記すつもりでした。ところが当時の出雲国造はホヒの子孫、果安ハタヤスであり、ホヒというのは徐福の第1次渡来前に密偵として出雲にやって来た渡来氏族で、その後事代主や大国主の暗殺に関わり、さらに末裔が出雲王国滅亡に加担するなど、出雲の人々にとっては苦々しい存在でした。果安はそんな祖先のことをできるだけうやむやにしておきたい気持ちが強く、出雲王国を国史に載せない方向で子人に交渉したと思われます。神武王朝の始まりを出雲王国初期の頃まで引き延ばせばいいと。(出雲が王国として成立したのは紀元前6世紀頃であり、神武天皇の即位は紀元前660年です。)

子人は子人で忌部氏と中臣氏の宮廷祭祀の権力争いが始まっており、子人は出雲の神の寿詞を出雲臣にさせることで、中臣氏による天神寿詞奏上を止めさせたいと企んでいました。このような子人と果安の互いの利得のために、国史は出雲王国を省く方向へと傾いていったといいます。

また果安は自分が神社の神職になることを望み、(国造の権力は落ちていたこともあるよう)出雲市多芸志たぎし出雲大社を建てることを子人に伝えます。それで古事記に「出雲国多芸志の小浜に天の御舎を造る」と早々に書かれたそうです。実際には予定地が変わり、出雲大社は716年に創建されたので、日本書紀には「出雲の五十田狭いたさの小浜」と書かれ、現在の稲佐の浜のことですね。多芸志は今は内陸ですが、当時は内海に近かったようです。大社建立には両出雲王家が出資したのですが、記紀には大和政権が建てたように書かれています。

出雲神寿詞奏上に関しては、旧出雲王の神霊が大和政権に服従し、天皇の御代を祝福することを都の貴族たちが望んでおり、不比等はこの手柄を藤原氏のものにしたいという思惑があったので、話は進みました。このようなこともあって、忌部子人の国司としての出雲滞在期間は8年にも及び、子人は出雲国内に領地を拡大し、松江市には忌部の地名もできて忌部神社も建てられました。

この間に出雲国造果安に出雲の神話や事件を書かせ、それを古事記を書く人麿に知らせていたと考えられています。出雲国司を辞めた後も、太安万侶日本書紀編集のアドバイスをしていたと思われます。

また果安は徐福という名を出さずにスサノオに変えてほしいと頼んだとか、大国主の名前は不比等からの指示であったなどと書かれているのですが、それが出雲の伝承なのかどうか出所がわかりません。こういうところを区別して示して頂けたらと思います。果安についてはとても詳しく書かれているので、これは出雲国内の出来事を探る秘密組織からの情報かもしれませんが。

 

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 ふたつの史書とふたりのゆくえ

古事記序文では、稗田阿礼が習った歴史の記録をもとにして太安万侶がまとめたとされていますが、斎木氏は実際にはその逆であるとし、安万侶が役所から持ってきた歴史記録と、出雲国造の考えた出雲神話と、忌部子人がまとめた記録をもとに、人麿が古事記を書いたとするほうが可能性が高いと言われます。日本語的な漢文を書ける上に、古事記に記された格調高い和歌や世俗的歌謡など、当時、人麿以外に誰が書けるのかと。

人麿は庶民向けに読みやすくなるよう物語性を重視し、和歌を織り交ぜ、そして後世の人が史実と違うことに気づけるよう、考え抜かれた例え話を混ぜたと思われます。人麿は万世一系にするという制約の中、できるだけ真実に近づくように知恵を搾り、一方安万侶は撰善言方式に従い、資料に基づいて詳しく書くことに徹したと思われます。日本書紀の神代に頻繁にみられる「一書に曰く」という記述は帝紀編集時に豪族たちの提出したレポートでしょうか。安万侶の律義さ真面目さが現れているようです。このふたつの方向性の史書をまとめることは無理であり、結果2冊の史書ができていったのではないかと考えられます。

この2冊に同じ和歌や歌謡が使われたわけを想像すると、政府の圧力というものを越えたところでの、ふたりの個性の違う文学者が互いに綴られた言葉を通して感じあう時間もあったのだろうなと、そこだけはやわらかなものが伝わってくるようです。

こうして国史編集に力を注いだふたりの名前は、どこへいってしまったのでしょう。

 

人麿の最期

ここからはさらに推測となりますが、日本書紀は朝廷に都合がよく、古事記は世間には発表しない方向へと向かっていったかもしれません。それを知った人麿が提出用のものから写本を作って密かに残そうと考え、安万侶はそれを見て見ぬふりをした、もしくは安万侶も写本を作っていた可能性も。実際に古事記が今私たちのもとにあるということは、何らかの経緯で写本が存在し守られたということでしょう。

古今集序問答」に、人麿が聖務天皇の后と密会したため明石に流され、3年後に赤人と名を変えて都に帰った、という記載があるそうです。時期が合わないので聖務ではなく文武天皇の后であり、明石は石見の間違いとして、そのような何かの冤罪によって人麿は石見国に監禁されます。のちに上総国へ流刑となったといいます。そして724年に77歳で亡くなりました。

妻の依羅ヨサミ姫と長く離れ離れになっている間の歌のやりとりから、斎木氏はとてもロマンチックな話を想定されています。依羅姫は人麿と親子ほど年が離れており、流刑となった年老いた人麿は若い妻が自分を待たないようにとの想いから、自分が死んだことにしたというのです。その歌を友人に託して妻へ届けたと。それが石見国で亡くなったとされている所以です。実際にはその後も上総国で幽閉され、77歳で亡くなり、人麿の実家である綾部家に死亡年月日が通達され、遺髪が送られました。

他にも依羅姫が亡くなったかのように読める歌を、友人が人麿のために詠んだとか、山辺赤人太安万侶)がのちに依羅姫のもとへ通い、人麿の昔詠んだ歌を集めたとか、ただならぬ話もあり、ここでは紹介しきれませんので、興味のある方はぜひ「万葉歌の天才」を読んでみてください。

 

古事記国史として採用されず闇に消え、時を経て現れると漢文で書かれた序文が添えられていました。そこには古事記を書いたのは私、太安万侶だとあります。この序文がもし安万侶自身のものであるなら、そうさせるだけのただならぬ想いを感じてしまいます。国史編集に費やした人生を踏みにじった不比等への憤りは当然だと思います。けれど同じ痛みを味わった同胞であるはずの人麿の功績を闇に葬る、という行為を犯してしまうほどの動機とは……

もちろん後世の人が序文を書いた可能性もあります。

 

最後に

また個人的な話を少しだけ。

父が病に倒れ、まだ意識がはっきりしていた頃のことです。父に人生でやり残したと思うことは?と尋ねたことがありました。父の返事は思いがけないものでした。

「柿本人麿に、あなたが命をかけて伝えようとしたことは、今、この現代にしっかりと受け継がれていますよ、と伝えたい」

父らしからぬ、なんともファンタジックな言葉を聞いた時、私は正直、この期に及んで!?と呆れてしまいました。それほどまでに熱い想いだったのかと。しかもこちらの世界にいては果たせそうにないじゃないかと。

まさかその後このようなブログを自分が書くことになるとは思いもしなかったのですが、今になって、あの父の言葉が遺言のようなパワーを持って私を動かしたのかもしれないと、そんな気もしています。

遺言とは故人の大切にしていたものにダイレクトに触れるメッセージなのかもしれませんね。そうやってエネルギーを受け継いでゆく。

私と父の人麿像はきっと少しズレがあるでしょう。父はツッコミたくてうずうずしているかもしれませんが、私はそれもよしと思っています。古代の人々と今を結ぶ熱い想いがここにある限り。