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源流なび Sorafull

安曇磯良と五十猛⑵ 振魂命・建位起命・宇豆彦命

 

古代史好きの父の影響で、幼い頃より九州王朝という言葉に馴染んではいました。20年ほど前、古代より伝わるという筑紫舞に接したことがきっかけで、九州王朝の存在を少し意識するようになりました。最近になって出雲王家の伝承を知り、九州王朝とは中国から渡来した徐福の後裔である物部氏の築いた王国であったという情報を得ることで、点と点が結びつくようにして古代日本の情景が浮かび上がってきました。九州王朝を意識していたからこそ出雲の伝承がすんなり入ってきたともいえます。

そんな中で、どうしても引っかかっていることがあり、それが安曇磯良とは何者なのかということです。古代博多湾周辺を支配していた海人族の王のようですが、出雲伝承のいう物部王国とは近いけれど別物という印象があります。地域としても徐福たちの開いた筑紫国筑後川周辺であり、安曇氏の博多湾周辺とは異なります。しかも共存していたわけです。そこで安曇と物部、このふたつの地域を結ぶ存在として、徐福(火明命かつニギハヤヒ)の息子である五十猛が関わっていないかと考えました。安曇氏の系図と、徐福の子孫である海部氏の勘注系図の両方に現われる建位起命(武位起命)タケイタテこそが五十猛ではないかと。前回、イタテ神が五十猛であるらしいことは書きましたが、建位起命のことかどうかの確認をしてみたいと思います。

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海部氏の系図についての説明はこの過去記事の後半にあります。

 

新撰姓氏録とは平安時代初期に編纂されたもので、京と畿内に住む1182氏を皇別、神別、諸藩別に分類し祖先を明らかにして、分岐の様子を記述したものです。

 

以前もこの話をしたので、またかと思われる方もおられるとは思いますが、復習プラス、より踏み込んだ話になりますのでお付き合いください。Sorafull自身も何度も繰り返さないと、すぐにこんがらがってしまうので‥‥。

新撰姓氏録が示す安曇氏の系図を見ると、祖となるのは宇都志日金析命穂高見命)であり、こちらが長男の家系かと思われます。のちに信州安曇野へ移住した一族です。弟の振魂命の子が武位起命となっており、大和国造の祖といわれています。海部氏勘注系図では一伝として建位起命の子は記紀旧事本紀に登場する宇豆彦(珍彦、椎根津彦、槁根津彦)だとし、安曇氏のものと同じになります。

また勘注系図によると丹波国造本記には「火明命の亦の名は彦火火出見尊であり山幸彦と呼んだ」とあるそうです。建位起命が火明命の子であるなら、五十猛(香語山)の可能性が出てきます。

出雲伝承 火明命(徐福、ニギハヤヒ)ー五十猛(香語山)ー村雲

勘注系図 火明命(ニギハヤヒ)ー香語山ー村雲

だとすると宇豆彦とは天村雲かもしれません。五十猛のもう一人の子は、大屋姫との間にもうけた高倉下です。こちらは紀伊国造家の祖となりますので。

こうなると安曇氏系図振魂命は火明命となりますね。振魂フルタマといえば宮中行事の鎮魂祭が浮かびます。11月の新嘗祭の前日に天皇の鎮魂(遊離しようとする魂を体内におさめる「御魂みたま鎮め」と、魂の活動を強める「魂振りたまふり」)の儀式を行って翌日に備えます。

旧事本紀によると、ホアカリニギハヤヒが天下る際に十種神宝とくさのかんだからを天つ神より授かり、「痛むときはこれらをとって、一二三四五六七八九十と唱えてゆらゆらと振りなさい。死んだ人も蘇えるだろう」と『布留ふるの言こと』を教わります。そしてニギハヤヒの子、ウマシマチは神武と皇后のために初めて十種神宝を祀って魂振りの祭祀を行います。これが鎮魂祭の起源ということです。さらに「その鎮魂祭の日に猿女君らが神楽を奏し、一二三四五六七八九十と唱えて歌い舞うのは、この神宝の故事に基づくもの」と記されています。つまり徐福の持ち込んだ道教神道に融合しているようですね。このことは宇佐家伝承にもあり、各氏族のシャーマニズムがどのように融合していったかを述べられていますので、またのちほど紹介します。

 

では安曇氏系図の始祖となる綿積豊玉彦とは、徐福の父である徐猛(オシホミミ)?と考えたくなりますが、それは一旦置いておこうと思います。まずは建位起命と宇豆彦を追求します。

 

丹波国庁に提出した海部氏の系図は、火明命のあと、香語山と村雲を飛ばして宿禰に続きます。この故意に隠された内容を記した秘伝が勘注系図であり、まず前段として上の系図が示され、さらに文中に香語山や村雲の説明がされています。これらは近年まで公開できなかったわけです。(本系図は昭和51年、息津鏡と辺津鏡は62年、勘注系図は平成4年に公開。本系図、勘注系図とも国宝に指定)

★写真は本系図巻頭です。中央あたりに始祖彦火明命とあり、次が三世孫倭宿禰命と書かれています。

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宇豆彦ウズヒコは書紀や旧事本紀では、神武東征の水先案内をする海人あま(小船や亀に乗って現れます。磯良や射楯神のよう)でありながらも、奥まった大和の地理に非常に詳しい人物として神武を導きます。敵兵がわんさかいる中を宇豆彦は貧しい老人を装って宇陀から香具山へ向かい、神武が占いに使う土を頂きから持って帰ってくるほどです。

天香具山は天から降ってきた聖なる山であり、大和の国魂が宿るところと書紀に記されています。霊力をもった山なのですね。天岩戸開きの際も天香具山の鹿の骨や木で占ったり、アメノウズメの装いもすべて香具山の植物です。出雲伝承では香具山は香語山(五十猛)の御霊が祀られているといいます。書紀では崇神天皇の御代に国内に疫病が流行った際、登美家の大田田根子は大物主を祀る祭主にし、市磯長尾市イチシノナガオチを大和大国魂神を祀る祭主に定めますが、この人は建位起命や椎根津彦の子孫です。筋が通っています。

東征の中で行動を共にする宇豆彦と神武の姿は、初代大和大王である村雲と神武を重ねて描いたように思えます。さらに勘注系図旧事本紀尾張氏系図にみられる村雲の2人の息子の母は吾俾良依姫ということですが、神武が日向で娶ったという吾平津姫ととてもよく似た名前です。

そして本当は宇豆彦は天孫の火明命の子孫なので神武と同じく天孫族なのに、古事記旧事本紀では国つ神と名乗っています。宇豆彦の登場シーンからして、土地の有力者が来訪者に服従して出迎える形を描いていますね。山幸海幸の話の中でも海幸彦(海部氏を指す)は敗者として描かれているところをみると、朝廷が万世一系にこだわったことから、大和の海王朝である海部氏とその親戚である安曇氏を封じたのかもしれません。

「出雲と大和のあけぼの」では斎木氏が第1次物部東征の将軍、物部五瀬の末裔の方から直接聞いた話として、五瀬の敵とは高倉下の子孫、ウズ彦だったとのことです。時代、系列ともに少々ずれがあるとはいえ、建位起命の子孫が物部に協力したという記紀の話とは逆ですね。本当は敵であったのを、服従させて描いたことになります。

五十猛は書紀の中で、スサノオとともに天下る話だけがちらりと書き込まれていますが、香語山命記紀には登場せず、霊山としての香具山だけが繰り返し描かれます。村雲の名は書紀に三種の神器である天叢雲剣草薙剣の元の名)としてヤマタノオロチのお腹の中から現れます。現在は熱田神宮御神体です。剣が途中で名を変えることも妙ですが、隠したいのに書かずにおられない心理の現れでしょうか。出雲伝承ではこの叢雲剣とは村雲が初代大和大王になられたお祝いに出雲王家が贈ったものだといいます。ちなみに叢雲剣はスサノオ(徐福)が退治したオロチ(出雲の祀る神)の中から現れます。徐福と出雲、出雲と村雲の関係がここに凝縮されているようです。

旧事本紀と勘注系図、そして出雲伝承に登場する五十猛(香語山)と村雲は、以上を除けば記紀には記されていません。

 

勘注系図では「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた。その児、宇豆彦命、云々」とあります。これを記紀にすり合わせると、武位起命は彦渚武ウガヤフキアエズノ命となります。その子が神武ですので、海部氏系図では天村雲ですね。つまり海部氏は記紀における初代天皇神武を、本来は天村雲であると示しているようです。

旧事本紀も載せてみます。

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この中で豊玉姫側を省けば、海部氏のいうところと全く同じになりなす。

そして勘注系図と出雲伝承によれば、香語山の母は高照姫(天道姫)ですので玉依姫とは高照姫となります。高照姫は出雲王と宗像三女神(多岐津姫)の娘であり、豊玉姫の妹ではなく娘ですね。古事記では豊玉姫が出産時に八尋鰐(書紀では龍)に姿を変えますが、それは出身が龍蛇神を祀る出雲族だということを暗示しているようです。

この高照姫の別名は勘注系図によると屋乎止女ヤオトメです。出雲の聖数八の乙女でしょうか。また、ヤオトメといえば志賀海神社の山誉祭の中に「八乙女の舞」があります。大祓の祝詞の次に8人の老女が舞うのですが、これを舞う8軒の家が決まっていて代理は立てられないそうです。由来はわかりません。山誉祭の最後は船を漕ぐような仕草をしながら君が代を歌います。君とは安曇の君です。歌の最後の言葉は「磯良が崎に鯛釣るおきな」です。

山誉祭の詳しい内容は以下の記事に紹介しました。君が代の全文もあります。 

八乙女という老女と安曇磯良。八乙女が磯良の母であれば、若い乙女でなくても仕方ないですよね。丹後国風土記の残欠(一般に出回っているのは風土記逸文ですが、密かに継承されてきたらしい残欠が古文書として存在します。風土記記紀成立後に提出していますので、朝廷にとって都合の悪い内容は削除されたはず)の中でも、高照姫は天道姫として香語山や村雲とともに何度となく登場し、祖母とじ、老女として描かれています。今でいえば40前後でしょうが。この高照姫が志賀海神社の八乙女であれば、安曇磯良と五十猛(香語山)はますます重なってきますね。

ちなみに旧事本紀では村雲の亦の名を天五多手イタテとしています。他より一世代ずれています。勘注系図にも村雲の亦の名を天五十楯天香語山命と記しているところもあってもはやカオスですが、これを五十猛と香語山が同一人物であり村雲の父であることを示していると読めば(かなりの深読み!)なるほどという感じでしょうか。

 

 

  

 

 

訂正のお知らせ&安曇磯良と五十猛⑴

先日、NHKBS放送で「アメリカ  謎の古代遺跡」という番組があり、その中でアメリカ先住民であるプエブロ族を紹介していました。彼らはかつてスペインやアメリカによって、土地も言語も宗教も命も奪われたといいます。現在、ニューメキシコタオス・プエブロ世界遺産に登録されていますが、民族の歴史や祈りの場は今なお非公開です。写真は1000年以上前からプエブロ族が継続して住んでいる集落です。

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Wikipediaより タオス・プエブロ 撮影Bobak

彼らは過去に何が起こったかを代々口承で伝えています。それは自分たちが何者であるかを忘れないためだといいます。何者かということについて「私たちは祈りの役目をもっている」と答えていました。自分たちのためだけでなく、世界のために祈っていると。そして祈りの場は、先祖や大地と繋がりを感じる場であるとも。

祈りの役目といえば日本の天皇と同じですね。天皇のお仕事は本来、祭祀ですから。最近になって天皇陛下の激務がニュースになりましたが、実際は公的なお仕事の他に私たちの目に触れないところで、日々国民のために祈りを捧げておられるのです。元日の早朝より行われる四方拝では「この世で起こる様々な困難、苦しみは、必ず我が身を通過してください。すべてこの身が引き受けます」と天地四方の神々へ祈られます。私たちが新年に互いの幸せを祈っている時に、陛下はすべての苦しみを引き受けると祈っておられます。それが形だけではないことは、御公務の内容を知れば感じられると思います。

民の苦しみを陛下のお体を通して清め祓って頂くというのは、あの大祓詔おおはらえのことばと重なりませんか。祓戸四神の連携によって、すべての地上の罪や穢れは川から海へと持ち運ばれ、それを沖で呑み込んだ神は海底から地底へと吹き払い、それらを地底で受け取った神はいずこへか持ち去って浄化し消滅させて下さる。一神教の神様は人の犯した罪を裁き、許すという上下の関係ですが、八百万の神々は人が生きている以上生み出される罪や穢れ、自然の猛威による苦しみを身をもって引き受けてくれる包容力を感じます。その神々と直接繋がっているとされるのが天皇なのでしょう。

話が逸れましたが、プエブロ族もこの世の平和を祈ることを使命としていたようです。そんな人々が我欲に囚われた者たちにすべてを奪われてしまったのですから、人間の業の深さを思い知らされます。

現在プエブロ族の直系子孫は2500人ほどに減ってしまったそうですが、「(受け継いだものは)この血の中に流れている、それが誇りだ」と子孫の男性が噛みしめるように語っておられたのが印象的でした。

民族が迫害され、その歴史もろとも奪われてしまった時、残った者たちは命がけで密かに歴史や文化を子孫に伝えようとするものなのだなと改めて思いました。古代日本においても、出雲王族を初め、権力闘争に敗れた豪族たちの中にも、極秘伝として直系のものだけに伝承されてきたことがあったようです。今でこそ公にできる自由がありますが、昔であれば見つかればお家断絶ですよね。その極限状態の中で守り抜かれた伝承を、端から否定せず、是非とも専門家の方々に検証して頂きたいなと思います。

 

さて、今回はN様より、徐福のお墓はどこにあるのかというご質問を頂きました。N様は宮崎県の生目古墳へ行かれた折り、西都原古墳群の男狭穂塚・女狭穂塚はニニギと木花咲耶姫の墳墓という伝承があると聞かれたそうです。また佐賀県の金立山の徐福館では詳細なお話を伺ったそうですが、徐福の亡くなった場所やお墓についてはわからないとの事。さらに和歌山の徐福公園には徐福のお墓があったそうで、徐福は九州から出ていたのだろうかと疑問に思われたということでした。

出雲伝承の中で徐福のお墓について書かれているところを挙げてみます。

『出雲と大和のあけぼの』‥‥徐福は筑後平野で亡くなったという。だから吉野ヶ里遺跡のどこかに埋葬されている可能性が大きい。紀州熊野に上陸したという話もあるが、その人は子孫だと考えられる。

『親魏和王の都』‥‥徐福は筑紫国を支配する王となり、吉野ヶ里で没したと伝わる。すなわち徐福が住んだ所は、吉野ヶ里であった。

徐福伝説は北は青森から南は鹿児島まで、海沿いにたくさん残されています。出雲伝承では出雲と佐賀以外の話は伝わっていないということのようです。もちろん徐福が実際にその他の場所へ訪れていてもおかしくはないと思いますが、亡くなったのは筑後平野ということです。

 

ここで再び過去記事の訂正です。 

この記事の中で海部氏の勘注系図と出雲伝承による系図の一部を載せましたが、火明命の息子である可美真手ウマシマデノ穂穂出見ホホデミは同一人物と考えられると書いておりました。以前紹介したoyasumipon様のブログでご指摘を受け確認したところ、同一人物というのは早計であったと気づきましたので訂正させて頂きます。

海部氏の系図と、次に出雲伝承の系図です。火明命はニギハヤヒと同一人物です。

(注意)出雲の系図は富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」で示された系図等に沿って改定致しました。2019.5.18.

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勘注系図日本書紀にみられるウマシマデは古事記ではウマシマジ旧事本紀ではウマシマミと記されており、物部氏、穗積氏、采女氏らの祖といわれます。そしてウマシマデの母親(登美屋姫または御炊屋姫)については、出雲伝承以外はすべて長脛彦(登美屋彦)の妹だとしています。父親はニギハヤヒとされ、記紀以外は出雲伝承を含め火明命とニギハヤヒは同一人物としています。

しかし出雲伝承によると、長脛彦とは大彦のことであり、2世紀後半の磯城王朝クニクル大王の御子です。徐福(ニギハヤヒ)は紀元前3世紀末に来日しているので時代がまったく違います。つまり出雲伝承に従えば、古事記に書かれた話に日本書紀旧事本紀も海部氏勘注系図も倣ったことになります。そして出雲伝承では火明命と市杵島姫の御子であるホホデミ物部氏の祖としているので、ウマシマデとはホホデミの後裔を表していると考えられます。

ちなみに第2次物部東征で活躍した武内タケシウチノ宿祢の弟がウマシウチノ宿祢といいますが、この人が日向から四国南岸を通って紀伊国に上陸した経路が第1次物部東征に似ているので、記紀の作者はこの第1次東征において物部五瀬が戦死した後の指揮者としてウマシマデという架空の名前を使ったのではないかと斎木氏は言われています。ウマシウチからウマシマジ

 

もう一点付け加えておきたいのですが、下の系図は斎木雲州著「出雲と大和のあけぼの」の巻末に掲載されているものをもとにして以前作成した、事代主を中心とした一部の系図です。文中には『向家伝承などによる出雲王家と親族の系図』と説明があります。(横の繋がりを記した系図が載っているのはこの本のみ)

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系図では香語山(五十猛)の母、高照姫は出雲の7代主王と宗像家田心姫の娘となっていますが、実は伝承の中では大国主と多岐津姫との娘であると頻繁に書かれているのです。

「出雲と大和のあけぼの」ではP.84に『向家(7代主王の血筋)で生まれ海部家に輿入れした高照姫』と書かれていたり、また海部氏の系図に詳しい丹後の郷土史家の話としてP.71に『奥津島姫(田心姫)はホアカリノ命の奥方の母君』とあって上の系図と噛み合います。ところがP.47には『大国主の姫君、高照姫』と他の著書と同じように書かれているところもあって、いったいどっちなんだと悩ましいところです。ちなみに海部氏の勘注系図では高照姫は多岐津姫と大己貴オオナムチの娘とされています。ややこしいです。ここも古事記に倣って変更したということでしょうか。高照姫の出身は向家、神門臣家のふたつの伝承があるということをここで付け加えさせて頂きます。

【2019.5.18 訂正】

富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」が大元出版より発行され、本文及び巻末の系図に、高照姫は神門臣家の大国主と多岐津姫の娘と記されております。今後は当ブログでもそのようにさせて頂きます。また海御蔭と神八井耳も変更されていましたので、併せて変更致します。

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さて、系図絡みでもう一点、前々からとても気になっていることがありました。海部氏の勘注系図と安曇氏の系図にみられる武位起命タケイタテなる人物が誰なのか。徐福が出雲でもうけた息子、五十猛ではないのか、という疑問です。

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海部氏の系図には五十猛という人物は見られません。

出雲伝承では射楯イタテ神は火明命の息子、五十猛イソタケからきていると説明しています。射楯神を祀る神社でも五十猛神のことと説明しています。

「出雲と大和のあけぼの」では、五十はイとも発音し、イタケ⇒イタテに変わっているとあります。「猛」は「建」の字に変えることが多いそうです。イタテからイダテ、イタチにも派生しました。因達の神を信仰した伊達氏はローマ法王に宛てた書状の中でローマ字でイタチ藩と書かれていたそうです。

また、よく名前の前に「武」とつきますが、これは将軍を意味する称号です。ブと読まれるのを避けるために「建」の字を使うこともあるそうです。なのでヤマトタケル日本武尊、倭建命)は個人名ではなく将軍という職名となりますね。

話を戻しますが、武位起命の「武」を除けば名はイタテとなります。イタテは五十猛のことでもあります。だとすると、勘注系図新撰姓氏録の安曇氏の系図にみられる武位起命は五十猛の可能性がでてきます。つまり何が言いたいのかというと、海部氏と安曇氏の系図の中に五十猛がいることになり、それが安曇氏の祀る安曇磯良博多湾志賀島を本拠地とする海人族の王。漢倭奴国王印が出土した地です。)と呼ばれる人物なのではないかという推測です。国歌「君が代」の君として讃えられ、筑紫舞の謎を解き明かすキーパーソンであり、日本の古代史上、最重要人物のひとりであるにも関わらず記紀には記されなかった人物。このブログの初期に海人族たちのつながりを調べる中でも、この安曇磯良と五十猛が重なってしまうという不思議な現象が起きました。

けれど出雲伝承の中には五十猛が九州にいたとする内容は伝わっておらず、出雲で生まれ丹波の王となり、大和や紀伊に祀られたということのみです。であればどうして九州筑紫神社で筑紫の国魂、白日別神と並んで(もしくは同神として)祀られているのでしょうか。

上記の記事にも書きましたが、筑後国風土記に筑紫神の話があり、昔この地に麁猛ラクタケキ神がいて通行人の半分を殺したため、占いをしてこの荒ぶる神を筑紫神として祀ったということです。「麁」とは荒々しいという意味で、音はソです。部首は鹿ですね。暗号として読めば麁猛でソタケ⇒イソタケ? 志賀島の鹿⇒イソラ? そうだとすれば筑紫神は五十猛となり、磯良でもあり‥‥。深読みしすぎでしょうか。

出雲伝承によれば筑紫国の名の由来は、徐福の息子の時代に筑前筑後を支配し、その頃の勢力圏を築秦国と称し、音が変化して筑紫国となったといいます。(古くは筑紫をチクシと言いました。)筑紫の神が徐福の息子であったとすれば無理がありません。もちろん伝承の通りであれば、筑紫の神は徐福の九州での息子(ホホデミ)というのが最も無理がありませんが。

他にも九州北部には五十猛神を祀る神社はたくさんあります。

さらに木の国(紀伊国)は九州から移っていったという経緯が宇佐国造家や和歌山の名草戸畔子孫に伝承されており、また紀伊国造の故地が筑紫神社後ろの基山であり、日本植樹発祥の地とされていることも、ますます紀伊の木の神、植樹の神である五十猛と結びつきます。

さらに先ほどの射楯神(五十猛神)は船玉神でもあり、船の守り神です。船といえば海人族の王、安曇磯良。別名、磯武良イソタケラ。五十猛イソタケと音がそっくりですね。神功皇后三韓併合の際、海中に住むという安曇磯良(精霊?)を呼び出し、龍神から干珠満珠を借りてこさせ、皇后は無事に三韓を平定して帰還したという伝承があります。磯良は三韓併合の守護神であり水先案内人です。こういった話は和布刈神社、風浪宮、高良大社和多都美神社などでも伝えられています。また播磨国風土記には因達イダテの里の名の由来として、神功皇后三韓併合に向かう時、船先に祀ったイタテ神がこの里に鎮座されたからとあります。こうなると磯良と五十猛はぴったりと重なりますね。

次回、さらに安曇氏と五十猛の関係に迫ります。

 

 

 

人類誕生・NHKスペシャル⑶日本へ


 

1年前の過去記事で、かつて日本列島にやってきた人たち(日本人の祖先)を、南方渡来と北方渡来にわけて詳しく紹介しました。

 

 

今回まとめているNHKスペシャルでは3回目の放送にあたります。

番組の前半は「海を渡ったのはサピエンスだけ」としてインドネシア(かつてのスンダランド)から日本へどのようにやって来たかを解説。後半は「極寒で生きたのもサピエンスだけ」として北極圏で生き抜いた人たちが、日本やその他の地域へと広がっていったことを解説しています。海と寒さを克服したサピエンスが世界を制覇したという流れです。

前回記事「人類誕生⑵」で紹介したヤナRHS遺跡の縫い針の話はこの後半からのものです。これを除くとほぼ1年前の過去記事と重なるので、今回は前半部の石垣島白保竿根田原洞穴遺跡の情報とその他をここに補足して終わりたいと思います。

 

白保竿根田原洞穴シラホサオネタバルドウケツ遺跡

石垣島のこの遺跡は2007年に空港建設中に発見され、比較的保存状態のよい4個体を含む19体以上の人骨が発掘されました。白保人と名付けられています。

成人男性の全身骨格もあり、これは国内最古の2.7万年前のものであると昨年発表されました。他の人骨も2.7~2万年前の間とされています。洞穴は風葬のお墓である可能性が高いそうです。

旧石器時代の人骨発掘としては世界的にも最大規模なのです。

今年、研究グループによって骨から顔を3D復元したところ、目鼻立ちのくっきりとした南方系の顔であることがわかりました。また頭部には外耳道骨腫(サーファーズイアー)がみられ、日常的に海に入る人だと考えられます。DNAは現在の東南アジアの人に近く、当時ではスンダランドにあたります。現在この辺りからサピエンスの遺跡が続々と発掘されています。

旧石器人、南方系の顔つきでした 石垣島の人骨から復元:朝日新聞デジタル

 

余談ですが、遺跡発掘と顔の3D復元に携わった慶応大学の河野礼子氏は、もともと人類の進化を大臼歯の形から分析する研究者です。1994年に発表されたアルディピテクス・ラミダスの化石の第一号標本の発見者である、東京大学の諏訪元氏に師事していたそうです。ラミダスといえば今回シリーズの最初に紹介した、440万年前にエチオピアにいた私たちの祖先、二足歩行するアルディのことです。それまではアウストラロピテクスのルーシーが最も古い人類とされていました。

アルディも奇跡的に全身骨格が発掘されました。その2年前、石ころの中から新たな種の小さな歯を見つけた!のが諏訪元氏であり、これがきっかけとなってアルディの発掘へとつながったのです。人類史が大きく前進しました。日本人の活躍にも感動ですが、華々しい大発見の前に積み重ねられた研究者たちの地道な努力と研鑽を感じずにはいられません。

 

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★スンダランドとは氷河期に陸地であったところ。2万年前頃からしだいに水没し始めました。緑の線は大まかな海岸線ですので参考程度に。赤丸は島などを指したので遺跡の場所は不正確です。 

 

海を渡るサピエンス

インドネシアのティンプセン洞窟で、39900年前のサピエンスの洞窟壁画が見つかりました。手形や動物、魚などが描かれています。フランスのショーベ洞窟(3.6万年前)のものよりも古いことになり、これまでサピエンスはヨーロッパで先に栄えたと思われていたことを覆す発見となりました。

さらに台湾の八仙洞遺跡から出土した大量の石器が3万年前のものであり、白保人の年代と同じ頃であることから、大陸と陸続きだった台湾から日本列島へ渡ってきたのではないかと考えられています。

また東ティモールのジェリマライ遺跡からは、マグロやカツオの仲間の骨が大量に出土し、当時すでにボートなどを使って遠洋漁業を行っていたことの証拠となりました。サピエンスはスンダランドから陸路を北上し台湾へ、そしてボートで日本列島へ渡ってきたというのが最も自然な経路と考えられます。

ただし台湾に一番近い与那国島でも110㎞も離れていて、しかも黒潮が流れています。これをどうやって越えてきたのかがまだわかっていません。人類進化学者の海部陽介氏はプロジェクトを起ち上げ、草船や竹船を作って実際に台湾から航海する実験を繰り返していますが、未だ成功はしていません。

ところがオーストラリアのマジェベベ遺跡から最古の石の斧が見つかり、これがあれば丸木舟を当時でも作れた可能性がでてきました。丸木舟は水の抵抗が少なくスピードがかなり速くなります。来年は丸木舟を作って実験する予定だそうです。

ただ疑問なのはたとえ昔と同じ船が作れたとしても、3万年前の海とは黒潮の流れも変化しているので、そのまま結果を反映させることはできないのではないかと思います。船の性能や潮流との関係などを知るには貴重な実験であり、そのあたりも考慮されてのことであれば問題ありませんが。

乞うご期待!

 

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人類誕生・NHKスペシャル⑵ネアンデルタール人の行方

  

240万年前にはホモ属(私たちホモ・サピエンスとそれにつながる種)がいて、いくつもの種が現われては消えていきました。そのうちのひとつであるサピエンスが現われたのはおよそ20万年前。この地球上には他の種とともにサピエンスが存在していました。ところがこの3万年ほどの短期間のうちに、気づけばサピエンスだけが生き残っているという、衝撃的な流れになっているのです。長い進化の歴史を見ていくと、これはホモ属の先細りとはいえないのでしょうか。そんな心配を抱えながら、ひと足先に消えてしまったネアンデルタール人について、NHKスペシャルに基づいて探ってみたいと思います。

 

ネアンデルタール人ってどんな人?

⑴ 筋骨隆々としたレスラー体型。マイナス30℃の寒さに適応するため胴長短足で、熱を生み出すための多くの筋肉を必要としました。色白で青い目の人もいたようです。(※写真はドイツのネアンデルタール博物館展示より)

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⑵ 脳はサピエンスより10%以上大きく、また骨格の構造上、話す能力があったようです。

⑶ 2年前、フランスのブルニケル洞窟から最古(17万年前)のストーンサークルが発見されました。入り口から300mも奥まったところに、400個ほどの鍾乳石を大小の円形に並べた謎の構造物です。

Nature ハイライト:ネアンデルタール人が作った古代の石筍サークル | Nature | Nature Research

その他の遺跡からもホタテ貝で作ったペンダントや鷲の爪で作ったブレスレットが出土しています。また動物の皮を加工するための道具(リソワール)を使って防寒着を作っていました。リソワールは今もエルメスの鞄職人が使っているそうです!

(★絵については番組では触れませんでしたが、今年2月にスペインの3つの洞窟の絵が6.4万年前!のものと発表され、年代からみてネアンデルタール人のものとほぼ確定しました。はしごや点で描かれた抽象的な模様や手形、簡単な動物の絵もあります。3.6万年前にサピエンスの描いたショーベ洞窟の壁画より遥かに古いのです。)

スペイン:最古6万年前の壁画 ネアンデルタール人作か - 毎日新聞

⑷ 狩猟は大型動物に武器を持って直接襲いかかる肉弾戦でした

⑸ 家族単位の小集団で暮らしていました。

 

最近の相次ぐ発見によって、従来想像されていたよりもはるかに知的で文化的だったことがわかってきました。肉体的にはサピエンスよりも寒さに強く勇猛で頑強です。

ではなぜサピエンスだけが生き残ったのか

その要因として、道具の進化と、集団の規模の違いがあげられます。

まず道具については石器で比較すると、ネアンデルタール人が25万年もの間作り続けたのは、変わり映えしない似たようなものであるのに対し、サピエンスは次々と新たな形を生み出しました。

サピエンスは4.3万年前にはアトラトルと呼ばれるてこの原理を利用した飛び道具(投げ矢)を使い始めます。(現代でもアラスカ先住民族が使っているそうですよ。)このアトラトルの発明によって離れた場所から狩りができるようになりました。大勢で笛を使って合図し合い、動物の群れに目がけて一斉に矢を放つ。自分の身は安全です。

この頃のサピエンスの遺跡をみると、集団は多いところで150人になります。ネアンデルタール人はずっと10数人の血縁のある家族だけで暮らしていました。

その後1~2万年のうちにサピエンスは次々と技術革新をして、やがて替え刃式の細石刃(長さ3㎝以下×幅数㎜のカミソリ刃)まで生み出します。

下の2枚の写真は大きさが比較しにくいですが、上の石器は縦5~6㎝、下の細石器が縦3㎝以下です。

ネアンデルタール人打製石器(剥片石器)

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サピエンスの打製石器(細石器)1.6万年前(新潟)

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北極圏、ロシアのヤナRHS遺跡(3.1万年前)では、永久凍土の中からマンモスなどの大量の骨とともにサピエンスの石器やアクセサリーなど10万点が出土しました。ネアンデルタール人のように寒冷地適応もせず、どうして極寒の大地に住むことができたのでしょう。

それは縫い針の発明でした。動物の骨でできたケースの中から、マンモスの骨で作られた縫い針が103本も出てきたのです。形は現在私たちが使っているものと同じです。大きさは5~10㎝。もちろん小さな針穴が空いています。これを使って毛皮を縫い合わせて防寒着を作ったのです。3万年前に。

以前の記事で紹介しましたが、道具の小型化、軽量化は移動する際に非常に便利です。北極圏ではマンモスを追って移動します。気候変動によっては長距離の引っ越しもやむを得ません。(北極圏から中国、日本列島、アメリカ大陸へ。)そんな時、重い石器よりも小さなカミソリ刃のほうがたくさん持ち運べますよね。このこともサピエンスが世界中へ進出できた理由かと思われます。

このような精密な道具を作るには、完成形をイメージしながら、たくさんの行程を経なければなりません。現代人で実験したところ、道具を作る時には脳のブローカ野という言語野が活性化します。脳の使い方として、道具を作るために手順を並べることと、伝えるために言葉を並べることは同じだそうです。つまり道具作りも言語も、目標に向かって順序立てて考えるという共通点があり、これらはともに進化してきたといえるようです。ネアンデルタール人も言葉を話せたようですが、ただ複雑化はしなかったため、道具も単純なものに留まったのではないかと。

次に集団の大きさと脳の違いについての研究によると、ネアンデルタール人の大きな脳は、後頭野の視力を司る部分が発達していて、暗闇や遠いところでもよく物が見えるように進化したそうです。一方サピエンスは社会的な関係性を司る前頭葉頭頂葉が拡大しています。集団の中で生きることができるように進化したのですね。集団が大きければ道具の革新も多くの人に広まり(情報の伝達、共有)、改良も進みます。

また生後1年未満の赤ちゃんに対する人形を使った実験があります。箱を開けようとしている人形に対して、邪魔をする人形と助ける人形のどちらを好むか試したところ、ほぼすべての赤ちゃんが、協力して助けることを好むという結果がでました。これは私たちはもともと、他者を助け協力したほうがよいという感覚をもっているということです。サピエンスは力は弱いけれど、協力的な性質という強みをもっているのです。弱いからこそ協力が欠かせないともいえますね。ここでも弱みから強みへの転換です。

3.5万年前のロシアのスンギール遺跡には400人の大集団が暮らしていたそうです。もう「社会」ですよね。この遺跡からは死者への埋葬品として世界最古の指輪や頭飾りなどが出土しており、すでに原始的宗教が始まっていたと考えられます。他にも同時代のフランスのショーベ洞窟には空想上の生き物を描いた壁画がみられ、これは儀式を行うシャーマンではないかとも言われています。宗教のように同じものを信じる力や連帯感が、大きな社会を生み出していったのではないか、と考えられています。

ショーベ洞窟壁画(3.6万年前。写真は通常の動物を描いたもの)

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道具作りと言葉の同時進化、そして集団を作って協力し合う特性、さらに情報やイメージの共有もできたことがサピエンスの生き抜く力となっていったようです。

 

ラストメッセージ

その後、ヨーロッパではハインリッヒイベントと呼ばれる気温の極端な乱高下が始まり、森は消え、生き物は激減していきました。そんな中、サピエンスは大集団同士の交流によって、遠く離れたものたちが食糧を分け合って危機を乗り切ったのだろうといわれています。こうしてしだいにサピエンスが生息域を増やしていく中、家族単位のネアンデルタール人は減少していきました。獲物も減り、大きな体を支えるための大量のエネルギーが確保できず、また狩りで命を落とすリスクもありました。助け合う仲間もいません。

ネアンデルタール人の終焉地は、ヨーロッパ南端のジブラルタルにあるゴーラム洞窟とされています。海の向こうにアフリカ大陸が浮かんでいます。2万数千年前、この洞窟の中に最後のネアンデルタール人がいたのかもしれません。4年前、ここで「ハッシュタグ」と呼ばれる謎の刻印が見つかりました。繰り返し石を削って刻まれたもので、意味も何もわかりません。最後のひとりが刻んだメッセージでしょうか。何を残そうとしたのでしょう。 

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石に刻まれた線だけを浮かび上がらせたもの。

 

その後、地球上の人類はサピエンスだけとなりました。体は弱くても道具を生み出し、協力し合う強みをもったサピエンスです。けれど1万年前のサピエンスの多くの頭蓋骨に、石の斧による穴が見つかりました。人類最初の戦争はサピエンス同士だったようです。生み出した道具が自分たちを傷つけました。

 

まとめ

ホモ属が地球に登場して240万年。いくつもの異なる種と共存しながら多様性が保たれていました。サピエンスはネアンデルタール人だけでなく、確認されているだけでもデニソワ人とも交配しています。そうやって遺伝子を複雑にしながら、環境への耐性を獲得してきたのでしょう。ところがこの短期間の間に生存者はサピエンスだけになりました。私たちが消えると人類は絶滅します。戦っている場合ではないのです。

数年前、ハーバード大学ジョージ・チャーチル博士が遺伝子工学の新技術によって、ネアンデルタール人のクローンを生み出す計画を発表しました。代理母を募集するというのです。倫理的、生物学的な問題と同時に、このような発想をするということがサピエンスなのかと、複雑な思いに駆られました。

完成形をイメージして手順を踏んで現実化していくというサピエンスの能力があるからこそ、私たちは今ここに存在しています。絶滅の危機を何度もくぐり抜けたサピエンスの力は、きっとこれからも発揮されることと思います。ただ、そこに地球が、宇宙が、この先もずっと寄り添ってくれるかどうかはわからないな、と思ったりもして。

 

さて、ネアンデルタール人の#ラストメッセージもまた、永遠に解読されることはありません。ですがこの体には彼らのDNAが受け継がれています。DNAに託されたもの。遠い遠い祖先たちのメッセージは、この命を今も支えてくれています。

 

 

 

 

人類誕生・NHKスペシャル⑴700万年を辿ってみる

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今回は出雲王国から離れて、久しぶりに地球史を書いてみたいと思います。

1年前に「DNAが語るホモサピエンスの旅」という記事の中で、私たちの祖先がどのようにアフリカから世界へ広がっていったのかをまとめました。

 

 

今年の春から初夏にかけて、NHKスペシャル「人類誕生」が3回シリーズで放映されました。そして先日、リメイク版としてBS1で再放送されました。内容としては上の記事や「日本列島を目指した人たちがいた⑴ ⑵」と重なりますが、新たな情報もあり、とてもよくまとまっていたので、改めて紹介したいと思います。番組は3回連続もので、タイトルが

⑴ こうしてヒトが生まれた

⑵ そしてヒトが生き残った

⑶ ついにヒトは海を越えた

となっています。ここではタイトルを変え、一部順序が入れ替わるところもありますが、大まかには筋通りとしています。

(注)以前の記事や他からの情報は青で色分けして書き込みます。年代については研究機関によりばらつきがあります。

 

人類誕生 

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 700万年前、人類とチンパンジーが進化の上で枝分かれしたと考えられています。両者のDNAの違いはたった1.6%だけだそうです。実際には数字ほどの差もないらしく、遺伝子のスイッチがONかOFFかの違いだけともいえるそうです。そんなちょっとした違いが、これから述べる進化の上で劇的な変化を生んでいくのですから、不思議というか奇跡というほかないような気がします。

それでは人類の進化の過程を大まかに追ってみましょう。

440万年前エチオピアに人類の祖先であるアルディピテクス・ラミダスがいました。身長120㎝ほどで手足が長く、足は手のように指が長いので樹上でも暮らせます。骨盤は二足歩行に適した横広がりの形をしています。これまで最古の人類としてアウストラロピテクスのルーシーが有名でしたが、ずいぶんと遡りましたね。こちらはアルディと呼ばれ、奇跡的に全身骨格が発掘されています。他にも部分的な骨だけであれば、さらに古くから二足歩行していた可能性のある属も発見されています。歴史は常に更新されていきます。

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アルディの歩行姿勢 Wikipediaより

アルディは樹上生活も大地を歩くこともできます。言い方を変えれば、樹の上はサルより苦手、走るのは他の四つ足動物より遅いわけです。そんな中途半端な者がどうして生き残ってこれたのかというと、大地の大変動によって、彼らの弱みが強みへと転換したからです。

アフリカではマントルの上昇によって山脈が現われ、それより東側では乾燥化が進み、樹の減少とともに森の恵みが激減してしまいました。食糧を得るには遠出をしなければならず、ラミダスの二足歩行が有利となりました。ある環境では弱みであったことが、別の環境では最大の強みとなるのですね。パラダイムシフトです!

また家族が生まれつつあったとも考えられていて、それにより夫婦で子育てを行うことで子孫繁栄につながったようです。

370万年前には大地はさらに乾燥が進み、草原化していました。猛獣が多く、隠れるところもないため危険な環境です。トラやライオンのいる草原を丸腰で歩くわけですから。そんな中、10人以上の集団となって行動する者たちが現われました。アウストラロ・アファレンシスです。武器は木の枝や石だけですが、集団で行動することでかろうじて身を守りました。

240万年前、ホモ属(私たちホモ・サピエンスとそれにつながる種)が現われます。ホモ属はひ弱だったのに、他の頑強な種が絶滅していく中で生き残っていったのです。ホモ・ハビリスは石器を発明しました。発明というより、偶然生まれた道具を使い始めたというものだったようですが。食糧が乏しい過酷な環境の中で生み出した道具によって、他の頑強な種よりも有利となりました。

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復元像 Wikipediaより

180万年前にはホモ・エレクトスがいました。(のちにアフリカを出てアジアへ広がります。ジャワ原人北京原人と呼ばれる種も主にこれに属すそうです)

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復元像 Wikipediaより

体毛が薄く身長180㎝とスラリとした体型です。大型草食動物を捕らえ食べていました。狩られる側から狩る側への転身です。エレクトスの骨盤には大きな大殿筋がついていて、優れたランナーだったといわれます。体毛が薄いので体温も上がりにくく長距離を走ることが可能になっていたそうです。また栄養豊富で消化の良い肉を普段から食べるようになったことで腸が短くなり、消化のエネルギーが脳へ回され知能が上がったと考えられています。発掘された頭蓋骨に歯がないものがあって、これはそのような弱者も仲間に助けられて生きることができたということであり、集団で支え合う思いやりの心という人間的な性質の誕生と思われます。

60万年前には大きな脳をもったホモ・ハイデルベルゲンシスがいました。

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復元像 Wikipediaより

その後ヨーロッパや中東で進化したのがネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)であり、アフリカで進化したのが私たちホモ・サピエンスです。

20万年前にはエレクトス、ネアンデルタール人、サピエンスが同時に存在していました。デニソワ人、フローレス原人も。まだ発見されていない種も存在した可能性はあります。

 

二足歩行⇒家族、集団行動⇒道具を作る⇒狩猟⇒脳の発達、心の複雑化

 

19万年前から長い氷期が始まりました(6万年ほど続きます)。

ヨーロッパで寒冷地適応していたネアンデルタール人は生き残り、アジアの北京原人にはさほど影響がなく、アフリカのホモ・サピエンスは絶滅の危機に立たされました。

アフリカは氷期によって乾燥が進み砂漠化していきました。アフリカ大陸の南端にあるピナクルポイントという岬へ逃げたものたちは、かろうじて氷期を乗り越えますが、1万人以下まで激減したそうです。これはボトルネック現象といって、現在76億人もいる私たち人間の遺伝子の違いが少なすぎるということから、いったん激減した遺伝子がのちに増え、そのために多様性が失われたのだという考えに基づいています。

絶滅の危機を救ったともいえるピナクルポイント(岬)の洞窟で、炉の跡や石器、貝殻がたくさん出土しました。貝が採れる場所はアフリカでは極めて珍しく、ここへ逃れてきたサピエンスは、この未体験の食べ物に果敢に挑戦したということになります。これぞ好奇心!

生きるため、森から草原へ、そして海辺へ。私たちの祖先は未知のゾーンへと踏み込んでいったのです。

 

以前記事にまとめたスティーブン・オッペンハイマーの説によると、12.5万年前には間氷期にあたる温暖化が訪れました。サピエンスは紅海西岸で海岸採集と狩猟によって生活していた痕跡が見つかっています。しかし8.5万年前に再び氷期となり海面が一気に80m下降、塩分濃度が上がり海産物が減少します。向かいのアラビア半島南部は湿潤なモンスーン気候のため、サピエンスは対岸へと移っていきました。これが南回りの出アフリカです。

 

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以前の記事で使った出アフリカの地図ですが、そこにピナクルポイントを書き込みました。

 

NHKスペシャルに戻ります。アフリカを出たサピエンスのその後です。

3年前、イスラエル北部のマノット洞窟から5.5万年前のサピエンスの頭蓋骨が発掘されました。そこからわずか40㎞離れたアムッド洞窟から同時代のネアンデルタール人の頭蓋骨が出土しました。これがサピエンスとネアンデルタール人が同時代に同じ場所に存在したことの初の証拠となりました。お隣さんだったのです。

現在、アフリカのサハラ砂漠以南の人を除く世界中の人々のDNAには、ネアンデルタール人のDNAが約2%含まれています。あなたにも私にも。このことが示すのは、アフリカを出たサピエンスがまもなくネアンデルタール人と出会い、交配し(番組では5.5万年前頃としています)、しかもサピエンスの集団はかなり小さなものだったということです。そして両方のDNAを持ったこどもたちが世界中へ広がっていきました。

サピエンスがネアンデルタール人のDNAからもらったものには、アフリカにはなかったウイルスの免疫遺伝子や、高緯度適応遺伝子(日射量の少ない地域に適した白い肌の遺伝子)があります。

異種混合によって、新たな環境に適応できる力をつけていったのです。

ネアンデルタール人と近縁のデニソワ人もこの時期共存していました。デニソワ人の発見は2010年です。現在のメラネシア人はデニソワ人からDNAを数%受け継ぎ、チベット人にも影響がみられ、中国南部やイヌイットにもその可能性がありそうだということです。今年8月に発表された研究では、9万年前の少女の骨片から、母がネアンデルタール人で父がデニソワ人という分析結果が出たそうです。交雑の第1世代の子が見つかる確率を考えると、特に稀なことではないのかもしれませんね。

また同時期にインドネシアには小さな体のフローレス原人がいましたが、エレクトス(ジャワ原人)が島に取り残されて独自の進化を辿ったという説が強いようです。サピエンスがやって来た頃に絶滅しています。

 

ではネアンデルタール人どうしていなくなってしまったのか。次回に続きます。

 

 

 

訂正のお知らせと新情報

先日、読者のP様よりご質問を頂き、調べていくうちに過去記事を訂正しなければならないと気づきましたので、取り急ぎお知らせ致します。

以下の記事の中で、曙立王物部朝倉彦と書いておりますが、出雲伝承において同一人物ではないことがわかりましたので、訂正させて頂きます。申し訳ありません!

気づくきっかけを与えて下さったP様に感謝致します。

 

 

斎木雲州著「古事記の編集室」P.129に〈西軍の曙立王は奈良の磯城郡登美家の分家で、筑後の朝倉に誘われて行き物部軍をひきいて来た〉とあります。曙立王の出自を調べてはいたのですが、この一文、見事に見落としておりました、、、m(_ _)m

谷戸貞彦著「サルタ彦大神と竜」では登美曙立王と記されています。

西出雲王国の終焉において、和秤宮で出雲の山崎帯王と東征軍将軍が講和条約を結ぶ場面で、「古事記の編集室」では将軍として曙立王を、勝友彦著「親魏倭王の都」では物部朝倉彦、「山陰の名所旧跡」では曙立王、と記されていたことなどから同一人物と勘違いしてしまったようです。古事記には曙立王の名前を『大和・磯城・登美・豊・朝倉・曙立王』と書かれていることや、2人がともに行動していたことから結びつけてしまったのだと思われます。以後、このようなことがないように注意致しますので、皆さまも大元出版の出雲伝承と合わない点にお気づきの際は、ご連絡頂けますとありがたいです。

ただややこしいことに、大元出版の伝承本の中でも相違点がありますので、私は迷った時はできるだけ斎木氏を基準とし、また斎木氏の著書の中でも違いがある場合は新しく出版された著書の記述を優先するようにしております。その点はご了承ください。

 

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続いて、頂いたコメントの中の新たな情報を紹介したいと思います。

 

養老の鴨山 

 

Y様は昨年末に柿本人麻呂の痕跡を辿って、終焉の地と言われる千葉県市原市養老へと足を運ばれました。

斎木雲州著「万葉歌の天才」から一部引用します。

流刑地上総国で時々、近所の養老川付近を散策した。石川の南方に鴨村があり、鴨山(松尾山とも呼ばれる)があった。鴨神社は今は合祀されて、高滝神社になっている。‥‥その鎮守の森が鴨山だった。人麿は鴨山を好み、よく登った。そして自分を鴨山に葬って欲しいと言った、と伝えられる。

鴨村や鴨山というのが地図上では探せません。明治時代の古地図にも見当たりませんでした。

Y様はこの養老の鴨山を求めて高滝神社に行かれたのですが、神社関係者の方々は何もわからないということだったそうです。その後も高滝神社奥宮や周辺の神社を訪ねられましたが情報は得られず。今回さらに高滝神社の南方(養老川の上流)10数㎞のところにある大多喜町養老渓谷へ行かれた際に、地元の方から「粟又の滝」の粟又とは昔は高滝とも言っていたと教えて頂いたそうです。

ネット検索で調べたところ、粟又の滝は千葉県随一の有名な滝だそうで、紅葉の時期などは素晴らしい景観のようです。もとはこちらが高滝だったらしく、市原市にダムができてその周辺を高滝と呼ぶようになったとも。ただし高滝神社は平安末期にはすでにあったようなので、実際のところはわかりません。

人麻呂もこの養老川の移ろいゆく景色の中を、ひとり歩いていたのかもしれませんね。

養老の鴨山にはなかなか辿り着けませんが、市原市の市史など郷土資料を探ってみると古い地名がわかるかもしれません。不思議なほど周辺に「加茂」と名のつく公共施設(橋、広場、市役所、郵便局、学校など)が多いですので、大切な名前であることは確かです。

Y様、貴重な現地情報をありがとうございました。

 

 

広田神社の古地図 

 

T様より広田神社境内に西宮市の古地図があることを教えて頂きました。ありがとうございます。

以前参拝した時には見過ごしていたようで、先日改めて行ってきましたので写真で紹介しますね。

光が反射して読み辛いですが、3~4世紀の西宮の入海が描かれています。西宮神社砂州の上にあり、広田神社から西宮神社まで船で渡ったという昔の歌のとおりの地形となっています。この地図では夙川は入海へ向かわず、現代と同じように南へまっすぐに下っています。

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こちらの江戸中期の地図には武庫郡と莵原郡の境が描かれています。

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神門を抜けて突き当たりを右へ行くと拝殿、左へ行くと古地図の看板が立っています。

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神社拝殿です。

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広田神社の詳細はまた改めて紹介します。

 

 

筑紫舞

 

このブログを書き始めた最初の記事は筑紫舞でした。宗家の西山村光寿斎さんと親しくされていたというM様より、コメントを頂きました。光寿斎さんとの交流の日々を思い出して懐かしくなったとのこと。ツイッターで紹介もして下さいました。ありがとうございます。

光寿斎さんは九州王朝説を唱えた古田武彦氏とともに筑紫舞の起源を探られていたのですが、M様によるとのちに光寿斎さんは古田氏から離れてしまわれたそうです。すべてを氏の九州王朝説へ結びつけようとされたのかもしれません。憶測ではありますが、当時より光寿斎さんの古田氏への多少の反発を感じる言葉がみられましたので。

一度は途絶えかけていた筑紫舞ですが、現在は光寿斎さんのお嬢様やお弟子さんたちが地元で継承されており、また宮地嶽神社宮司さんたちが毎年神事として筑紫舞を公開されています。ところがM様の言葉で気になったので調べてみたところ、神社のホームページには「伝承されていたものは宝物だけではありません、それが筑紫舞」「代々宮地嶽神社宮司だけが舞う秘曲がある」などと書かれており、これではまるで古来よりこの神社が筑紫舞を受け継いできたような印象を与えてしまいます。

宮地嶽神社の古墳で神舞を奉納していたのは宮司さんではなく筑紫舞継承者の傀儡師たちであり、また27年前の当時の光寿斎さんの記述では「当神社に関係の有無に関わらず、自分たち(宮司)が習って残すことを努力しましょうと申し出て下さったので、まずは5年間の契約で伝承を始めた」ということです。往古のことはわかりませんが、光寿斎さんが現われる前は宮地嶽神社には何も継承されていなかったという事実を伝えなければ、古墳の被葬者のことも含め、より混迷してしまいます。

 

正史には登場しなかった筑紫舞ですが、だからこそ私たちが見逃している何か重大なことを伝えようとしている存在に思えてなりません。出雲の勉強をしているとつい忘れそうになりますが、でもやはり心のどこかにいつも存在していて、時折波光のようにきらきらとした輝きを放つのです。

いつかこの不思議な存在が、そのベールを取り去るときが来るのでしょうか。

 

 

ブログのご紹介

5月にO様よりコメントを頂いておりましたが、こちらの都合でその頃から長期休暇に入ってしまい、古代史探究からしばらく遠ざかっておりました。今回再開した折、O様がご自身のブログ内でSOMoSOMoを紹介して下さっていたことを知りました。本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

出雲伝承 関連ブログ | oyasumiponのブログ

 O様も出雲の伝承を研究されており、ひとつひとつ丹念に検証を積まれています。当ブログでは出雲伝承を基本肯定し、その存在を少しでも多くの方に知って頂きたいとの思いから、伝承のまとめブログのような形をとっておりますが、O様のような検証が本来欠かせないものと思います。気になる点をひとつひとつ、非常に深く掘り下げておられます。私も伝承の中に疑問が湧くことがあります。なのでこちらのブログも読ませて頂きながら、自分なりの検証にじっくり取り組んでいけたらと思っています。

詳しいだけでなく、理論的にまとめられている記事もわかりやすく面白いです。

出雲王家について | oyasumiponのブログ

 

 

 

西宮えびす(西宮神社)⑶沖のえびすと三郎殿。えびす信仰について

 

 

 

沖ノ戎 おきのえびす

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明治5年に現荒戎町より西宮神社境内に移された沖恵美酒神社です。南のえびす門を入って左手になります。 

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恵美酒エビスに「酒」の字が使われていますが、西宮は灘の酒の産地です。また事代主は三輪山でも酒の神として祀られています。なるほどとは思いますが、こんなふうに字が変わっていって意味まで変化するということが起こるわけですね。

古代の地層の話に戻りますが、この辺りは川が運んだ砂レキ層の上に成り立っています。この砂レキ層を流れる六甲山からの地下水と、古代入海だったところを流れる栄養豊富な地下水とが合流する500m四方の場所にだけ湧く宮水(西の宮の水)が、酒造りには最高なんだそうですよ。ここに灘の名門酒蔵の井戸が密集しているんです。

 

さて、続いて三郎殿についてです。西宮神社史話の中でもどのような神かわからないとされていました。

出雲伝承を七福神と聖天さん」より紹介します。

大国主西神社では三郎殿を建て、同じ出雲の神の事代主大国主の三男としてまつった。平安末期に書かれた「伊呂波字類抄」に、西の宮には夷社と別に三郎殿という社があって、そこに南宮の神と百大夫の神などがまつられたとの記事がある。》

 記紀では事代主は大国主の息子ということになっています。出雲伝承では別の王家血筋です。なので親子ということはないのですが、記紀を参考にした者が類推して三男だということにしたのだろうということです。古事記の中では大国主とヤガミ姫の間にキノマタの神、次にタキリ姫との間にアヂスキタカヒコネ、3番目にカムヤタテ姫との間に事代主が生まれています。

伊呂波字類抄によると三郎殿には主神である事代主とその息子、諏訪の建御名方神記紀では大国主の御子)、そしてサルタ彦大神も祀られていたということです。なんだか出雲御殿みたいです。

 

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三郎殿の建てられた場所についてですが、これがなかなかわかりにくいのです。西宮神社史話には書かれていません。「七福神と聖天さん」から読み解けば、沖ノ戎と三郎殿が同じものを指すということが見えてきました。

上の地図に沖ノ戎があったと言われる現在の荒戎町を囲みました。「貞享三年古絵図」(1686年)には戎ノ社の境外南西二、三町ほどの田んぼの中に、沖ノ戎ノ社が描かれているそうです。奥戎社とも書くようです。通称、荒戎アラエビス

戎ノ社より海側に建てられています。事代主は豊漁の神、海運の神ですからね。

 

出雲伝承では、西宮は海上交通がますます盛んになったために、大国主よりも海の神・事代主をお参りする人が増え、やがて西宮の本殿に事代主を祀るようになり、戎ノ社と呼ばれるようになったといいます。そして大国主西神社は摂社に移されたと。

海側の三郎殿もえびす神(事代主)を祀っているわけですので、戎ノ社がふたつできたことになり、そのため三郎殿は沖ノ戎と呼ばれるようになりました。そして本殿の戎ノ社は和魂を、沖ノ戎は荒魂を祀ることになったということです。

ただ、これを南北朝時代(1336~1392)のこととして書かれていますが、違和感を覚えます。えびすの名は平安末期から現れていますし、大国主西神社の名は延喜式神名帳以来みられません。南北朝(室町)ではなく源平の頃(平安末期)であればわかります。

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出来事と時間の経過をみるために書いてみました。式内社にまでなった大国主西神社が消えていくとはどういうことだろうと思っていましたが、浜南宮が勢いをもつまでに200年も経っています。今から200年前といえばペリーが浦賀にやってくる35年前です。多くの人が自分の先祖のことすらよくわからない遠い時代ですよね。今は学校教育やテレビ、本などから知識を得られるので江戸時代の風習をなんとなくでも知っていますが、そうでなければごく一部の人しか知り得ないことがほとんどでしょう。

たけき者もついにはほろびぬ‥‥。

大国主西神社が浜南宮に取り込まれていくとき、西の宮という呼び名だけが残ったということが可能性として高いわけですが、大国主の名がどうして消えてしまったのか、腑に落ちません。祭神として八祖神などと名を変えなくとも、大国主として残っていてもおかしくないのになと。

そして平安末期に文献上突如現れる「えびす」という神の名が、実は蝦夷エミシ(出雲王家子孫が東国に築いた国の人々)から来ているというのなら、これこそが大国主ではないかと思い始めたのです。

エミシという言葉には、普通の人の100倍も強いという意味もあります。葬られた出雲を陰ながら慕う人たちから生まれたイメージかもしれません。

当時の中央政権は東北方の蝦夷に対する守護神として、四天王のうち最強の毘沙門天を祀ったそうです。(「七福神と聖天さん」より)

ところが、えびす神が神仏習合した際の本地仏は、毘沙門ビシャモン不動明王なのです。何かおかしいですよね。

横道にそれますが、毘沙門天について説明を加えます。

仏教の毘沙門天は武神ですが、もともとインドではクベーラ神と呼ばれ、ワニを畏れ祀ったのが始まりだそうです。のちに財宝を授けるヒンズー教の神に変わります。出雲ではクンピーラと呼ばれワニ神とされ、金比羅神社で祀られます。讃岐では金刀比羅宮、コンピラさんですね。祭神は大物主となっていますが、大国主、事代主のことでしょう。出雲の神さまたちがここには祀られています。つまり毘沙門天の始まりは出雲の神さまなわけです。

日本で初めて四天王を祀ったのは聖徳太子。大阪の四天王寺ですね。その後、中央政権は蝦夷から都を守護するために毘沙門天を祀ることになるわけですが、これってもとは出雲の神だと知らずのことなのでしょうか。敵の祀る神でもって敵から身を守る。おかしなことになっています。

どちらにしても、出雲と蝦夷毘沙門天には強い繋がりがあったのです。その代表者としての大国主が「えびすの神」ではないのかと。

う~ん、でもやっぱりえびす様といえば事代主。それを大国主だというのは無理があるのかなぁ‥‥。出雲伝承ではそれに繋がる話は見当たりません。

気になってさらに調べていたところ、西宮神社の先代宮司である吉井良隆氏の著書「えびす信仰辞典」に出会いました。この本には三郎殿についても詳しく書かれています。一世代前の吉井良尚宮司のまとめられた西宮神社史話では三郎殿については不明だとされていましたが、それぞれに研究され見解が違うところもあるようですが、とても興味深いので紹介したいと思います。

 

えびす神の源流

 注)本の中でと表記されているところは、ブログ内で揃えるためにと変えています。

まず、三郎殿は事代主であることは間違いないとされています。さらに面白いことに、えびす神は大国主であると。伊呂波字類抄に記されたようにもとは戎と三郎殿は別の神格、社をもっていたものが、いつのまにか戎三郎殿とまるで一つの神として祈るようにもなったのは、それらが同族であるからだと。

平安の頃に西宮から分霊したとみられる東大寺八幡の八幡宮神社記」には、二ヶ所の戎社があり、共に祭神は二座で、大国主と事代主とを祀ったということが伝えられているそうです。西宮本社とは別に古説を伝えたものと考えられるそうです。

室町時代吉田兼俱吉田神道創始者)は、戎は大黒であり、大黒はもと大国主であるとしています。

江戸中期の辞典「和漢三才図絵」には西宮の祭神三座は天照大神蛭子神素戔嗚神とし、相殿に大已貴オオナムチ大国主の別称)、事八十(兄弟八十の間違いで、大国主の兄たちのこと)の二神を加えて全部で五神としています。「諸社一覧」「神社啓蒙」にも同じことが記してあります。

吉井氏はさらに、記紀以前は日神のヒルメと、海神的性質をもったヒルコが天下の主たる者として対立していたとし、記紀によって敗者ヒルコが蛭子として貶められ、海の彼方へ去っていったとみています。ですので古くは、

えびす神(大国主)=偉大なるヒルコ神

三郎殿(事代主)=敗者としての蛭子神

として認識されていたものが、しだいにヒルコ神が忘れ去られてしまった。つまりえびす神の原初の姿は蛭子ではなくヒルコであると。

これは出雲伝承で言われるところの、日女であるヒル日の子であるヒルに近い解釈だと思います。出雲の太陽の女神・日女を祀る幸姫命とその子孫=日の子である大国主や事代主。それが記紀では天孫天照大神・オオヒルメムチとなり、敗れた出雲の王は蛭子として描かれ海に流されたわけです。

西の宮の主体は本来大国主西神社であり、主祭神大国主こそがえびす神の源流であり、それが事代主と変わったのは、西宮が海辺の町として発展していく中で、人々が海の神を必要としたからであり、海に流され帰ってきた蛭子神がそこへ重ねられたということのようです。

もとは摂社末社であったはずの三郎殿が戎本社よりも人気が高まり、その結果戎社は三郎殿によって維持されるような形となった。(出雲伝承の伝えるところの、沖ノ戎から本殿に事代主を移し、大国主西神社を摂社としたということか)

本来は戎社と三郎殿の二社であったものが、特別に親しい間柄だったために戎三郎とも呼ばれ、あるいは戎といえば三郎も含み、三郎といえば戎も含んで、ついには戎三郎と一社のように思われていきました。戎三郎というひとつの神として民衆の間でも祈られるようになった時、そこには魚を抱えたえびす様の神像が投影されていったということでしょう。

西宮の傀儡子たちが室町時代以降、人形芝居を行った演目の中で、えびす様は津美波八重という名の事代主であるとか、少名彦はえびす様の別名であるという台詞も含まれており、すでに「えびす=事代主」と受け止められていたようです。(「七福神と聖天さん」より)

以上、出雲伝承ではありませんが、えびす神の源流は大国主であるという説の紹介でした。

 

 

さて、戎社は平安以来、文献にみられるだけでも厳島に始まり、石清水八幡宮東大寺八幡宮日吉大社北野天満宮住吉大社、そして鎌倉になると鶴岡八幡宮聖福寺へと勧請されました。全国の信者たちが遠く西の宮まで行かずとも手軽に参詣できるようになったのです。有名どころだけでなく、もともと大国主や事代主を祀っていた神社がえびす神へと変わっていった神社も含めれば、どれほどの数にのぼるでしょう。現代でも西宮や大阪今宮戎の十日えびすの人気をみると、えびす信仰の根強さに驚きを覚えますが、もとを辿ればこの国で2000年を超えて慕われ続ける大国主や事代主がその源流にあるからなのですね。突然現れた外来の神といったものでは、ここまで深く根付くことはできなかったでしょう。

 

遥か古の出雲王国時代に、主王の大名持オナモ、副王の少名彦スクナヒコが共に全国を巡りながら国を治めていったその姿を、王国滅亡後も長きにわたる時代の変遷を越えて戎三郎殿として、そして今では大黒様とえびす様の並んだお姿として私たちが目にしているという奇跡に、なんとも不思議な宇宙の采配を感じます。

そしてここには闘う武神としてではなく、米俵や魚、財宝といった恵み、豊かさの象徴として人々の願いを叶えてくれる親しみやすい神さまのお姿があります。まさに出雲王国時代の穏やかな神々のお姿です。

主王・大名持=大国主(八千矛)=えびす=大黒

副王・少名彦=事代主(八重波津見)=三郎殿=えびす

 

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3回にわたって西宮神社を紹介してきましたが、最後にまとめを。

 

そもそも、西の宮とは

 広田神社 ⇒天照大神の荒御魂=幸姫命

 大国主西神社=戎ノ社 ⇒大国主

 三郎殿=沖ノ戎 ⇒事代主

 南宮 ⇒建御名方(諏訪大明神

 百大夫神社 ⇒サルタ彦大神

であるので、ここは出雲の幸の神の宮、「幸の宮」だったということになりますね。

 

長くなったので、おまけになりますが、西宮神社境内の紹介しきれなかった神さまのお写真を。

 

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梅宮神社。祭神、酒解神

 

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宇賀魂神社。祭神、宇賀御魂命。

 

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市杵島神社。祭神、市杵島神。

 

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松尾神社。出雲のお酒の神さまです。

 

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神明神社。祭神、豊受比女神。

 

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六甲山神社。祭神、菊理姫命。六甲山頂に往古より石宝殿があり、のちにここへ勧請したそうです。

 

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火産霊神社。祭神、火皇産霊神。俗称、愛宕あたごさん。出雲に先祖をもつ役行者が京都の愛宕山出雲族の信仰する雷神を祀ったことから、のちに火伏の神とされて愛宕神社になったと伝承は伝えています。

 

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庭津火神社。祭神、奥津彦神、奥津比女神。昔は荒神でした。祠はなく、塚形の封土を拝むようになっていたそうです。

 

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児社。南宮神社の末社