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源流なび Sorafull

古代海人族たちを結ぶ糸(4) 誰が徐福たちを運んできたのか? 越人vs倭人

 

 

(2017年9月17日改稿) 

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紀元前770年~同403年 春秋時代

 

大陸の海人族、越人

中国では長江より南のベトナムに至る広大な地域に、百越(ひゃくえつ)と呼ばれる越人の諸民族集団漢民族ではない)がいて、春秋時代には呉や越の国を構成しました。

三国志魏書倭人に「夏王朝の少康の子は会稽の王にされると、髪を短くし体に入れ墨をして大蛇の害から身を守った」とあります。夏王朝とは中国最古の王朝(紀元前1900年~1600年頃)で、6代帝少康の庶子(跡継ぎではない子)が会稽の王(越の始祖)となったときのことを記しています。倭人伝では倭の海人たちも入れ墨をしているが、同じように身を守っているのだとあります。

司馬遷史記によると、周の後継者から外れた太白と虞仲の兄弟は、呉の地に至り首長となったとき、全身に入れ墨をしたと記されています。二人はのちに呉を建国します。(太白には子ができず、弟の虞仲の子孫が呉を継いでいきます。魏略に記された「(倭人が)古い言葉を使う。我らは太白の後裔であると自ら言う」の話は太白の直接の子孫ではあり得ないので、呉の末裔という意味でしょう。魏書では省いていますが)

このふたつの話から見えてくるのは、越と呉の土地にはもともと入れ墨をした漁労民たちが住んでいて、皇帝の血筋の者が現地に同化するために入れ墨をしたということです。

越人は稲作に漁労(半農半漁)、高床式住居の文化を持っていました。さらに呉、越は水軍をもち航海に長け、銅の精製技術をもっています。

会稽の近く、河姆渡(かぼと)遺跡は中国最古の米、7000年前の陸稲の籾(熱帯ジャポニカ米を含む)が発見されたところです。高床式住居、そして漁労も行われていたようで、越人の祖先と言われています。この沿岸から遭難して九州沿岸に漂着する船が最近まであったといいます。2日で着くらしいですよ。ちなみに岡山の貝塚から河姆渡遺跡と同じ熱帯ジャポニカ米が大量に見つかっていて、6000年前のものだとか。

 

紀元前473年 呉を倒した越は都を会稽から琅邪(現在の山東省)に遷します。(徐福は斉国の出身。始皇帝とは琅邪で会っています)船で逃げた呉の集団もいたでしょう。

紀元前306年 越が楚に滅ぼされ越人は船に乗って東海へ四散します。

紀元前206年 秦が滅び前漢が起こり、南方の非漢民族(百越)を弾圧します。

 

この紀元前500年以降、国を失い逃れた人たちが船で日本へやってくることは考えられます。中国の文献に残されている倭人の習俗が越人と似ていることがより可能性を高めます。縄文から弥生時代へと移り変わるのもこの時期です。

越人の中にはその後日本と大陸を行き来しながら人を運んだり交易をするものがいて、彼らと接触を持った徐福は日本の情報を得ていった。そして彼らに日本への渡航を頼んだ。それが安曇族であった。

可能性のひとつではありますが、この説をまとめると、安曇族は徐福(海部氏の始祖である火明命)よりも先に日本に来ていた越人だったかもしれません。

 

「なれずし」は越人の文化です。魚を発酵させて保存食としました。滋賀や福井の特産「鮒ずし」のことです。この進化形が現代のお寿司ですよ。琵琶湖の西岸に安曇川(あどがわ)志賀町(→滋賀?)があります。福井の敦賀は古くは角鹿と書いたそうです。能登半島には安曇由来の地名が多く、鹿島町志賀町など鹿のつく名前が点在しています。この辺りは「越」といいますよね。古くは「古志」ですが。

もうひとつ面白い話があって、佐藤洋一郎氏の稲の研究で、大阪と奈良の遺跡から2200年以上前の弥生米が発見され、そのDNAを調べると朝鮮半島にはない中国固有の水稲だったということです。直接中国から伝来しているのです。スサノオと五十猛が新羅には種を撒かず九州の筑紫から全国に植えていったという話のように聞こえませんか。

 

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倭人はどこにいた?

越人ではなく倭人が徐福らを連れてきたということも考えられます。

倭人という記述の最古のものは1世紀に書かれた中国漢代の史書論衡にあり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)越裳ベトナムあたり)からは白いキジを献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を献じたと記されています。鬯草とは神事に使う香草です。

すでにこの時代に倭人が存在しています。越裳と分けて書かれています。この草の産地が中国の現広西省ベトナム近く)にあったそうで、倭人とはその辺りに住んでいた越人の1種族とする見方ができる一方で、先の論衡の著者の友人が書いた漢書には楽浪海中、倭人あり。わかれて百余国を為すとあります。文脈から朝鮮半島の南の海域にいたということです。倭人は紀元前1000年頃、この日本から大陸へ貢献する海洋民族だったということになるのです。論衡や漢書の書かれた頃、紀元後57年には漢の武帝倭人が挨拶に来て、武帝より倭奴国王の使者へ金印が下賜されています。この時代のエリートたちは倭人という概念を共有していたはずです。

また2003年に弥生時代の開始年代を従来よりも500年繰り上げることを日本歴史民俗博物館が発表しました。土器についていた炭化米などをAMSー炭素14年代測定で調べたところ、北九州では紀元前1000年頃から水田稲作が行われていたことがわかったそうです。ただし弥生文化に変わったというのではなく、生活様式縄文文化のまま水田へと変わっていったということのようです。北九州から瀬戸内海へ伝播するのも非常にゆっくりとですし、渡来人が一斉にやって来たのではなく少数のグループがやって来たか、縄文人が大陸へ渡って新しい手法を少しずつ取り入れていったのでしょう。紀元前1000年頃にはこの日本から倭人渡航して文化の交流があったということは現実味を帯びました。

徐福を日本に連れてきたのは倭人だったという可能性も出てきましたね。

 

そもそも倭人とはなんだったのでしょう。

遥か石器時代にはすでにこの日本列島に渡って来たいろいろな人たちがいて、やがて縄文時代を迎えその間も日本への渡来は続き、さらにたくさんの渡来人がやって来ると弥生文化が花開きます。時代というのは後付けであって、人々の営みは途絶えることなく続いたからこそ今に繋がっています。倭人というのもそんな曖昧なものかもしれません。けれど歴史に刻まれた「倭人」と呼ばれた人たちのことを知りたい。大海原を駆け巡り、好奇心に溢れ、大国へも挑み続けるチャレンジャーたち。そんな彼らも私たちの祖先であることだけは確かです。

 

つづく