安曇磯良と五十猛⑺ 鹿島香取と弓前文書
前回の続きです。
弓前文書については今後の検証が必要とは思われますが、まずは現段階で提示された内容をできるだけ偏見なく学び、それから各自がどう受けとめていくかだと思います。このブログにおいては私、Sorafullの研究資料として皆さんと共有したいと思っておりますが、ブログの性質上、個人のフィルター(Sorafulの主観)がかかることは避けられません。ですので興味を持たれた方はご自身で原本を読まれることをお勧め致します。池田氏の本は図書館、大学での閲覧となるようです。
池田秀穂「弥生の言葉と思想が伝承された家」
「日本曙史話 弥生の言葉と思想」
萩原継男「古事記、祓い言葉の謎を解く」
それでは委細心得の冒頭を紹介します。
世々の弓前和ユマニが相伝えし秘聞、誤りなきようここに記す。
神呂美垂神産積カミロミタカミムツ大霊はわが子垂力タチカラの右左の珠、なれが子孫ウミノコに祀らしむと御親ミオヤ凝結會根コヤネの霊事に詔り賜いき。
孫中津と弓前に詔り申す。垂力タチカラの右は御雷ピカ左は布土プツの名あり、御雷は剣、布土は鞘と思え。中津は御雷を祀り大霊の力を現す。剣使わざれば常に鞘あり。故に弓前は布土を祀り常に大霊の力を凝らす可し。即ち中津は常に表に立ち大霊の御心に順う術を修め、弓前は内に在りて我の教うる大霊の力の数々を識り、それが法を修むべし。この分限を誤たば神罰を心得べし。世々の弓前賢み伝えたり。
弓前和ユマニとは弓前一族の長です。中津の長は中津身ナカツミ。
萩原継男氏の訳では《宇宙神であるタカミムツ大霊オオヒが、中津・弓前一族の祖であるアメノコヤネに「お前の孫の中津・弓前の兄弟に、我が子タヂカラの左右の珠である宇宙の天と地の力、すなわちピカとプツの珠をそれぞれに祀らせてやろう」と言われた》となります。
これが本拠地九州の地で大昔から祀られていたピカとプツの珠であり、のちに鹿島、香取に遷されて祀られることとなります。図にまとめてみました。カタカナが弥生語です。
こうした祭祀を代々続けていたところ、国(三輪)の大君の姫神に神懸かりがあって、ヒルメ大霊の霊事詔ひことのりが下ります。内容を要約します。※国の大君については後程説明します。
①垂力の珠を大八洲の東の果ての島ひとつない所に祀れ。鹿島・香取神宮
②厳斎いつさの地(伊勢)に各地に祀った我が生母ウカの珠を集めて宮代に祀れ。さらに新たな宮を造って海より立ち昇る新日の力を凝らしむべし。伊勢神宮の外宮・内宮
③日の沈むところを厳結生イツユムの戸として、その国珠を祀り、事代主となしてアオナツ(大国主)の力を与うべし。出雲大社
④美山(三輪)の地の国珠をその地に祀れ。大物主の力を与うべし。さらに山人の珠を美山の地に移して祀れ。大神神社・大和神社
ここにカムロミタカミムツ大霊の日毎のヒタチは垂力の珠によって日毎に分かち与えられ、大八洲鎮まり治まらん。
垂力の珠の他にも珠がたくさんでてきましたね。
②でヒルメ大霊(天照大神)の言う我が生母ウカの珠とはヒルメ大霊の分霊であり、太陽の分身、地上に注がれた日の熱エネルギーのことです。この生命を育むエネルギーが和御魂であり、豊受大神やワカヒルメとも呼ばれます。伊勢の外宮に祀られた神であり、決して内宮より劣るということはないそうです。内宮より先に外宮を祀ったことから外宮先祭といわれるとのこと。内宮には天の新日、日の荒御魂が祀られています。海人族にとって太陽を祀るとはウカの珠を祀ることであり、元伊勢とはウカの珠を祀っていた場所だということです。
③④の国珠とは、縄文人の祀る日の神をいうそうです。ここでは出雲や三輪ですので、出雲の太陽神のことでしょう。委細心得の続きには、
「大宮代を建ててその国珠を祀り、大八洲の事代主となしアオナツ(大国)の力を封じぬ。これ後の世の出雲大社なり」
「美山の国珠を鎮めて大物の力を封じん。これ後の世の大神(三輪)の宮なり」とあります。やはり封じられていたようです。
④の山人ヤマトの珠とは海人族が九州時代に日本国全体の国珠として祀っていた神のことです。これを三輪の地に移し、大和(倭)大国魂ヤマトオオクニタマ神として大和神社に祀りました。
※日本書紀では崇神天皇の時、国内に疫病が流行ったため、大田田根子(登美家)を大物主の祭主にし、市磯長尾市を大国魂神の祭主としたとあり、この人は建位起命の子孫でしたね。それぞれの家の子孫に祀らせたのであれば山人の珠とは建位起命と繋がります!
これらによって、ヒタチの垂力の珠より各地に置かれた珠へ、タカミムツ大霊の日毎のエネルギーが分け注がれ、この国は安泰となる、ということなのでしょう。
(次の1節、改訂しました。2018.11.30)
「国の大君の姫神」とはすでに九州から三輪にやってきていた大君の姫神ということであり、出雲伝承でいう第1次物部東征でしょうか。その姫神に神懸かりがあった。そしてヒルメ大霊の霊事詔ひことのりに従って、垂力の珠、ウカの珠、山人の珠を持ち斎重城サエキ(軍隊)を伴い、安芸(広島)、日之(出雲)、玉(岡山)、迎(六甲)へと至り、さらに三輪、大和、伊勢へ。第2次物部東征に重なります。
これまでみてきた東征を、まるで裏側、というより内側から覗き見るような感覚になりませんか。
そして最後に鹿島、香取へ向かいます。
大比古の御事ミコト東するに従いて、中津弓前の族は斎重城サエキの衆と共に東の果ての海辺に至り、霊垂育ヒタチの地を選びて神呂美垂神産積カミロミタカミムツ大霊の垂力タチカラの右左の珠、御雷ピカと布土プツを鎮め祀りぬ。これ後の鹿島香取の宮々なり。
とあります。
ピカとプツの陰陽ともいえる関係が、利根川を挟んで建つ鹿島と香取の伝説「地中を通して要石で繋がっている」という話となって受け継がれているようです。
剣は使わない時は鞘に納めておく。香取(弓前)は剣をいつでも使えるように鞘の中にエネルギーをチャージしておくことが必要。鹿島(中津)は常に表に立って、宇宙の力を行使する技術を錬磨しておかなければならない。弓前は内に在って宇宙の力の理論を究めなければならない。
このコヤネから子孫への教えが委細心得の冒頭で記されています。
ピカは神文の中ではソラピカとされ、東の空から立ち現れるエネルギーを意味し、別名をピタチ(のちの常陸ヒタチ)といいます。九州から三輪(大和)へと東遷を開始した九州王朝勢は、このソラピカの力を最大限に活かすために日本の東の果ての地に祀ることを求め(ヒルメ大霊の神託によって)、鹿島が選ばれたというわけです。これが本来の「鹿島立ち」です。旅立ちや門出という意味ではなかったようです。
斎重城サエキとは中津弓前の祭祀一族を武力で守る海兵隊の軍隊のようなものだそうです。それが物部軍だったといいます。つまり中津弓前一族とは別系統ということになります。
※上の本文の中では大彦命に従ってとありますが、出雲伝承では大彦は物部東征軍によって東へと追いやられていった将軍ですので、解釈が異なります。大彦(の子孫)を追って、であれば矛盾はないのですが。
池田氏は昭和16年に弓前文書など遺品をすべて受け継がれましたが、その後戦地へ赴き、その間に実家が空襲で焼け、身内の方と共に弓前の遺品すべて消えてしまったそうです。神文は事前に書き写しておられたそうですが、委細心得は原本がなく、池田氏の記憶によって再現されました。大意においては間違いないけれど、細部の個々の漢字については多分に異同はあるだろうということです。
委細心得によると、常陸に来てから13代目の時、弓前和と中津身(それぞれの長)に天の大君から「斎重城の兵を伴って都に出頭せよ」と詔りがあり、中津身は中臣の氏姓を賜り、弓前和の弓前値成ユマアテナは帰って来てから鹿島香取のふたつの宮を司祭することになりました。
池田氏はこの13代目というところから概算して、聖徳太子の時代に合うのではないかと推測されています。太子のブレーンだったかもと。そうであれば聖徳太子の国史編纂に参加して、古事記の元となるような情報を記していたかもしれませんね。古事記冒頭の17柱の神々、天之御中主からイザナキ、イザナミまでが神文に記された弥生語とそっくりです。出雲伝承の中で物部東征軍が東出雲を占拠した際、クナト大神と幸姫命をイザナキ、イザナミという夫婦の神に変えられたと伝えていますが、物部軍が考えたのではなく、中津弓前一族に伝わる口承の中から与えられた名だったということになります。
【補足 2019.2.27】弓前値成の時期は推測とのことですが、「後の世の出雲大社」といった表現がされており、出雲伝承では出雲大社(杵築大社)の創建は716年ですので、弓前値成の時期がもっと後だったのか、後世の伝承者が付け加えていったのか。先ほどの大彦のこともそうですが、委細心得前半にある歴史については、記紀に沿っているところがあることは否めません。また出雲大社という表現は近代の名称ですので、これが池田氏の記憶違いによるものなのか、、、
続いて春日大社です。委細心得の後半部(14世紀、藤原内実による)から。
不比等御雷ピカの珠を都に招ぎぬ。(省略)春日山の麓なる宮代に御雷布土ピカプツの珠共に鎮め給いき。これよりは中津身の後なる国の表に立ちし藤原の大臣の質しに答えて今に至る。
とあります。藤原不比等がピカツチ(建御雷槌命)の分霊を都に招きたいといい、三笠山の頂上に祀ったという言い伝えもあるそうです。鹿島からやってきたタケミカヅチの分霊が白鹿に乗って現れたところとされ、今は奥宮として本宮神社が祀られています。ここは東に登る太陽を拝することができるそうです。
そらから3代ほど後のこと、再び詔りがあって、プツノチ(布土主命)の分霊を奉じて春日大社の地に鎮めたということです。
萩原氏によると、春日大社には何故か手力雄タヂカラオ神社が3つも祀られており(境外末社を含め)、しかも本殿においてはタケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメ神を見守るように手力雄神社が祀られているそうです。このことは記紀では意味がわかりません。委細心得に記されたタチカラとピカとプツの関係を知れば、タケミカヅチとフツヌシの親神がタヂカラオであることが春日大社で示されているとわかります。
常陸においては、鹿島神宮の氏子区域には近津神社(手力男命を祀る)があり、タケミカヅチの親神様だから鳥居は神宮より大きくなければならないとされ、明治までは巨大な一の鳥居があったそうです。香取神宮の摂社、大戸神社には親子の伝承はありませんが手力男命が祀られています。
ちなみに九州でタヂカラオを祀っている神社を探してみると、下関に近い北九州市の戸明神社に、アメノコヤネとともに祀られていました。志賀島からは少し離れています。
出雲伝承のいう鎌足が養子になった中臣家は、常盤ー中臣可多能古ー御食子ー鎌足ー不比等と続きます。池田氏はこの家系は代々中津身だったといいます。中津身は血縁の親子でなくても世襲できるそうですが、一族のものでなくても可能なのでしょうか。
不比等が中津身であったとすれば、神の声を聞いたり占いによって神意を判断する能力と役目をもった人だったということになります。そうであれば中津弓前一族の秘匿しなければならない伝承を熟知しているので、記紀を作るにあたっては出自も隠そうとしたのかもしれません。深読みしすぎかもしれませんが、藤原氏が武御雷槌命を始祖としたというのは、プツの名に似た名前である登美家の人物の名を借りて、家系を曖昧にしたのかも。
さらに不比等は自分の代で中津弓前のシャーマニズムを封印し、中央集権国家にふさわしい統一された神道体系を作り直したといいます。それが中臣神道です。本来の祓詞も変わり、大祓の詞の中の太祝詞事ふとのりとことも封印されたのでしょう。弥生語は一音一義ですので、ひと文字の音が変わるだけでも言霊は変化しそうですね。(先の記事で紹介した物部の「一二三の神言」も原文が変化してしまった伝承であるということです)
さて、志賀、鹿島、春日の神が異名同躰であったかどうかを探ってきましたが、この弓前文書によれば、中津弓前一族の祀る海人族の神が博多から鹿島・香取へと遷され、さらに不比等によって春日大社へと遷されたことになります。であれば、この三社に祀られているのは祖神ではなく、宇宙の神だったといえるでしょうか。壮大な話になってきましたね。
今回は磯良から離れてしまいましたが、弓前文書から考えると、志賀の大神とは山人の珠や垂力の珠、ピカとプツの可能性があり、もしかするとこのふたつの陰陽ともいえる珠が、あの竜王のもつ干珠満珠のモデルだったのかも‥‥?!
神功皇后が三韓併合の守護にと磯良に取りに行かせた珠は、宇宙神の天と地の力、垂力の珠だったのかもしれませんね。
次回、弓前文書と徐福、安曇について考察します。