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源流なび Sorafull

【告発書】かぐや姫の物語に託されたもの⑴

個人的な話になりますが、少々お付き合いください。

私Sorafullは幼い頃より父から「藤原不比等フヒト」の名を繰り返し聞かされてきました。この人が日本の古代史における黒幕であり、史実を歪めてしまった、そして柿本人麿カキノモトヒトマロはそのすべてを知っていたがために殺されたのだ、と。

今でこそネット上には不比等の情報が見られますが、当時そんなことを言う人はほとんどおらず、私はそれが何なんだ、私たちの何に関わってくるんだというくらいにしか受けとめられず、不比等という言葉がトラウマのようになっていったのです。実際その話を聞くのが嫌で父を避けるようにすらなった時期もありました。一組の父と娘を引き離した藤原不比等という存在。

けれど人生は不思議なもので、ある時ふいに藤原不比等という言葉が自分の重大なキーワードのように突き刺さってきたのです。そこから手当たり次第に調べ始め、出雲の伝承に出会い、今に至ります。本当に歴史が歪められているのなら、私たちはこの先もずっと何かとても大事なものを見逃したままになってしまう…

残念ながらその時父はすでに病床にあり、私の言葉を理解するには時が経ちすぎていました。

出雲の伝承は、やはり藤原不比等がその時代を動かしていたことや、記紀編纂のトップであったこと、そして柿本人麿が古事記を書かされ、それゆえ幽閉されたことなどを伝えています。

当時、この歪められた日本の史書を後世に残すことに、憤りを覚えていた人は少なくなかったはずです。けれど声を挙げれば殺されてしまう。そんな中、ひとりの男性が密かに物語を書いて、未来の子孫に託したのではないかと斎木氏は言われます。記紀は史実を神話化し、さらに多くの虚偽が加えられていることを、後世の人に気づいてほしいという願いをこめて書かれたのが竹取物語であると。

今回は竹取物語にはどういったことが織り込まれているのかを紹介して、その後記紀の成立について書いていこうと思います。

 

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竹取物語

今は昔、竹取の翁おきなと呼ばれる人がいました。

名は讃岐造サヌキノミヤツコ。ある日、根元が光っている竹を見つけ近づくと、筒の中に3寸ほどの小さな幼子が座っていました。翁はその子を手の平に乗せて帰り、籠に入れて妻と大切に育てました。それからというもの、翁は竹の中に金貨を次々と見つけるようになり、ついに富豪となりました。

幼子はたった3ヶ月ほどで乙女へと成長しました。比べるものがないほどに美しい姿となり、家の中は光が満ち満ちています。翁は苦しい時もこの子を見れば心安らぎ、腹立たしいことがあっても心穏やかになりました。大人になった娘に名前をつけてもらおうと、三室戸忌部ミムロドノインベの秋田に頼み「なよ竹のかぐや姫」と決まりました。

かぐや姫の美しさに、世の男たちは身分の高い者も低いものもみんな恋に落ちました。そんな中、断られてもどうしても諦めない男たちが5人いました。かぐや姫は彼らに難題を与え、それらを持ってくることができるかどうかで愛情の深さを見分けたいと言いました。

五つの難題

石作イシヅクリの皇子 ⇒仏の御石の鉢

庫持クラモチの皇子 ⇒東の海の蓬莱山にある真珠の実のなる金の枝

左大臣・安倍御主人ミヌシ 唐土(中国)にある火ネズミの燃えない皮衣

大納言・大伴御行ミユキ ⇒龍の首の中にある五色に光る珠

中納言石上麻呂イソノカミマロタリ ⇒ツバメの持っている子安貝

 

5人はこの世にあるのかないのかわからないようなものを求めて、ある者は偽物を造り、ある者は命を失い、結局全員失敗に終わりました。

やがて5人の貴族を破滅に追いやったかぐや姫の噂が帝の耳にも入ります。帝は宮中女官の中臣房子を遣わしました。けれどかぐや姫は帝といえども頑なに会おうとしません。無理にでもというなら死ぬばかりですと答えます。

帝はこっそりと翁の家に立ち寄ることを計画しました。家に入ると中は光が満ちていて、そこに座る清らかな女性の美しさに帝は驚かれました。そのまま宮中へ連れていこうとする帝にかぐや姫は「私がこの国に生まれた人間ならば陛下の思う通りになるでしょう。けれどそうではない私を連れていくことはできません」と答え、姫は影のように消えてしまいました。やはり普通の人間ではなかったと諦めた帝ですが、それでもかぐや姫を想い続け、後宮の女たちには会おうともしません。歌を詠んではかぐや姫のもとへと送る帝の想いに、姫もしだいに返歌を詠んで心を開いていきました。

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3年が過ぎて春になると、かぐや姫は月を眺めては涙をこぼすようになりました。7月の十五夜、翁が心配して問いただすと「月を眺めていると、この世の営みが儚いものと感じられるのです」と答えます。

8月15日が近づいたある日、かぐや姫は激しく泣いて、そしてようやく言いました。「私は月の都の者です。昔の契り(約束)があってこちらの世界にやって来ました。けれど満月の夜に迎えが来ると知らせがありました。お二人が嘆かれることを思うと悲しくて、ずっと思い悩んでいたのです

このことを知った帝は翁たちの悲しみを慮って、少将の高野大国タカノノオオクニに姫の保護を命じました。15日の夜には2千人の弓矢を持った者たちが翁の家の回りを取り囲みました。

かぐや姫は動揺する翁に言いました。「月の者はとても美しく、年をとらず思い悩むこともありません。そんなところへ帰ってゆくのは楽しいことではありません。私は年を取ったお二人の面倒をみれないことが辛いのです」

やがて真夜中を迎えると、辺りが昼のように明るく輝きました。空から美しい衣装をまとった天人たちが雲に乗って降りてきます。構えていた役人たちはみな魔物に憑りつかれたように戦意を失い、ただぼうっと天人たちを見ることしかできません。王と思われる者が降りてきて翁に礼を言うと、「お前たちにはすでに金貨をたくさん与えている。姫は罪を犯した。その償いのためにこの汚い世界へと送った。その償いの期間が終わったので迎えに来たのだ」と言いました。

天人のひとりがかぐや姫に、壺に入った不死の薬をなめさせました。そして羽衣をかけようとするとかぐや姫は振り払い、「これを着ると人間らしい心を失ってしまうのでしょう。その前に残しておきたいものがあります」と言って、静かに帝に宛てて手紙を書きました。ここを去ることの悲しみと、帝の申し出を断ったのは自分のこのような煩わしい身の上のためであり、無礼な者と思われることが心残りですと。そして「今はもうこれまでと思い、天の羽衣を着ます。あなたのことをしみじみと思い出しております」と歌を詠み、手紙と不死の薬の入った壺を持って中将へと渡し帝へ献上しました。その途端、天人に羽衣を着せられ、かぐや姫は翁への愛しさも悲しみも失って、飛ぶ車に乗ると天へと昇っていきました。

翁たちは力が抜けて病気になり、寝込んでしまいました。帝は心を揺さぶられ何をする気も失せ、その手紙と不死の薬を天に最も近い山で燃やすように命じました。かぐや姫に会えずして、不死の薬が何の役に立つのかと。

調石笠ツキノイワカサ駿河の国へ行って一番高い山に登り、頂上で手紙と薬に火を付けました。その煙は今もまだ雲の中に立ち昇っていると言い伝えられています。兵士たちを多数連れて登った山は「富士の山」と名付けられました。 

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登場人物

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古事記の中にイクメ大王の妃、加具夜カグヤ姫が出てきます。系図を書くと上のようになります。磯城王朝や物部は付け足しています。

徐福の長男、海香語山の子孫、竹野姫がオオヒビ大王の妻となり、その孫の大筒木垂根王の娘がカグヤ姫となっています。大和の初代大王、海村雲が父の香語山を奈良の山に祭り、その山の名前が香具山です。カグヤ姫の名前の由来もここにあるのでしょうか。

筒木は竹に似ています。海部氏の籠神社の名前は、始祖である火明命(≒ホホデミ)が竹で編んだ籠に乗って龍宮へ行ったことに由来するといいます。そして大筒木垂根王の弟が讃岐垂根王であり、竹取の翁の名前は讃岐の造ミヤツコです。ただしカグヤ姫は実在の人ではないと伝承されているようです。

物語はまずイクメ大王の時代に注目させています。かぐや姫は月の世界の人。月の女神ですね。ということは、豊玉姫と物部イニエ王の娘、豊来入姫と結びつきます。丹後国風土記にある「天女の羽衣」には、実は大和から逃げて来た豊来入姫が、丹後の奈具社に落ち着いたことが描かれているようだと以前紹介しました。奈具社は竹野郡にあり、豊宇加ノ神が祀られています。この話の中では天女の羽衣を奪った老夫婦が、天女のおかげでお金持ちになると天女を追い出し、天女は天に帰ることもできず奈具社に落ち着くことになっています。かぐや姫とは真逆の話です。斎木氏はこの「天女の羽衣」も「浦の島子」の話を書いた伊予部馬飼イヨベノウマカイではないかと言われます。そして「かぐや姫」もこの人が書いた可能性が高いと。

伊予部馬飼についてはこの記事に詳しく書いています。

 

馬飼は四国の伊予国国造家子孫であり、先祖は出雲の八井耳ノ命だと古事記に書かれています。事代主と海部氏の両方の血筋のようです。馬飼は689年に持統天皇によって撰善言司よきことえらぶつかさという委員に選ばれます。何をする機関かというと、史話を良い教訓になる話に変えて善言という説話集を作るところです。つまり歴史を曲げてでも聞こえの良い話にしてしまうということです。この委員になったのは他に調老人ツキノオキナという大学頭(官吏養成所の長官)がいました。この名前、先ほど出てきましたね。富士山で手紙と不死の薬を焼いた人、調石笠ツキノイワカサです。

この撰善言司は委員たちが内容にうんざりして間もなく解散しました。でもこの時作られた説話が、のちに記紀に使われることになります。

その後、馬飼は丹後守となりその任期中に、浦神社の島子の実話を基にして「浦の島子」というおとぎ話を書いたといわれています。

★☆雄略天皇の時代に宇良神社の島子が豊受の神(月神)を伊勢外宮に移して奉仕した。彼が老年になって故郷に帰ってくると、知人はみな他界しており、村人からは異国の人だと思われたという実話。

 

かぐや姫の物語はイクメ大王の時代を意識させながら、もうひとつの時代の実在の人物たちを描いていきます。それが難題を与えられた5人の貴族たちです。まずは日本書紀持統天皇10年(696年)の記事を見てください。

「右大臣・丹比真人タジヒノマヒトに朝廷の下級職員(舎人とねり)を120人私用に使わせる。大納言・安倍御主人大伴御行には80人ずつ、石上麻呂藤原不比等には50人ずつ使わせる。」

 

石作イシヅクリの皇子⇒石作氏は丹比氏と同族⇒丹比真人

庫持クラモチの皇子⇒車持与志古娘の息子がのちの右大臣・藤原不比等

左大臣・安倍御主人ミヌシ⇒大納言・安倍御主人

大納言・大伴御行ミユキ⇒大納言・大伴御行

中納言石上麻呂イソノカミマロタリ⇒のちの左大臣石上麻呂(物部連麻呂)

 

つまりこの5人の貴族は持統天皇の時代の人たちなのです。

長くなりましたので、次回、彼らがどのように描かれたのかを見ていきましょう。

 


 

平群王朝から蘇我王朝へ

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記紀ではこの系図のように、ホムタ大王(応神)の御子がオオサザキ大王(仁徳)ということになっていますが、出雲伝承はそこに血の繋がりはないといいます。

 

物部王朝が終わって次に現れたのが平群へぐり王朝です。

神功皇后と武内ソツ彦の三韓征服によって多くの年貢を得られるようになり和泉国に巨大古墳が次々と造られる時代に入ります。この時期、武内宿祢(大田根)の子孫たちが勢力を伸ばしていました。

武内臣ソツ彦⇨葛城氏

平群臣都久⇨平郡氏

紀臣角⇨紀氏

蘇我臣石河⇨蘇我氏

許勢臣小柄⇨許勢氏

奈良県生駒の平群地方に住んでいた平群ツク王は、分家にその地を任せて紀ノ川河口に移住し、三韓からの年貢を納める倉庫を紀伊国造家とともに管理しました。このツクの子孫が平群王朝を築いて、そこから和の五王が出たということです。

和の五王とは✽✽✽中国史書に登場する5世紀の5人の和王、讃、珍、済、興、武。この1文字で記された五王が誰なのか諸説あり。九州王朝の王とする説も。通説では履中、反正、允恭、安康、雄略とされる。ただし記紀の中に中国史書に対応するような記述がなく、結論が出ないままとなっている。

実際に三韓征服の功労者はソツ彦王だったのに、関係のない平群ツクが大王家となったことにソツ彦の子孫たちは不満を持っていて、たびたび反乱を繰り返したそうです。(年貢を納める倉庫を管理する中で、平群氏が財力を増していったのかもしれませんね)

出雲の伝承の中で明確に説明されてはいないのですが、こうなるとオオサザキ大王(仁徳)とは平群ツクのことと読めなくもありません。それならホムタ大王(応神)と親子でないことは明らかです。

ちなみに日本書紀の中で不思議な話が挿入されているので要約します。

 

『オオサザキノ尊が生まれた時、産屋にミミヅクが飛び込んできた。同じ日に武内宿祢の息子が生まれたが、そこにはミソサザイが飛び込んできた。それを知った応神天皇は、これは天からのおめでたい印だから、その鳥の名をとって互いに交換し、子どもの名前につけることにしようと仰った。そして太子の名は大鷦鷯オオサザキノ尊、武内宿祢の子は木菟ツクノ宿祢(平群臣の祖)といった。』

 

スズメ目のミソサザイという鳥は国内で最も小さい野鳥のひとつらしく、名前の由来をみると、古くはサザキといって小さい鳥の意味をもち、のちにサザイと変わり、さらに山の渓流(溝)のそばに生息することからミソが追加されミソサザイとなったといいます。どうして天皇にあえて「小さい鳥」という名をつけたのかわかりませんが、とりあえず「大」をつけてオオサザキとしているところが面白いですね。

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一方ミミヅクは木菟とも書きます。古くはツク(木菟)と言いました。フクロウ科のうち羽角=耳があるものを呼びます。漢名はウサギの耳をイメージしているのでしょうね。母方が豊国出身でしょうか。

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そしてこの話のポイントですが、前回の記事で、仲哀天皇と武内宿祢の誕生日が同じだったという話がありましたね。これを2人の立場が入れ替わったとする見方もでき、つまり神功皇后の夫は仲哀ではなく武内宿祢だったことを暗示していると。今回の話もそれに似ていて、実はオオサザキ大王とは平群ツクであることをここで示している、と読めないこともないような。

神武天皇以降、代々ひとつの男系でつながっていることを記紀は記したかったので、物部王朝や平群王朝、そして蘇我王朝などいくつもあってはならないですし、女系でつながっていることには意味がないのでしょう。

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北陸のオホド王

さて、和の五王のあと平群王朝は親族同士で争いが絶えず、近畿では評判が下がり、王家に年貢を納める人が減っていきました。重臣たちも平群王朝を見限り、北陸のオホド王に白羽の矢を立てます。このオホド王とは蘇我家の入り婿です。

記紀では武烈天皇が暴君であり、後継者もいなかったことから、応神天皇まで遡って5世孫であるオホド王を探し出したということになっています。(注)武烈天皇は意図的に暴君として記された可能性があります。

それでは蘇我氏のルーツから紹介します。

武内大田根の子孫、蘇我臣石河は河内の石川郡(羽曳野市)に地盤がありましたが、その後大和の蘇我川付近に移住しました。そして玉類の生産のため北陸方面に進出します。本家は越前国福井県)に移住し、三国国造に任命されました。他の分家も次々と北陸に移住し、加賀国(石川県)、越中国富山県)でも国造となっていきます。

北陸から越後にかけては大彦の子孫たちが豪族となっており、国造となったものも多く、彼らは「道ノ公きみ家」と呼ばれました。

大彦とは✽✽✽磯城王朝クニクル大王と登美家の姫の御子、事代主の子孫である。記紀ではナガスネヒコと書かれた。モモソ姫の兄、そして安倍家の始祖。第一次物部東征に敗れ東国へ追いやられ、子孫はクナト国(いわゆる邪馬台国の敵国である狗奴国のこと)を造る。大和政権とは対立し、蝦夷えみしと呼ばれた。

  以下の記事に詳しく紹介しています。

 

北陸における蘇我系国造家と道ノ公系国造家はしだいに婚姻関係を結ぶようになり、両者ともに出雲の向家とも親族でした。さらに近江国の額田国造家や美濃の三野ノ前国造家とも親戚関係にあり、これら国造家たちが北陸方面に「蘇我・道連合王国」として結びついていたそうです。

そんな中、富家(向家)にオホドノ御子(次男、彦太)が生まれます。ということですので、記紀のいうように応神天皇の5世孫ではありません。

オホド王は越前国、三国国造家の蘇我刀自、振姫の婿となりました。大きな船を造って日本海交易を広げて財力を高め、北陸方面の中心人物となっていきます。旧出雲王家出身のため、関東の出雲系国造たちとも結びつきが強まり、そして北陸の蘇我・道連合王国の代表的存在でもあり、オホド王の勢力は大和平群王朝に匹敵するほどになっていたそうです。

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それがちょうど平群王朝の衰退期と重なって、次の大王としてオホド王に白羽の矢が立ったのです。

※オホド大王(継体)については斎木雲州著「飛鳥文化と宗教争乱」に詳しく書かれています。

 

蘇我王朝の始まり

蘇我振姫と離婚したオホド大王(継体)は、平群王朝オケ大王(仁賢)の娘である手白香姫を后とします。どちらの女性も武内宿祢の血筋ですね。蘇我振姫との間にはすでに2人の御子があり、のちにカナヒ大王(安閑)オシタテ大王(宣化)を名乗ります。手白香姫との間にはヒロニワ大王(欽明)をもうけますので、2つの系統の勢力が生まれてしまいました。飛鳥時代天皇家を凌ぐ権力をもった蘇我氏は、カナヒ大王の子孫です。【2019.5.21.訂正】この一文は削除します。

新しい樟葉くすはの宮河内国交野かたの郡樟葉(大阪府枚方市)に造られました。ここは旧出雲王国の領地のあったところに近く、三島氏など親しい豪族もいたようです。近江国尾張国の豪族たちも姫を嫁がせ、ますます勢力を強めていきました。これが現在に繋がる蘇我王朝の始まりです。即位した年は扶桑略記によると507年、大王はすでに58歳でした。

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足羽山(福井県)の継体天皇像 Wikipediaより 撮影立花左近

 

オホド大王は大和で玉類(勾玉や管玉)の生産に力を入れました。北陸からは緑色凝灰岩を、越後からはヒスイを、出雲からは碧玉(メノウ)を、下総からは琥珀を、奈良の蘇我里に大量に運ばせました。蘇我里の南方には忌部氏が住んで玉造りを始め、今は忌部町となっています。蘇我町からは曽我玉造遺跡が発掘され、数十万点の玉造りの遺物が出土しています。蘇我氏の揺るぎない財力源ですね。

 

時代が下りますが、飛鳥時代蘇我の本家を滅ぼしたのは中臣鎌足です。そして記紀製作の中心人物は息子の藤原不比等だと言われています。父が謀ったことが後世に残ることを恐れ、蘇我氏のことは極力隠す方針で記紀を創るように命じたといいます。日本の名家である蘇我氏を隠すということは、始祖・高倉下(初代ヤマト大王・海村雲の弟)以降の系図を曖昧にしていくことになります。高倉下の子孫、武内宿祢についても数百年も生きたとして、いかにも架空の存在として描いています。武内宿祢の子孫たちの関係も曖昧にされました。

古代出雲王国に始まり、徐福の渡来、海王朝、磯城王朝、卑弥呼月神、物部王朝、平群王朝、蘇我王朝と、あまりに多くの歴史が伏せられたまま今に至ります。

 

 

 さて、ここまで出雲王国のことを追って記事を重ねてきましたが、今なお、Sorafullはとても重大な事実を前にして、少々戸惑っております。

出雲の伝承の通り、継体天皇が今の天皇家の始まりであるとするならば、万世一系の男系始祖は出雲王家の向家に遡るということになります。継体天皇は向家次男。向家は事代主の家系であり、初代は菅ノ八耳王です。

縄文時代から続く最古の王国出雲は、繰り返す争いの果てに滅亡、やがて意図的に神話の中に閉じ込められ、歴史からも人々の記憶の中からも消えてしまいました。それから1300年の時を越えて荒神谷遺跡が出現し、古代出雲王国の存在は一部では認められつつあるとはいえ、多くの人の意識の中に「出雲王国」はないに等しいというのが現状だと思います。

そうでありながら、実は出雲王家の血脈が今も日本の皇統として続いているというのです。私たち国民が無意識のうちに慕う天皇家の中に。

結局は人間の作為など、この世を動かす目に見えぬ力には端っから太刀打ちできないのではないかと思えてきます。人の思惑を超えた大きな流れの中に、私たちは存在しているのかもしれないと、そんな畏れさえ感じてしまいます。

 

《補足》

ここであえて説明が必要かどうかわかりませんが、Sorafullはどの血筋に対しても敬意を払っており、こうでなければ困るというような意図は持っておりません。皇室がどのような血筋であろうとも、現在の両陛下を敬い、いつもその在り方に心を打たれている国民のひとりです。たとえ出雲の伝承のように皇統がそうであったとしても、それ以前からこの国土にもたらされた様々なDNAが混ざり合い受け継がれていることが事実であり、それがこの国の自然な姿だと感じています。

多様性という土台の上に心をひとつにしていこうとする、その完成形が皇室という存在なのではないかなと思います。

 

 

 

女帝、神功皇后と3人の王

日本の歴代天皇系図は9代開化天皇(オオヒビ)の次に10代崇神天皇となっています。出雲の伝承によるとオオヒビの後にはヒコイマス、ヒコミチヌシと続き、そこで磯城王朝は終焉を迎えました。

記紀に記された崇神天皇以後の系図をみてみます。

f:id:sorafull:20180421155113p:plain物部王朝はイクメ大王から始まりますが、血筋でまとめると紫の囲みが物部王朝となります。記紀によってヤマトタケルが付け足され、豊前国の豪族である中津彦王が天皇として記され、その后に息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)があてられました。伝承によると息長垂姫はワカタラシ大王(成務)の后だということです。つまり物部王朝最後の皇后は神功皇后であったと。記紀では摂政とされていますが、実際には大王とみなされていたそうです。驚きですね。

 

息長垂姫は2世紀初めに辰韓から渡来したヒボコの子孫です。以前の記事でヒボコの渡来について書いていますので貼り付けます。

 

【和国大乱~日矛の渡来と吉備王国】2017‐12‐18の記事より

2世紀の初め、韓国から辰韓の王子、日矛ヒボコが出雲へやって来ました。徐福の時のような大船団ではなかったようです。記紀では新羅の王子とされていますが、出雲の伝承、並びにヒボコの子孫は辰韓だとしています。

船団は出雲の薗の長浜に着きオオナモチと面会します。オオナモチは出雲八重垣(法律)を守ることや先住民の土地を奪わないことなど約束するならと条件を出しましたが、ヒボコは拒否しました。オオナモチは出雲、石見、伯耆国に住むことを禁じます。そこでヒボコは東へ進み但馬国豊岡市の沼地に停泊し船上生活を始めます。そして円山川の河口の狭くなったところの岩石を取り除くと、沼の水が流れ出て豊岡盆地が現れました。そこにヒボコたちは田畑を作って住み始めます。

このことは第2次大戦中に斎木雲州氏の父、富当雄氏が、ヒボコの直系子孫である神床家(1500年に渡り出石神社の社家を務めた)の方と縁があり、互いの伝承を確かめ合ったそうです。さらに斎木氏もその後神床氏と直接話をされているようです。

神床家の伝承では、ヒボコは辰韓王の長男であった。しかし次男を後継者とするため、まだ少年だったヒボコを家来と財宝を持たせて和国に送った。そのためヒボコは父を恨んで反抗的な性格になっていた、ということです。出雲王に反発した結果、家来たちも苦労したのだと。ヒボコは豊岡で亡くなり、出石神社に祀られています。神社裏に禁足地があり、そこがお墓だそうですが、敵が多かったために秘密にしてきたといいます。最後まで苦難の連続だったのですね。

古事記ではヒボコは和人の妻を追いかけてやって来たことになっていますが、実際はそうではなく、父から和人の女性を妻にして早く解け合うようにと言われたことが、和人の妻の話になったようです。

子孫はやがて豪族となり出雲と戦いますが、その後の子孫にかの息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)が現れます。母親がヒボコの家系です。ちょうど辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期にあたります。神功皇后新羅の領土と年貢を自分が受け継ぐ権利を持っていると主張し、そのために三韓遠征が始まるのです。記紀では神功皇后仲哀天皇の后となっていますが、成務大王の后ということです。この神功皇后の男性関係や息子の応神天皇についての驚きの伝承があり、それは出雲と神床家では完全に一致しているそうです。~抜粋終わり~

 

古事記ではどのように書かれているか、簡単に紹介します。

 

成務天皇(ワカタラシ)は近江の高穴穂の宮で天下を治め、武内宿祢を大臣とし、国造を決めたり国の境界と県主を定め、95歳で亡くなった。甥の仲哀天皇(ナカツヒコ)が跡を継ぎ、最初は穴門(山口県)の豊浦の宮で、のちに筑紫の香椎の宮で天下を治めた。大和政権に抵抗する熊襲を討とうと計画している時、天皇が琴を弾いて神託を請うと、神功皇后に神が憑依して言った。「西方に財宝溢れる国がある。その国をそなたに授けよう」と。(熊襲よりも新羅へ迎えということ)

しかし天皇は神託を信用しなかったため、神の怒りに触れその場で息絶えた。この異常事態に、国をあげての大祓おおはらえが行われた。そして武内宿祢が改めて神託を請うと「皇后のお腹の中の御子が治めるべき国である」と言う。さらに神の名を訊ねると「天照大御神の御心であり、また底筒そこつつの男中筒の男上筒の男の3柱の神である」という。

皇后は子を宿しながらも神託に則って軍を整え出航し、三韓を征服して帰国した。筑紫の国に着くと御子を出産した。

 

 

記紀では魏書に書かれたヒミコを神功皇后のことだと思わせるために、武内宿祢を豊玉姫から神功皇后の時代まで生きた人物として設定したと思われます。

それでは出雲の伝承を紹介します。

神功皇后ワカタラシ大王(成務)新羅へ出兵することを求めましたが断られます。その後大王は豊前国の岡県主あがたぬしに攻められて、若くして亡くなったといいます。

次に神功皇后豊前国の豪族である中津彦王(仲哀)に頼みますが、またも断られました。中津彦は長門国で亡くなりました。この中津彦の墓を神功皇后下関市長府の土肥山に造ったそうです。豊浦宮(現・忌宮神社)のすぐ近くです。お墓まで造るとは、ちょっとした知り合いとは思えませんね。

神功皇后新羅出兵を諦められず、筑前国香椎宮を建てて勢力を広め、準備を続けます。そして3人目となる日向ソツ彦王(武内大田根の曾孫)に相談し、協力を得ることとなりました。ふたりは生活を共にしたということです。古事記に登場する武内宿祢はこのソツ彦王のことです。

★☆古事記の中で仲哀天皇が神託に背いて急死する場面も、闇の中にこの3人しか登場させず意味深です。しかもその後に神が「皇后のお腹の中の御子が~」と言った時、武内宿祢がすかさず「いずれの子でしょうか」と尋ねるのです。神は男の子だと答えるのですが、誰の子かを訊いたともとれますよね。

ソツ彦王は総指揮者となり、日向の水軍だけでなく先祖の地である紀伊国の軍船や丹波国の海部水軍も呼び寄せ、大船団となって出航しました。新羅王はこれを見て、戦わずして降伏したそうです。さらに百済、そして高句麗まで和国の属国としました。

ソツ彦王は大和へ凱旋し、まず摂津国住吉郡桑津村に住んで住吉神社を建てたあと、葛城国へと移住します。

一方神功皇后長門国住吉神社を津守連に建てさせ、のちに祭神を大阪の住吉神社に移しました。この住吉神社の祭神は底筒の神、中筒の神、表筒の神の3柱の海の神です。筒とは男神を意味するといいます。日本書紀ではイザナギ日向国の橘の小門おどで禊払いをした時に生まれた神です。つまり3柱の海神は日向方面に関わる男神、中津彦王、ソツ彦王、ワカタラシ大王のことだということです。

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大阪の住吉大社。左奥が第一本宮。右端が第四本宮。

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出雲伝承を続けます。

三韓遠征の成功によって和国は多くの年貢収入を得ることとなり、国は栄えました。神功皇后は摂政ではなく大王とみなされたそうです。

皇后は帰国後、ワカタラシ大王の古墳を奈良市山陵みささぎ町に造りました。隣には祖母のヒバス姫も眠っています。その北方に皇后自身の古墳も造ります。近くに八幡宮が建っていますが、息長家は宇佐の月読の神を祭る家だったからです。さらにのちに養子として迎える御子が宇佐家の子孫であったことも関係しているようです。

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やがて皇后は御子を出産しますが、その子は7歳で夭折したということです。ソツ彦王の子でした。日本書紀の成務3年紀には「天皇と武内宿祢は同日生まれだったので、(武内宿祢を)特に可愛がられた」と書かれています。斎木氏はこれを両者が入れ替わった(神功皇后がソツ彦王と結婚した)ことを暗示しているといいます。古事記では皇后は三韓遠征中だったため、身籠っていたけれど自ら出産時期を遅らせたとあります。これも亡くなった天皇の子ではないことを示しているのでしょうか。

神功皇后辰韓王の子孫ということで年貢を受け取る権利があるのですが、皇后の御子が亡くなると子孫が断たれ、その権利を失う恐れがありました。そこで皇后は御子の死を隠します。そして上毛野かみつけの国造家の竹葉瀬タカハセノ君が同じ7歳とわかり極秘裏に養子に迎えます。のちのホムタ大王(応神天皇です。この子は豊来入彦の子孫でした。つまり豊玉姫とイニエ王の子孫ですね。(前回の記事で書きましたが、三河国に住み着いていた豊国勢を、出雲軍が東国の上毛野国や下毛野国へ追い払ったのです)

以上の伝承はヒボコの直系子孫である神床家と一致しているそうです。

のちに宇佐八幡宮はこのことを知り、豊玉姫を祭っていたのを二ノ御殿に移し、新たに造った一ノ御殿にホムタ大王を祭りました。そして息長家は宇佐の月神を祭る家だったので、三ノ御殿に息長垂姫を祭りました。

 

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現在の祭神は以下となっています。

一ノ御殿に八幡大神誉田別尊応神天皇

二ノ御殿に比売大神(宗像三女神

三ノ御殿に神功皇后(息長垂姫命)

宗像三女神についてはヒミコ(豊玉姫=ウサツ姫)の記事で紹介しましたが、宇佐家伝承で「市杵島姫はウサ族の母系祖神である」ということですので、比売大神として女系の祖先たちが祭られているようです。

 

宇佐神宮ホームページの説明によると、「八幡大神応神天皇の御神霊で、571年に初めて宇佐の地にご示顕になり、725年に現在の地に御殿を造り八幡神をお祀りした。比売大神は八幡神が現れる以前より地主神として祀られてきた。八幡神が祀られた8年後の733年に神託によって二ノ御殿が造られ、比売大神をお祀りした。三ノ御殿は神託により823年に建立され、神功皇后をお祀りしている。」とあります。

 

ちなみにホムタ大王は大和の軽島に宮を建て、豊明ノ宮と呼ばれました。祖先の出身地にちなんだ名前です。(豊国の月神の明かりの意)

 

神功皇后も神託を行ういわゆる姫巫女ではありますが、伝承から伝わってくるものが、これまでの姫巫女とはタイプが違うように感じます。残った事績が三韓遠征を中心としているので仕方のない気もしますが、とても主張の強い女性ですね。辰韓王の息子ヒボコの渡来から200年以上経っていても、新羅の領土や年貢を引き継ぐ権利が自分にもあると主張し続け、遠征の協力者を得るためには持てる力を尽くし、自分の子孫が途絶えた時にはよそから連れてくることもいとわない。トップに立つものとしては当然の行動ですが、そこに女性としての情感が記紀や伝承からは伝わってこないという不思議さがあります。まさに勝ち続けた女帝だったのでしょう。ただ、幼い息子を失うという悲しみは、どれほどの痛みであっただろうと思います。

 

最後に任那みまなについて。

古代、朝鮮半島南部に任那という日本統治下の地域がありました。近年までこのことは語られていたようなのですが、韓国がこれを否定し始め、今は諸説あるようです。

出雲伝承によると、神功皇后が亡くなったあとホムタ大王の力はそれには及ばず、かろうじて政権を保持している状況だったそうです。そして新羅百済は半島南部の間接支配地域を和国に任せました。和国に送る年貢を集める手間を省くため、和国に直接集めて運ぶよう望んだと言われているそうです。

日本書紀では崇神天皇(イニエ)や垂仁天皇(イクメ)の時代から任那と関りがあったように書かれており、崇神天皇などはまるで任那からやって来たように「ミマキ入彦イニエ」と名前が足されています。

 

 

 

物部王朝を駆け抜けた武内宿祢

磯城王朝最後の大王、道主(ヒコタツ彦)が稲葉国造となった時、武内宿祢タケシウチスクネはそれに従って稲葉国の宇部山(鳥取市)に移り住みました。そこへヒバス姫から連絡があり、夫のイクメ大王が武内宿祢に刺客を放ったというのです。武内宿祢は慌てて逃げ、東出雲の向家のもとへ助けを求めました。向家は松江市八幡町に家を建ててかくまいます。

※武内宿祢は磯城王朝クニクル大王の孫であり、父はクニクルと物部の姫との間に生まれたフツオシノマコト。母が紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫。高倉下とは徐福の息子である五十猛と大国主の孫娘である大屋姫の息子。つまり海部、出雲、物部の血筋を受け継いでいるのです。

宇部山の武内宿祢が住んでいたところは後に宇部神社となりました。逃げた時に脱ぎ捨てた服や沓くつなどが残され、本人は行方不明になったという伝承があるそうです。

武内宿祢は向家の姫を後妻として迎え、出雲王家の親族を意味する「臣」となり、武内臣大田根と名乗ります。

※「宿祢」は物部が重臣に与える敬称です。

その後大田根は八幡町の家で亡くなり、弟の甘美内宿祢(=額田宿祢)が雲南市加茂町の神原かんばらに埋葬して出雲式の方墳を造りました。加茂岩倉遺跡の近くです。そして古墳の上に武内神社が建てられたと伝えられているそうです。今は神原神社と名称が変わり、もとの武内神社は神原神社境内の摂社となっています。

甘美内宿祢も物部に敗れ身を潜めていたので、加茂の土地をもらい、向家の親戚となって臣を名乗りました。母の実家である宇治の人たちも連れてきたため、宇治という地名がそこに残っています。

(注)勝友彦氏の伝承では甘美内宿祢の息子が、宇治の村人とともに出雲へ送られ、額田臣となり、子孫が額田部臣と名乗ったということです。

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神原神社本殿

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古墳石室の復元

昭和になって古墳を発掘すると三角縁神獣鏡が出土しました。「景初三年」の文字があり、それは大田根が大和で造らせたもののようです。東出雲の王陵の丘にある造山1号墳からは彼から貰ったと伝わる三角縁神獣鏡が出土しています。

 

大田根の息子、武内臣波多は九州、肥後国の八代に移住。その娘は武内襲津彦ソツヒコを生みます。大田根の曾孫にあたります。日向国で勢力を増し、日向ソツ彦王と呼ばれました。

ソツ彦は4世紀の神功皇后(息長垂姫)の三韓遠征において中心人物となり、水軍を率いて勝利します。神功皇后の実際の夫はこの人だったようです。詳しい話は次回にまわします。

三韓から帰って来たソツ彦は大和に凱旋し、葛城に移住。長江に宮をおいたので、今度は長江ソツ彦王と呼ばれ葛城王家の祖となりました。ソツ彦の姪が仁徳大王の皇后となって履中大王を生んだりと、この時期ソツ彦王の力は計り知れません。

大田根の子孫たちは他に、平群ヘグリノ臣都久ツク紀ノ臣角ツノ蘇我ノ臣石河許勢臣小柄です。物部王朝滅亡後、彼らの勢力は強まり、平群王朝(和の五王)や、のちには蘇我王朝も築きます。記紀の中で武内宿祢は数百年も生きているように描かれていますが、これはイクメ大王時代に実在した大田根から始まり仁徳大王時代までの子孫を、ひとりの「武内宿祢」として描いたからです。これほど日本の歴史に影響を及ぼした人たちですので、紙幣の顔になるというのも納得です。

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さて、長年にわたる東征を終えた物部王朝でしたが、実はさほどの勢力をもつには至らなかったようです。イクメ大王時代は近畿地方の支配だけに留まり、息子のオシロワケ(景行)大王(物部オオタラシ彦)は物部の故郷である九州へ、その後は関東へ遠征して支配を強めます。けれど私たちが考えるような権力を大王が持っているわけではなかったので、大王自らが軍を率いて地方へ遠征しました。大王不在の間は賀茂家が代理として大和を治めていたそうです。

日向国の西都原でオシロワケが詠んだ歌が日本書紀にあります。

「やまとは国のまほらま 畳なづく 青垣山こもれる やまとし麗し」

このやまととは、奈良の大和か、それとも物部の都万王国時代(イニエ王)を偲んでやまとと詠んだのでしょうか。オシロワケはその後、祖父イニエ王の亡くなった場所へ赴き大きな古墳を築いたと伝承されています。イクメ古墳群の中にそれがあると。さらに父イクメ大王の生誕地に生目神社を建てたことも伝えられているそうです。

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★宮崎県の生目古墳群。黄色の囲みは大まかな位置を示したものです。3号墳で全長143m、1号墳で136mあります。

 

記紀ではイニエ(崇神)大王とオシロワケ大王の古墳を大和の行灯山古墳、渋谷向山古墳としていますが、ここは登美家のものだと伝承では伝えられています。

 

先ほどのオシロワケ大王の詠んだ歌ですが、実は古事記の中ではヤマトタケルのものとして書かれているのです。つまり、オシロワケや他の大王の事績をヤマトタケルの話として描いたということになりそうです。

物部王朝はオシロワケの息子、ワカタラシ(成務)大王までで終わったのですが、記紀は血筋を繋げるため次の大王を豊前国の豪族、中津彦(仲哀)としました。その間を繋ぐ存在として架空の人物、ヤマトタケルオシロワケの息子と設定)が必要となったのです。このあたりのことは神功皇后と関わってきますので次回紹介します。

 

話を戻してオシロワケ大王は東国遠征を行うにあたり、旧出雲王家に兵の派遣要請をしました。三河国には豊国軍が住み着いていました。出雲には豊国軍への恨みがあったので、野見宿祢以来となる二度目の派兵を決めました。出雲軍は豊国出身者を攻撃しながら東国へと追いやっていきます。上毛野国かみつけぬ、下毛野国しもつけぬまで追い払ったのち、出雲軍は関東南部に住みました。豊国兵の一部は東国に住んだあと豊前国へ帰郷したため、そこに上毛郡下毛郡の地名が付きました。

出雲軍が住むこととなった関東南部には平地が多かったので、農地として開拓したそうです。軍の指揮官だった旧出雲王家の御子たちが、のちに国造となりました。ただし物部王朝から暗殺されることを恐れて、名前をホヒ家のものらしく変えています。

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 ★出雲系の関東国造(「出雲と蘇我王国」より)

 

南関東から出雲へ帰郷した人もいたそうですが、すでに自分の土地はなくなっていました。そのため各地に散ってゆくことになり、彼らは自ら散自さんより出雲と呼んで結束し、連絡し合う組織が生まれます。かつての王国時代のように、向家へ各地の情報を報告する秘密組織となっていきました。その結果、日本史の隠された情報が向家に集まることとなります。旧出雲王家は日本史からは消え、繰り返される争いを裏側から見続ける存在となったため、勝者敗者に偏らないより真実に近い歴史を記録していったことになります。

 

 

 

アメノウズメと月の女神

古事記の中でニニギノ命が天降ろうとした時、下を眺めると天の八岐やちまた(道の分かれるところ)に見知らぬ神が立っていました。その神は高天原から葦原中つ国まで、照らし輝かせています。天照大神はアメノウズメを遣わせ、なぜ道を塞ぎっているのか尋ねさせます。その神は国つ神のサルタ彦大神だと名乗り、天孫の御子の先導役としてお仕えするために待っているといいます。

日本書紀ではこのサルタ彦大神の容貌を、鼻がとても長く背も高く、目が八咫鏡のように照り輝いて赤いと描写しています。象神ガネーシャの鼻、日本人離れした大きな体と大きな目を比喩しているのでしょうか。時代が下るとこれが天狗の姿へと変わっていきますが。

古事記ではサルタ彦大神が天も地も照らしていることから、まるで太陽神のように描かれていますね。ただの道案内とは思えません。

サルタ彦の先導によってニニギノ命が高千穂の嶺に降臨し、宮を建てて落ち着くと、アメノウズメにサルタ彦を元の国(伊勢)へお送りするよう命じます。さらにその名前を継いでお仕えするようにとも命じ、アメノウズメの子孫は猿女サルメ氏を名乗るようになりました。

 

出雲の伝承によると、このアメノウズメとは豊来入姫のことだそうです。

豊来入姫は丹波を離れ、伊勢国一の宮椿大神社つばきおおかみやしろに身を寄せたと伝えられています。ここはサルタ彦大神の総本宮とされています。社家である宇治土公うじとこは豊来入姫をかくまうために、宇佐女尊ウサメノミコトと呼ばれていたのをウズメノミコトと変え、サルタ彦大神の后神だと説明したそうです。そのため宇治土公家は両神の名を合わせて猿女サルメの公キミとも呼ばれました。

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椿大神社拝殿 Wikipediaより 撮影者Bakkai

 

豊来入姫の名を辿ってみると、

豊姫(豊国)=壱与トヨ(魏書)=豊来入姫(大和)、若ヒルメムチ=豊鋤入姫(記紀)=宇佐女尊(伊勢)=ウズメノミコト=アメノウズメ(記紀

といった多くの呼び名に変えられています。故郷の豊国から各地を転々としながら、最後は身を隠すように生きていた姫巫女の心細さが伝わってくるようです。

椿大神社の奥に別宮、椿岸神社が建てられ、鈿女ウズメ本宮と呼ばれています。豊来入姫はここで、イクメ大王の差し向けた刺客によって暗殺されたと伝えられています。

日本書紀に次のような記述があります。

稚日女尊ワカヒルメムチが機殿で神衣を織っておられるところへ、素戔嗚スサノオ尊がまだら駒の皮を剥いで投げ入れた。驚いたワカヒルメムチは驚いて機から落ちて、持っていた梭で身を傷つけて亡くなられた。」

イクメ大王は徐福(スサノオ)の子孫です。出雲の伝承と重なるようにも思えます。梭は刺客の短刀か、豊来入姫の自決を表しているのでしょうか。どちらにしても、4人目の姫巫女は月神を守りながらの逃亡の果てに、異母兄に命を奪われるという悲しい結末を迎えたということです。

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別宮・椿岸神社 Wikipediaより 撮影Bakkai

 

椿大神社神楽の発祥地といわれています。天の岩戸の話を作って神楽で上演したからだということです。

閉ざされた天の岩戸の前で、アメノウズメが胸をあらわにして桶の上で踊ります。闇に覆われた高天の原で神懸かりして踊ったのは、実は月の女神でした。

これにより月の女神は太陽の女神より格下となり、月読みの信仰すらも史書の中から消えてしまいました。

イザナギの禊によって天照大神の次に月読尊が生まれますが、その後ほとんど描かれません。

亡くなった豊来入姫は月神の信者たちによって、ホケノ山古墳奈良県桜井市纒向遺跡)に葬ったと伝えられているそうです。大神神社も豊鋤入姫の墓だとしています。

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箸墓古墳と比べるとこじんまりとして、形も方部が目立たない初期の前方後円墳のように見えますね。ちなみに出雲の伝承では箸墓古墳に葬られているのは、イクメ大王の娘である大和姫ということです。

ホケノ山古墳からは内行花文鏡、画文帯神獣鏡が出土しており、三角縁神獣鏡はありませんでした。豊玉姫が魏国からもらった鏡を受け継いでいるとすれば、それは三角縁鏡ではなかったことになります。さらに鉄鏃、銅鏃がそれぞれ60本以上出土し、姫巫女というだけでなく、母である豊玉姫のように東征軍の将軍としての顔を持っていたことが伺えます。

この古墳は3世紀半ばに造られたということなので、豊来入姫は短命だったということになります。ヒミコが亡くなったのが247年頃で、トヨが後継者として王となった時、わずか13歳でした。

 

 

 

天女の羽衣と浦島伝説を結ぶ月の女神

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今回は丹波へ逃れていった月の女神の足跡を追ってみたいと思います。まずは丹後国風土記の伝承から。

 

天の羽衣伝説

奈具社

丹後国に比治の里がある。比治山の頂に「真名井」という泉があったが今は沼である。この泉に8人の天女が降りてきて水浴びをした。そこへ老夫婦が通りかかり、1人の天女の羽衣を隠してしまった。泉から上がった天女たちは羽衣を着て天に帰っていった。ひとりの天女を残して。老夫婦が天女に言った。「私たちには子がいない。どうか私の子になってくれないか」

天女は衣を返すよう懇願したが、老夫婦は衣を渡せば天に帰ってしまうだろうと言ってきかない。天女が言った。

「天の者は真実の心に従います。疑いの心をもっているのは人間でしょう」

衣を返された天女はそのまま老夫婦に付き従った。天女は酒造りに長け、それを一杯飲むと万病を癒した。やがてその家はたいそう豊かになり不自由もなくなった。

10年が過ぎたころ、老夫婦は天女に「私たちの子ではないから出て行ってくれ」と言った。天女は天を仰いで声を上げて泣き、地に伏して悲しみ嘆いた。

「私は自分の意志でここへ来たのではありません。あなた方が願ったからです。どうして急に嫌い憎んで捨てるのですか」

天女は涙を流しながら門の外へ出て呟いた。「長い間人間の世界に沈んでいたので、天に還る方法を忘れてしまった。知り合いもいなくてどこへ行けばよいかもわからない」そして嘆きの歌を詠んだ。

天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも

そこを立ち去って、荒塩の村から哭木なききの村へ、そして竹野たかのの郡舟木の里の奈具の村に行き着いた。「この場所でようやく私の心は穏やかになった(なぐしくなった)」と言ってこの村に留まり住んだ。この天女は奈具の社に鎮座しておられる豊宇加ノ女ノ命トヨウカノメノミコトである。

 

籠神社の奥宮・真名井神社

丹後国一之宮の籠この神社の北に、旧宮である真名井まない神社が鎮座しています。ここは火明ホアカリノ命が天孫降臨した地であり、このブログでは何度も出てきますが、徐福(=ホアカリ)の息子である五十猛(=海香語山)が移住した地です。香語山の息子が大和の初代大王、海村雲でしたね。籠神社宮司である海部家は香語山の直系子孫となります。

籠神社の伝承では始祖火明命が降臨する際に豊受トヨウケ大神とともに地上に降り、この大神を祭る場所として香語山が比治の真名井原に吉佐宮(古くは匏宮)を建てたそうです。籠神社の説明によると、豊受大神は五穀や養蚕を人々に伝えた衣食住の神といわれます。また別名を天御中主アメノミナカヌシ神、国常立クニトコタチ尊、御饌津ミケツ神、その顕現した神を豊宇気毘女神とも言います。食物を司るという類似性から宇迦之御魂ウカノミタマ、保食ウケモチ神などとも同神とされています。ただし丹後風土記にある天女、豊宇加ノ女神は豊受大神の属性の神ですが、伊勢下宮の主祭神豊受大神とは別神であり、御酒殿神として伊勢神宮の所管社に祀られているとのことです。

ここで天御中主アメノミナカヌシに注目してみます。この神は宇宙の中心の神、根源神とされ、道教的な存在です。丹後地方ではヤハウェのことだとも言われているそうです。徐福とともに来日した秦族は、秦に滅ぼされた斉国出身であり、その斉国の王族は消えたユダヤの十氏族のひとつとも言われています。なので徐福の伝えた道教にはユダヤ教の流れがあると。旧約聖書に出てくる食べ物に「マナ」というものがあり、イスラエルの民がエジプトを脱出した後に荒野で飢えた時、神が天から降らせた聖なる食べ物です。100万人の民が救われたそうです。

風土記に記されているのは、豊受大神が降臨した際、真名井を掘ってその水を水田や畑に注ぎ、五穀の種を蒔いたとあるので、この旧約聖書の「マナ」から来ている可能性もありますね。

 

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 天の真名井の水

 

籠神社の伝承では、豊鋤入姫(豊来入姫)が天照大神を大和の笠縫村からここ真名井原に遷し、吉佐宮で豊受大神とともに4年間お祀りしたそうです。元伊勢と呼ばれるところは他にも20数か所ありますが、このように天照大神豊受大神を同時にお祀りしていた宮というのはここだけです。

その後天照大神はヤマト姫(イクメ大王とヒバス姫の娘)によって伊勢の地に遷されました。それから480年後、豊受大神天照大神の食事を司る神として伊勢へと迎えられました。その後、吉佐宮は籠宮として現在の籠神社の場所に移転し、吉佐宮は真名井神社になったということです。現在、伊勢神宮内宮に天照大神が、下宮に豊受大神が祀られています。

 

出雲の伝承

さて、ここで疑問が生じてきませんか。豊来入姫は月の女神を祭祀しており、天照大神ではありませんよね。月の女神が消えています。

出雲の伝承によると、太陽の女神を三輪山から遷したのは佐保姫とされています。前回のブログで紹介したように、佐保姫はイクメ王のもとを去って息子を連れて尾張へと逃げますが、その後、丹波国の海部家に誘われて、真名井神社で太陽の女神の信仰を広めたそうです。けれど間もなく月の女神も丹波へやって来て月神の信者が増えていきました。

佐保姫は志摩国へ行き、伊雑いぞうノ宮(祭神は天照大神)の社家、井沢登美ノ命の援助を受けて、伊勢の五十鈴川のほとりに内宮を建て、太陽の女神を祀ったといわれます。伊勢神宮の起源ですね。井沢登美ノ命は出雲の登美家出身のようです。

大和三輪山から天照大神御神体ともいえる伊勢神宮へと辿り着く何年もの間、太陽は隠れ世界は闇となったでしょう。そして伊勢において天照大神が復活した時、人々はようやく現れた太陽の光に安堵のため息をもらしたことでしょう。これが天の岩戸隠れの真相なのかもしれません。

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一方、月の女神を遷した豊来入姫については、斎木雲州氏と勝友彦氏で一部違いがあります。斎木氏は豊来入姫が丹波の海部氏から招かれて、真名井神社月神信仰を広め、月読ノ神は豊受ノ神と名を変えたといいます。そうであれば籠神社の言う、天照大神豊受大神を4年間お祀りしたという伝承と重なります。ただし豊受ノ神=月読ノ神なのかどうかは定かではありませんが。

勝氏は豊来入姫は大和の笠縫村から逃げて丹波竹野郡舟木里に奈具社を建て、月読ノ神を豊受ノ神の名で祀ったといわれます。そうであれば天の羽衣伝説の天女は月の女神を連れて逃げてきた豊来入姫であり、豊宇加ノ女ノ命は豊受大神ということになります。さらに豊来入姫はその後、与謝郡伊根の宇良社(浦島神社)へと移ったといいます。ここの社家は道主大王の子孫だそうです。(海部氏は丹波道主は海部氏の祖先としています)

豊来入姫は今度は伊勢の椿大神社つばきおおかみやしろに招かれて行くのですが、彼女を連れていったのが本庄村の島子シマコだそうです。この島子という人物、水ノ江の浦島子や筒川の島子(日下部の首らの先祖)とも呼ばれます。島子とは役職名のようで、世代には幅があります。ここで丹波国風土記に記された島子の伝説を要約しますね。

 

浦島太郎伝説

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浦島子

与謝の郡、日置の里に筒川の村がある。日下部の首らの先祖、筒川の島子という者がいた。いわゆる水ノ江の浦島ノ子のことである。これは前の国守、伊予部の馬養イヨベノウマカイの連が書いたものと同じ話である。

雄略天皇の御世(5世紀)、島子がひとり小舟に乗って釣りをしていた時、五色の亀を釣り上げた。亀は美しい乙女に変身した。神仙の乙女であった。乙女から結婚したいと望まれ島子は応じた。ふたりは海中の蓬莱山(神仙の世界)へと着いた。御殿は輝き、見たこともないほどに美しいところだった。門の前で7人の童子が現れ「この人は亀姫の夫だ」と言った。次に8人の童子が現れ同じことを言った。亀姫は童子らをスバル星とアメフリ星だと説明した。両親に歓待され、ご馳走を食べ美酒を飲み、神々の舞に酔った。3年が過ぎ、島子は父母を思い出して恋しくなった。姫は「永遠を約束したはずだったのに」とひどく嘆き悲しんだが、島子は帰ることを決意した。別れの時、姫は島子に美しい化粧箱を手渡した。

「私に再び会いたいと思うなら、この箱を決して開けないでください」

島子は筒川の里に戻って来た。知っている人は誰もいなかった。村人に尋ねると「水ノ江の浦島という人は海に出て行方不明になったと聞いています。300年前のことですが」と言う。島子は驚き悲しみ何日も過ぎた。島子は姫のことを偲び、ふいに手の中の化粧箱を開けてしまった。するとかぐわしい姫の姿が煙のように現れ、風とともに天へと舞い上がって消えていった。島子は2度と姫に逢えないことを悟り、涙に咽んで歩き回った。

 

この話を書いたという伊予部の馬養とは、四国伊予国の国造家子孫で、先祖は出雲の八井耳ノ命だと古事記に書かれています。事代主の子孫であり、また海部氏の血筋でもあるようです。馬養は689年に撰善言司よきことえらぶつかさという説話集を書く委員に選ばれ、のちに記紀の中にこの説話が入ってきます。彼は丹波国の国守をしたので、その地方の伝説をもとにして「浦島子」の話を書いたようです。「天の羽衣」もこの人が書いた可能性が高いといいます。時代が下りますが、平安時代に世に出た竹取物語も、実はこの人が書いたのではないかとも言われています。

この浦島子の話、神仙や蓬莱山というモチーフに道教を感じます。童子らのことをスバル星などというところも、道教の星信仰を思わせますよね。童子らは徐福が連れて来た海童たちに重なりますし。筒川のツツというのは古語で星のことを指し、星川の意味になります。筒川中流に宇良神社(浦島神社)が鎮座しています。祭神は浦島子明神と月読ノ命です。

日本書紀の雄略紀22年に「浦島子が船に乗って釣りをしていた。まったく釣れなかったが最後に大亀を釣った。それが女に変わり、妻とした。二人は海中に入り蓬莱山に着いて、仙人の世界を巡り見た」とあります。この年、伊勢神宮に外宮が建てられ、豊受ノ神が祭られたそうです。

また山城国風土記逸文、桂の里に「月読ノ尊が天照大神の命令を受けて、豊葦原の中つ国に天降り保食ウケモチノ神のもとにやってきた」とあります。

話をまとめると、宇良神社の神主だった島子が、月読ノ命の御神霊を伊勢へと運び、外宮で月読神を祀り奉仕を続けました。歳月が過ぎ、老齢となった島子が筒川村に帰ってくると、もう誰も知っている人はいなかった、という島子の体験を物語に変えたということのようです。

浦島太郎の竜宮城の話は古事記の海幸山幸神話と重なります。山幸が出会ったのは豊玉姫であり、島子が出会ったのは豊玉姫の娘である豊姫が守っていた月の女神ですので、ふたつの話が似ているのは作者の意図であったように思えます。伊予部馬養と柿本人麻呂は同時代に生きた人です。丹波の伝承を描いた物語を、人麻呂が海部と物部の関係の例え話として取り入れたのかもしれません。

 

籠神社のホームページなどでは豊受大神月神を関連づけるような記事は見当たらないのですが、籠神社発行の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」を読み直してみるとありました!

豊受大神はその御神格の中に月神としての一面も持っておられ、真名井神社の昔の例祭が9月15日の満月の日に行われたこともその反映と思われる。

イコールではないものの、月神を隠すためか豊受大神の中に埋没させたのかもしれません。

もうひとつ加えると、太陽神をお天道様といいますが、月神は「お陰の神様」とも呼ばれていました。月の明かりで夜道も照らされます。それで月神に感謝して「お陰様で」と言うようになったそうです。真名井神社では豊受ノ神を「御蔭みかげの神」とも呼んだそうです。江戸時代に伊勢への参拝がとても流行しましたが、これを「おかげ参り」と呼びました。願いごとをするのではなく、日々守って下さっている大神様への感謝を伝えるためのお参りだったそうです。伊勢神宮では内宮よりも先に外宮のお祭りを行うというしきたりが古代よりあって、おかげ参りの際にも先に外宮の豊受大神様へ参拝する習慣があるそうです。さらに伊勢神宮だけでなく豊受大神の故郷である真名井神社まで参拝者が押し寄せたということです。伊勢神宮天照大神よりも豊受大神のほうが優先されているみたいですね。

 

勝氏の伝承では豊来入姫が奈具社から宇良社へ行き、そこから島子に連れられて伊勢の椿大神社へと移ったとありますが、この島子は浦島子の物語とは別人で、豊来入姫の時代の宇良社神主の島子ということなのでしょう。物語では重ね合わせているかもしれませんが。

それから最初に紹介した天の羽衣伝説の比治山の真名井と、吉佐宮の比治の真名井原というよく似た名のふたつの場所の意味はわかりませんでした。比治山から吉佐宮へ月の女神が遷ったと考えるのが自然だとは思いますが。勝氏と斎木氏の伝承を合わせればそういうことになります。比治山の真名井⇨奈具社⇨宇良社⇨吉佐宮⇨伊勢

 

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さて、羽衣伝説の天女を、追われ逃げ惑う豊来入姫だとすると、この女性もまた重く数奇な宿命を背負ったひとりの姫巫女として胸に迫ります。そして浦島子の物語の中で、姫が愛した人に手渡した玉手箱には、姫巫女という宿命ではなく、豊姫自身の切なる想い、魂が込められていたように思うのです。だから開けないでほしかった。ずっと愛しい人のそばにいたかった。けれど豊姫の想いはあっけなく空へと立ち消えていきました。

物語の作者はこれを天女がようやく天へと還っていったと表したかったのか、それともこの先に待ち構える豊姫の最期を暗示しているのか。どちらにしても、この国から消えてしまった月の女神は、今もなお還る場所を探して彷徨っているような気がします。

 

次回は豊来入姫が記紀でどのように描かれているのか、そして姫のその後を辿りたいと思います。

 

 

 

太陽の女神(オオヒルメムチ)VS 月の女神(ワカヒルメムチ)

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イクメ王の率いる東征軍が生駒山地に逗留している頃に話は戻ります。今回は勝友彦著「親魏和王の都」を参照します。

 

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3人目のヒミコ

大和では磯城王朝10代ヒコイマス大王が亡くなり、娘の佐保姫三輪山の姫巫女となっていました。三輪山の姫巫女は代々登美家の姫が受け継ぎます。

イクメ王は大和を支配するにはこの姫巫女を味方につけるのが得策と考え、佐保姫を妻とします。佐保姫は大霊留女貴オオヒルメムチと呼ばれました。のちにオオヒルメムチが太陽の女神を意味するようになったといいます。この女性がいわゆる3人目のヒミコです。

佐保姫の兄、佐保彦(磯城王朝11代ヒコミチノウシ大王の異母兄弟)は和邇の都を守るため佐保川周辺に軍を配置していました。しかし妹がイクメ王の后となったため一旦休戦せざるを得ません。

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★軍の位置関係をおおまかに示したものです。範囲には意味がありません。

この時、遅れて大和入りした豊来入彦率いる豊国軍は、物部軍の南側で陣営を張りました。そしてイクメ王が大和の佐保彦と休戦したことを知ります。豊来入彦は母、豊玉姫(ヒミコ)が魏より親魏和王に任命されたことから、自分の方がイクメ王よりも後継者として相応しく、妹の豊来入姫を大和の姫巫女(月の女神)にするよう考えていました。なので先にイクメ王が三輪山の姫巫女(太陽の女神)である佐保姫と組んだことに不満を抱きました。

同時期に魏領の帯方郡から北九州の伊都国に来ていた使節の張政が、文書で豊来入姫を豊玉姫の後継者として指名します。和国は魏の属国なのでイクメ王も従うほかありません。物部勢は再び豊国軍と手を結びます。イクメ王は豊来入彦から佐保姫と離縁するよう迫られ、応じました。

豊国軍はその後鳥見山の登美の霊畤を占領、そして登美家(加茂家)の勢力を追い払いそこに住み着きます。豊来入姫4人目のヒミコとして、大和に月神の信仰を広めました。三輪山に桧原神社を建てて月神を祭りました。この宇佐の月の女神は太陽の女神オオヒルメムチに対してヒルメムチと呼ばれたそうです。

形勢不利となったイクメ王は密使を出雲の向家(富家)に送ります。「出雲兵を大和に派遣して豊国軍を追い払えば、大和に領地を与える」と。それと同時に、豊来入彦に佐保彦軍を追い払うよう仕向けます。

イクメ王はなかなかの策士ですね。物部勢力は第1次東征の頃から他より抜きん出ているように感じます。

さて、豊来入彦の息子、八綱田ヤツナダを将軍とした豊国軍に佐保彦勢は攻め込まれ、近江から尾張国の丹羽郡へ逃げたそうです。佐保彦はさらに東へ向かい、甲斐国にて日下部連と名前を変えました。

豊国軍は山城国まで追い、そこから亀岡に逃げていた道主大王(ヒコミチノウシ大王)を倒しに向かいます。その隙を狙って大和から追い出されていた加茂家のタタヒコが三輪山に侵攻します。すでに出雲から加勢に来ていた出雲軍とともに、もとの領地と磯城王朝の領地の一部を得ます。豊国勢力を追い払った加茂タタヒコは三輪山の祭祀を復活させ、この時から初の三輪山男性司祭者となりました。記紀では大田田根子となっていますが、この人はモモソ姫の世話役だったので時代が違います。タタヒコは子孫のようです。

亀岡では道主大王軍と、加勢していた武内宿祢の軍勢が豊国軍と物部軍に取り囲まれ、ついに降伏しました。

イクメ王は今度は道主大王の娘、ヒバス姫を后として支配力を強めようとします。道主大王は丹波の網野へと去っていき、網野神社を建て、父であるヒコイマス大王を祭りました。道主大王はその後、稲葉(のちの因幡)国造に任命され、青年期の名前、ヒコタツとして移住します。

磯城王朝11代・道主大王=ヒコミチノウシ大王=ヒコタツ

武内宿祢もそれに従います。道主大王の御子は磯城王朝の直系ということを誇示し「朝廷別王ミカドワケ」を名乗って三河の豪族となったそうです。

イクメは大和の大王(垂仁)となり、この時より大和における物部王朝が始まります。イクメは旧都、和邇石上イソノカミ神宮を建て、政治の中心としました。ヒバス姫の御子、イニシキイリ彦が鉄剣1000本を作って石上神宮に納めたといわれています。物部王朝時代の武器庫でもあったそうです。

イクメ大王は魏との国交を絶ちました。属国からの脱却です。親魏和王、ヒミコの功績を覆した瞬間ですね。このずいぶん後になりますが、日本の史書から豊玉姫(ヒミコ)が消えたのは、魏の属国であった負の歴史を消すためだったようです。

大和から追い出された豊来入姫は兄たちのいる丹波へと逃げました。しかし豊国軍と物部軍の不和によって豊国軍は東方へと移住していき、尾張国に至ります。近辺には豊の地名が残っています。豊明、豊田、豊川、豊橋など。豊来入姫は布教のために丹波に残りますが、詳細は次へ回します。

 

もうひとつの伝承

さて、斎木雲州著「古事記の編集室」によると、少し違う伝承が見えてきます。イクメ王が佐保姫を離縁したのではなく、佐保彦を倒そうとしているイクメ王に対して、佐保姫から離縁を申し出たとされています。イクメ王はそれを許さなかったので、佐保姫は夜中に幼い息子、ホムツワケを連れて兄のもとへ逃げたといいます。その後尾張家を頼って尾張へ至ったと。尾張国風土記逸文にその後のホムツワケの様子が記されているので要約します。

垂仁天皇の世、ホムツワケ皇子は丹羽郡吾縵あづら郷(愛知県一宮市)に住んだが、7歳になっても言葉を発することができなかった。ある夜、佐保姫の夢に多具の国の神、ミカツ姫が現れ「まだ私には祭祀してくれる者がいない。私を祭るなら御子の病を治し長寿を与えよう」と告げた。霊能者(神と交流できる)の日置部の祖、建岡ノ君は美濃国の花鹿山(岐阜県揖斐川町谷汲)に行き、榊の枝で縵かづら(古代のかんざし)を造った。そして占うと、その縵がひとりでに飛んでいって吾縵の地に落ちたので、ここにミカツ姫がいらっしゃるとわかり社を建て、神を祭った。それでホムツワケは言葉を喋るようになった」

今も阿豆良あづら神社が鎮座し、垂仁朝57年に創建、ご祭神はミカツ姫となっています。

このミカツ姫出雲国風土記にも記されています。詳細は省きますが、アジスキタカヒコの妻、御梶ミカジ姫のことのようで、アジスキタカヒコといえば八千矛(大国主)の息子で高鴨家の祖ですね。つまりミカツ姫とは大国主の息子の嫁にあたるわけです。

多具の国とありますが、出雲の松江市鹿島町に多久神社があり、風土記の頃からミカツ姫を氏神様として祭っているそうです。また出雲市多久町にも多久神社があり、こちらは御梶姫を祭っています。ここで息子の多伎都彦を生んだといわれています。

さて、この尾張国風土記が元になって、古事記ではかなりドラマティックな話に変わっています。要約します。

 

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佐保姫と佐保彦、そしてイクメ王の恋

「お前は大王である夫と兄の私と、どちらを愛しいと思っているのか」

そう問われた佐保姫は「お兄さまです」と佐保彦に答えた。

「それが本当であるなら、私とともにこの国を治めよう」そう言って佐保彦は小刀を妹に手渡した。眠りについた大王をこれで殺してほしいと言って。

ある日、佐保姫は自分の膝枕で眠る夫の首を見つめながら小刀を手にした。三度小刀を振り上げたけれどどうしても振り降ろすことができず、涙がこぼれた。大王の頬にその涙が落ちる。大王は驚いて后に尋ねた。「あやしい夢を見た。サホのあたりから叢雨が降ってきて、小さな蛇が首にまとわりついた。どういうしるしだろうか」

その言葉を聞いて佐保姫はすべてを打ち明けた。大王はすぐに軍を仕立て佐保彦を撃とうとした。佐保彦は稲城を作って防備した。兄の窮地を知った佐保姫は王宮から抜け出して兄のもとへと走った。しかしその時すでに佐保姫の体には子が宿っていた。

大王は数多い妻の中でも佐保姫を特別愛おしんでいたため、佐保姫のいる稲城へ攻め込むことができなかった。何ヶ月かが過ぎ、佐保姫に宿っていた御子が生まれ落ちた。佐保姫はその御子を連れて稲城の外に置いて使いの者に言った。

「もしこの御子を大王の子だと思ってくださるのなら、お育てくださいませ」

大王は「佐保彦は憎い。けれど后を愛おしく思う気持ちを抑えることはできない」と言った。そして后を取り戻そうと試みたが、佐保姫は大王の先を読んでうまくすり抜けた。御子は大王のもとに渡った。

その後も大王は何度も佐保姫を取り戻すための言葉をかけた。

「子の名は母がつけるものだ。この子を何と呼べばいいのか」

「御子は火の中に生まれ出たので、ホムチワケ(火内、火中の意)の御子といたしましょう」

「いかにして養い育てればよかろうか」

「乳母を選んで養い育ててください」

「そなたの固く結んでくれた下着の紐は、誰に解かせればよかろうか」

丹波のヒコミチウシ(佐保姫の異母兄弟)の娘らは心根が清くやさしいので、后として選ばれるのがよろしいでしょう」

大王はついに尋ねることがなくなり、これ以上引き延ばすこともできず、とうとう佐保彦の稲城に火を放った。兄の後を追って佐保姫も死んでしまった。

ホムチワケの御子は生まれつき物言わぬ子であった。大王はこの病を治そうといろいろ試みたけれど、ホムチワケは成長しても物を言うことはなかった。

ある夜、大王の夢にお告げがあった。出雲の大神の祟りであることがわかった。我が宮を立派に作り直したならば、御子は言葉を話すであろうと。そこで大王は曙立アケタツと菟上ウナカミホムチワケのお伴をさせて出雲の大神の宮へと向かわせた。出雲で大神を拝み終わったホムチワケは突然話し始めた。この夜、ホムチワケはヒナガ姫と共寝をしたが、実は姫は人ではなく蛇であったという。驚いたホムチワケは慌てて逃げ帰った。

大王はホムチワケが物を言うようになったことを喜んで、菟上を出雲へ遣わせ、出雲の大神の宮を大王の大殿のごとくに作り飾らせた。

 

古事記ではこのように、兄妹の許されぬ愛や大王の狂おしいまでの愛慕を描いた話となっています。でも伝承では佐保姫は尾張へと逃げることができたようですし、ホムチワケも母のもとで育っているので、これほどのドラマはなかったようですね。となるとこの話を描いたのは何を伝えるためだったのか、ということを拾っていったほうがよいでしょう。

政治的な面を見れば、物部東征軍が出雲国を滅ぼした、その祟りによって御子に災いが起きているわけです。そして祟りを解くために出雲へ派遣されたのが菟上王(豊来入彦の息子)と曙立王(物部朝倉彦)(登美家の分家)2018/09/23訂正であり、この2人は西出雲王国を滅ぼした将軍です。曙立王のフルネームが古事記の中で記されていて、倭者師木登美豊朝倉曙立王であり、ヤマト、磯城、登美、豊、朝倉が並んでいますね。すべてに関係した者という意味でしょうか。まるで暗号のようです。

次に兄妹の禁断の愛を描く意図を、Sorafullの推測で説明してみたいと思います。

母系家族制かつヒメヒコ制というこの時代特有の兄妹の緊密な繋がりを、こういった物語でなぞったのではないかなと思います。母系家族制では男兄弟は姉や妹たちの面倒を最後まで母の実家でみるわけで、しかも佐保彦が王であれば佐保姫は姫巫女として共に国を治めることもあります。そんな妹が敵であるイクメ王の后となったために、佐保彦は複雑な心情を抱き始めます。一方佐保姫にしてみれば、望んで敵方のイクメ王の后になったはずもなく、本心は兄とともに自分の国を守りたい。でもイクメ王の愛情に接するうちに女としての情も湧いてくる。そんな引き裂かれるような思いの中で大王に対して、

「私を信じてくれるのなら、命より大切な御子をあなたに差し出します。そして私の命でもある兄とともに、死を選びます」

と言い放ったように思えるのです。出雲を滅ぼされ、大和まで奪われそうになっている三輪山の姫巫女として、今できることを真摯に貫いた女性の覚悟をここに感じます。

1人目のヒミコである三輪山の姫巫女モモソ姫は、第1次物部東征において物部と協調する道を選び、やがてそのカリスマ性によって敵をも抱きこんでいきました。2人目のヒミコ、豊玉姫は夫によって物部に差し出されますが、その宿命を受け入れ、やがて物部東征の総指揮者として命果てるまで挑みます。

神と繋がること、国の命運を背負うこと、女として、そして母としての想い。

この時代の姫巫女という立場を全うした女性たちの直向きさと悲しみが、佐保姫の物語によって鮮烈に浮かび上がってくるようにも思えるのです。

次回は4人目のヒミコを紹介します。

 

★おまけ★

長くなりましたので「おまけ」として追記しますね。

古事記の中でイクメ大王が佐保姫と御子を稲城から確保しようとしたときのことです。

佐保姫はあらかじめ髪を剃ってカツラをかぶり、玉飾りの紐も腐らせておき、衣も腐らせて身に着けていました。力士たちが御子を受け取り、すぐに姫を捉えようとしましたが、髪をつかむとするりとカツラが取れ、手を握ろうとすると手首に巻いた玉飾りの紐が切れて玉が散り落ち、衣を握ったと思えばぼろぼろになって破れてしまい、姫はするりと逃げてゆきました。それを知った大王は悔しがり、特に玉飾りを作った者たちをひどく憎んで、その者たちの土地を奪い取ってしまいました。今に伝わる諺に「地ところ得ぬ玉作り」と言われています。

と、こんな諺が出てくるのですが、古事記の訳者たちは諺の意味がわからないそうです。なぜ玉作りだけがこれほど憎まれ、しかも土地を奪われるのか。

Sorafullの解釈ですが、玉作りといえば出雲です。勾玉は出雲王国と親戚になった豪族たちが、その証として身に着けるものでした。東出雲王国は玉作りが資金源でもあったようです。第2次物部東征によって出雲王国は滅亡、出雲国を除いた広大な連合国は没収され物部の支配下となります。その後の大和での野見宿祢らの功績は認められたものの、結局大和に領地はもたないままとなりました。加茂家だけが少し取り戻しましたが。このことから「地得ぬ玉作り」という諺ができたのではないのかなと思っています。

ちなみに三浦佑介氏は、竹取物語の中にも共通のパターンがあると指摘しています。偽の真珠の枝を作らされた職人たちもまた、ひどい目に合わされたからです。この竹取物語を読み解くことで、記紀がどのように創られたのかが見えてきます。少し先になりますが、ご紹介したいと思っています。