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源流なび Sorafull

朱の国⑵ベンガラから水銀朱へ(前編)

 

  

人はなぜ「赤」という色に惹かれるのでしょうか。惹かれるというよりも、実際には鼓動が高まるといったほうがいいのかもしれません。

赤色には警告音のような響きがあります。「血が流れる⇒生命の危険」を瞬時に察知するために、鼓動を上げて生命維持に向かうという進化の方向だったのかも。ですがこの赤色への恐れはやがて「畏怖」という複雑な感情へ変化していきます。

古代において「赤」は汎世界的に生命の色、太陽の色でした。一度死んで、再び生まれる。赤は死と再生の循環を意味する根源的な色と認識されたのです。

 

ベンガラの赤

人類が最初に出会った道具としての赤は酸化鉄=ベンガラです。

南アフリカの南端に「ピナクルポイント」と呼ばれる、初期ホモ・サピエンスの痕跡が残る地域があります。19万年前に始まった長い氷河期に、アフリカ南岸へと逃げた人たちがいました。

ピナクルポイントのブロンボス洞窟では、10万年前の絵具の製作工房が見つかりました。出アフリカ以前のこと。

鮮紅色の粉末が付着したアワビの貝殻が発見されたのです。ベンガラ、油(アザラシ骨粉)、炭、珪岩片、液体を混ぜ合わせた原始的な顔料ですが、色合いを調節していたこともわかっています。貝殻はこれらを混ぜ合わせるパレットでした。用途は不明ですが身体に塗ったのではないかと考えられています。また同じ場所で、7.3万年前に石に描かれた赤い模様も見つかっています。

10数万年前にはここで石器材料の加熱処理を行って細石刃も作られていました。ヨーロッパや日本でこれらの技術が現れるのは10万年ほど後となるので、ピナクルポイントだけの石器時代ですね。すごいです!

 

5~6万年前にはスペインのラパシエガ洞窟など複数の洞窟で、ベンガラで描かれた壁画が見つかっています。当時まだサピエンスがヨーロッパには到着しておらず、ネアンデルタール人が描いたと考えられます。

サピエンスのものとしては3.6万年前のショーベ洞窟や、2万年近く前のラスコーやアルタミラの壁画で、ベンガラが使われています。

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ショーベ洞窟の壁画

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アルタミラ洞窟の壁画(複製)Wikipediaより

日本では北海道で1.5万~2万年前に16遺跡以上のベンガラ製作所がありました。赤鉄鉱を粉砕して粉末化します。この頃は木器や身体への塗布に使われたと考えられますが、旧石器時代が終わる頃になるとベンガラの施朱(赤色顔料を遺体に塗布したり墳墓に敷き詰める風習)が始まりました。

 

ベンガラから水銀朱へ

埋葬儀礼として赤い顔料を使い始めた時、「赤」に霊的な意味合いが生じていたと思われます。死者を守ってもらう、そして血の色、生命の色を施すことによって再生を願う、そんな託す、委ねる気持ちが起こっていたのではないでしょうか。

施朱の最も古い例はネアンデルタール人の遺骸に施されたベンガラだそうです(市毛勲著「朱丹の世界」)。調べてみましたが詳しいことはわかりませんでした。

中国の周口店遺跡では1~1.8万年前の人骨にベンガラの施朱が見つかっています。

日本では旧石器時代末から北海道で始まり、縄文後~晩期に全盛期を迎え東北北部に広がりますが、弥生中期に衰退。一方、北九州では縄文後期に始まり、弥生~古墳時代に渡って継続して施朱が見られ、その間山陰、近畿、関東へと波及しました。

この北方系と九州のふたつのグループの大きな違いは、施朱に使われていたのが前者はベンガラであり、後者は主に水銀朱だったことです。九州でも縄文早期からベンガラは製造されていましたが、死者に使われることはあまりありませんでした。注)遺体に朱、墳墓の壁にベンガラと区別していたり、頭胸部に朱、下半身にベンガラというパターンはあります。

市毛氏は北海道から九州へと伝わったのではなく、別々のルートで入ってきたとみています。

 

北九州グループの最古の施朱は、福岡県遠賀川河口にある山鹿貝塚の人骨(土坑墓)にみられるそうで、およそ3500年ほど前となります。市毛氏は人骨の赤色顔料を出土状況によって水銀朱が使われたと判断されていますので、成分分析はなされていないのでしょう。ただし、この山鹿貝塚の施朱が糸島半島など北九州に流行し、縄文晩期からの墳墓群で水銀朱が検出されており(木棺)、散布法が同じパターンなので、同系統の可能性が高いです。

 

また北九州では弥生前期~中期に甕棺墓の最盛期を迎えます。出雲伝承で徐福が住んだといわれる吉野ヶ里遺跡(紀元前4~前3世紀)には、多量の水銀朱が埋葬された甕棺も見つかっており、副葬品も多く出土しています。被葬者は小国の王と推測されます。

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吉野ヶ里遺跡 甕棺墓埋葬の模型

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 吉野ヶ里遺跡 発掘された場所の真上に同じ向きで再現

福岡平野周辺において、この頃までは小児が甕棺に埋納され、成人は木棺に埋葬されていました。甕棺は中国の周時代には未成年を葬る棺であったそうです。出雲伝承の富士林雅樹氏は、吉野ケ里の甕棺は山東省歴城県出土のものと同じであるといわれています。山東省出身の徐福の渡来によって埋葬方法が変化したのかもしれませんね。ということは、徐福渡来以前にここで勢力をもっていた集団が、周へと往来していた可能性も。それが倭人では。(周の成王の時、倭人朝貢したという話が論衡にあり)

 

世界で水銀朱による施朱をみてみると、エジプトでは紀元前16世紀の墳墓に認められます。中国では殷の遺物にみられますが、それに先立つ二里頭遺跡から朱を敷いた墓穴や玉が見つかっています。3500~3600年前のものだそうです。(岸本文男著「中国史にみる水銀鉱」)

日本、エジプト、中国で同時代に水銀朱による施朱が行われていたことになります。どこから発生したかはわかりませんが、ベンガラではなく朱を埋葬儀礼に使うというところに、赤色顔料というだけではない朱独自の個性が生まれていたということでしょう。

※施朱の文化は朝鮮半島にはなく、わずかにみられるものは倭人の墓であるようです。

 

次回に続きます。

 

 

  

  

朱の国⑴生きている赤

私 Sorafullが出雲伝承に出会ったきっかけのひとつは辰砂しんしゃ(水銀の原鉱石である硫化水銀)の存在でした。

友人が「賢者の石」とも呼ばれる辰砂に興味をもち、歴史好きというわけでもないのに、大和と辰砂の関連については何度も私に話をしてくれました。なぜ現代の人に辰砂のことが伝わっていないのか不思議でならないと。

確かに古代豪族たちがなぜ山奥の不便で狭く、沼地ばかりの大和をこぞって狙ったのか、辰砂を除けば他に理由は思い当たりません。それが大和の水銀鉱脈を得るためだったのではないかと想定すると、神武や朝廷によって征伐された先住民「土蜘蛛」とは、辰砂に関わる人々の可能性が高まります。蜘蛛の字を分解すると「朱を知る虫」と読めなくもありません。古事記の著者はここにメッセージを込めているのかもしれない、と勝手に想像したのです。

さらに古事記では「土雲」と表記していることに違和感を覚え、「出雲」と漢字表記が似ているのは偶然だろうかと疑問を持ちました。

間もなく出雲伝承に出会い、そこに書かれていた王の風葬について目にした時、ドキリとしました。出雲王国の前~中期においては、王の遺体に水銀朱を注ぎ込み腐臭を防いだと記されていたのです。紀元前6~前3世紀頃といえば徐福が来日する前です。不老不死の薬として水銀に魅入られた始皇帝が徐福を派遣し、最初に出雲へ上陸したのはそこに理由があったのではないか‥‥。

けれど出雲伝承は水銀朱についてそれ以外のことを語っていません。むしろ製鉄族であったとことを強調されています。それでも「丹生」という地名や神社の近くに加茂川や賀茂神社など出雲系の存在がしばしばみられ、まったく無関係とはいえないのではないかと思うようになりました。

なので辰砂については出雲伝承ではなく、Sorafullの調査によるものですのでご注意ください。

 

辰砂の呼び名

辰砂(Cinnabar)は中国の辰州で多く産出したことからこの名がつきました。Cinnabarの語源はペルシャ語で「龍の血」。

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写真は中国産の辰砂ですが、このような結晶は日本ではほとんど見られません。三国志魏書に記された、魏から邪馬台国への贈り物に「真珠」とありますが、これはパールではなくこの宝石のような辰砂の結晶ではないかとみる説もあります。唐の医薬書に朱の別名として真珠とあるそうです。

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辰砂の鉱石(徳島県若杉谷採集)淡路島日本遺産展資料より

日本で多いのは、写真のような岩石に染み込んだタイプです。

 

鉱物名は辰砂といいますが、化学用語としては硫化水銀、考古学では他の朱と区別するために水銀朱と呼ぶこともあります。

ややこしいのが、考古学において「朱」とは、

・水銀朱(硫化水銀=硫黄と水銀の化合物)⇒鮮紅色

・ベンガラ(酸化鉄)⇒やや茶色くくすんだ赤色

・鉛丹(酸化鉛)⇒黄みの強い赤色

この3つの赤色を指します。この中で水銀朱の赤はと呼ばれました。ところが天平以降、人工物である鉛丹が壁画の塗料として使われるようになり、これもまた丹と呼ばれたためややこしいことになります。鉛丹の赤は黄と赤の中間のような色ですので判別しやすいですが、長い年月を経ると両者とも酸化して黒ずんでくるようです。

天平時代以前においては「朱」の区別が必要なのは水銀朱とベンガラになります。20世紀に入って化学分析が行われたことで、これらの判別はできるようになりました。最近では水銀朱の理化学的な分析によって、産地同定まで可能になってきています。

またベンガラの赤は古くはそほと言い、それに対して水銀朱の赤を真赭まそほ、と呼びました。つまり古代の人々にとって水銀朱の赤こそが正真正銘の赭そほだったのです。他にも赤土の中の真赤土、朱の中の真朱といったように。水銀朱はベンガラのようにどこでも採取できるわけではなく、貴重なものでした。

さらに辰砂には砂状、粉末状、岩石の状態があり、日本に多いとされる岩石状のものを朱石辰砂鉱石、それが崩れて砂状になったものを朱砂しゅさ丹砂たんさと呼ぶようです。粉末は杵と臼で細かく精製したもの。

ただし研究者によって使い分けが違うこともあるようで、松田壽男氏は辰砂と同じように朱砂という言葉を用いておられますし、朱と呼ぶ人もおられます。当ブログでも辰砂や朱砂などを使っていますが、朱色のイメージを保ちたいので、辰砂を朱、朱砂、水銀朱とし、ベンガラの場合はベンガラと表記したいと思います。

 

朱の研究者たち

先に数少ない朱の研究者の方々を紹介します。

すでに何度も書かせて頂いていますが、松田壽男氏東洋史の研究者です。日本の古代の朱砂、水銀文化が忘れられ研究対象にもなっていない中、全国に残る朱の痕跡としての「丹生」という地名や神社、苗字を隈なく実地調査されました。東洋史が専門ですので、古代中国で水銀がいかに求められ使われていたかを熟知されていたからこそ、日本に僅かに残る朱の痕跡を見逃すことはできなかったのではないでしょうか。

一方、鉱床学の専門家である矢嶋澄策氏は、古代からの水銀鉱床を調べておられました。北海道のイトムカ水銀鉱山の発見者であり工場長を務めた方です。この二人が昭和30年に出会い、矢嶋氏は松田氏の各地で採取した試料を成分分析するという形で共同研究が始まります。人文科学と自然科学の協力が新たな分野の扉を開いたのです。それが松田氏の著作「丹生の研究」や「古代の朱」として記されました。

考古学では市毛勲氏の「朱の考古学」「朱丹の世界」を参考にしました。旧石器時代から使われてきた赤色顔料としてのベンガラや水銀朱について、総合的に知ることができます。

現・近畿大学理工学部教授の南武志氏は、水銀朱を理化学的に分析することで朱産地の同定を試みておられます。これによって古代の権力推移が見えてくるのではないかと、歴史的視点も持ち合わせておられます。論文がネット公開されていてありがたいです。

蒲池明弘氏はこのところよく紹介させてもらっていますが、2018年に「邪馬台国は「朱の王国」だった」を出版されました。最近この本に出会い、そこで南武志氏の研究も知って、松田氏たちの後を引き継ぐ方々の存在に安堵しつつ刺激を受けました。蒲池氏は邪馬台国に始まるビジネスとしての朱の歴史を説いておられます。朱の全体像を知るのにもってこいの本だと思います。

その他、大和の郷土史家、田中八郎の説も追々紹介しようと思います。

 

朱の採掘

朱は先の写真にあるような岩石の塊として多くみられましたが、それらが崩れて土壌の赤土となったり、川の底に堆積して水が赤く映っていたようです。縄文の頃はこの鮮烈な赤い風景を目にすることが、珍しいことではなかったのかもしれません。すでに採りつくされていたであろう江戸時代にも、青森県には朱色の風景が残っていたことが、橘南谿の「東遊記」に美しい描写で記録されています。

松田壽男氏も朱の坑道の中の様子を、何もかも紅ひといろの美しい別世界と述べ、その紅を『この世のものとは思われない赤』『絵具などでは比較にもならないような、深みと潤いに輝いている』『生きた色』と称賛しています。色そのものが生命感に溢れているようですね。

古代にタイムスリップして朱の風景をこの目で見てみたいものです。

 

他にも粘土脈や石英脈などの割れ目に岩石状に介在したり、下の写真のように岩石に嵌入して赤い糸のようにみられることもあります。

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石灰岩に嵌入した辰砂を含む熱水脈(淡路島日本遺産展資料より)

蒲池明弘氏は朱石に走るこの赤い糸や網目模様を、まさしく土蜘蛛の吐き出す蜘蛛の糸ではないかと表現されています。記紀に記された先住民の土蜘蛛は、やはり朱の採掘民だったのでしょうか。

松田氏は記紀風土記にみられる血原、血田、血浦といった地名はすべて水銀産地であり、朱の露頭や堆積を血で表していたのだといわれます。

例えば神武天皇が、大和の宇陀を統治していたウカシ兄弟を征伐する場面では、神武を討とうと企んだ兄が弟に裏切られ、自ら仕掛けた罠の押機で圧死します。その死体を斬ると、流れた血が踝くるぶしが埋まるほどに溢れたことから、そこを「宇陀の血原」と名付けたと。

景行天皇が豊後で土蜘蛛を討った際には、椿の木で椎(物を打つ道具)を作り敵を殺し、血が流れ踝まで浸かったので「血田」と呼ばれたと。

これら先住民への「誅殺」と称した残虐な行為が度々描かれていますが、蒲池氏は兄ウカシの圧死は、朱石をすり潰す光景を説話化したものではないかという解釈があることを紹介されています。宇陀の次の場面、忍坂でも土蜘蛛たちを「石鎚で撃つ」という表現があり、これも朱石を打ち砕き、磨り潰すための道具に見えると。確かに景行天皇の場合もわざわざ椿の木で椎を作って土蜘蛛を殺します。これらが朱の精製を表していると考えれば、多少ほっとしますね。出雲伝承では、神武が熊野から大和へ至る間に先住民との戦いはなかったと伝わっているそうです。

もうひとつ松田氏の興味深い指摘があります。神武が吉野へ入った時、国つ神の井氷鹿イヒカと名乗る尾の生えた人が、光る井の中から出てきます(吉野首の祖)。次に国つ神の石押分イシオシワクの子と名乗る尾の生えた人が、大きな岩を押分けて出てきました(吉野国巣の祖)

前者は朱を採取する露天掘りの竪坑の採掘者であり、後者は横坑の採掘者であろうといわれます。

竪坑は壁面に自然水銀を汗のように噴き出していて、それが竪坑の底に溜まると光るわけです。イヒカの光る井とはこれではないかと。

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自然水銀(weblio 鉱物図鑑より)

※朱の採取は初期には地表の露頭部から始まって、露天掘りの竪坑によって採掘していきます。竪坑が地下水位に達すると、湧水を除く技術がないためにその竪坑を廃棄し、別の場所を求めて移動したようです。

上記のような話の読み解きが正しかったとして、ではなぜそこまで隠さなければならなかったのかという疑問が残ります。 

 

最後に最近のニュースを。

2018年、徳島県阿南市若杉山遺跡で1~3世紀のトンネル状の朱の坑道跡(横坑)が発見されました。奥行14m、高さ0.7~0.9m。

これまでは奈良時代の横坑が最古とされていましたので、想像を遥かに超えて、朱の採掘技術は早くから進んでいたようです。

この地は明治から水井(由岐)水銀鉱山として稼働し、昭和には朱が枯渇したためマンガン鉱山として採掘されています。

若杉山遺跡の近くには加茂宮ノ前遺跡があり、同時代の朱の精製工房跡や、2000年前の鉄器工房跡、さらに縄文時代後期(3000~4000年前)の朱を精製する石杵と石臼が300点以上、朱石も大量に出土しています。(同時代の三重県天白遺跡、森添遺跡では数十点なので規模が違います)

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若杉山遺跡出土の辰砂を叩き潰す石杵と石臼(兵庫県立考古博物館資料より)

 

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どちらの遺跡も川沿いにあり、若杉山で採掘した朱砂を加茂宮ノ前遺跡まで船で運んで精製していたのでしょう。

那賀川の上流には仁宇、小仁宇(江戸時代には丹生)といった地名も残り、丹生谷と呼ばれています。丹生神社もありましたが現在は八幡神社に合祀。周辺には幸の谷も。

太龍寺空海が修業したと伝わります。密教は水銀と密接ですね。

 

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市毛勲著「朱丹の世界」を参照して、朱の四大鉱床群と丹生神社、丹生地名の濃密分布域を中央構造線とともに示してみました。

 

日本の朱産地の成り立ちについては前回の記事をご覧ください。 

 

 

 

  

 

日本列島の誕生

太陽系の誕生は46億年前といわれています。

星も私たちも、太陽より以前の超新星爆発(恒星の終焉である大爆発)によってばら撒かれた元素を材料として、今存在しています。気の遠くなるような大いなる循環です。

原始の地球表面はマグマの海に覆われていましたが、40億年ほど前から表面温度が下がり始め、地表が形成されていきました。その後、海が現れたことで岩石の強度が低下し、割れ目からプレート境界へと発達。やがてプレートが動き始めます。

地球の表面は10数枚のプレートで隙間なく覆われており、大陸も海もすべてプレートの上に乗っています。

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プレートの動きに伴って陸地が衝突と合体を繰り返し、19億年前にはひとつの巨大な大陸を形成しました(超大陸)。それからも数億年毎に超大陸ができては分かれ、そして2億年前のパンゲア大陸が分かれていったものが今の世界です。これも通過点。変化しないものはありません。

 

現在の日本近辺のプレートを示してみました。最も大きいプレートである太平洋プレートを含む4つのプレートが接しているため、とても複雑な状況です。

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プレートには「大陸プレート」と「海洋プレート」があって、大陸プレートは陸地を乗せたもの、海洋プレートは海を乗せています。このふたつのプレートがぶつかると、重い海洋プレートが沈み込みます。海洋プレートはどんどん作られては海溝に沈み込んでいきますが、大陸プレートは浮かんだまま。

日本列島はユーラシアプレートと北アメリカプレートのふたつの大陸プレートに乗っています。海洋プレートである太平洋プレートとフィリピン海プレートは日本列島の方向へ沈み込んでいます。


2017年にNHKスペシャル「列島誕生~ジオ・ジャパン」が放映されました。地質学的発見が相次ぎ、日本列島形成の全体像が見えてきたようで、とても興味深い内容でした。番組ではCGをふんだんに使ってわかりやすくまとめてありましたが、文章でお伝えするのは難しいなと記事にするのを諦めていました。ですが古代の「朱(辰砂)」について考える時、この列島の成り立ちを省くわけにはいかないと思い、コンパクトにまとめてみました。番組とその関連本「激動の日本列島誕生の物語」に添って紹介します。一部、番組中の画像を使用させて頂きました。

※番組ではユーラシアプレートと北アメリカプレートを合わせて「大陸プレート」として表現しています。

 

列島誕生 GEO JAPAN

⑴大陸からの分離

3000万年前、ユーラシア大陸の東端に亀裂が走りました。亀裂はしだいに広がって、500万年後には海水が入り込みます。これが日本列島誕生の兆しです。

大陸の縁へりが引きちぎられていくという、非常に稀な現象が起こっていました。

原因は太平洋プレート。地球最大のプレートで、厚みは100㎞。この重いプレートが大陸の東端の海底に沈み込むことで、マントルの強い上昇流が起こり、プレートは西に進むのに、大陸の縁は東へちぎられていくという不思議な現象が起こったと考えられています。

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ですが、単純に現在の日本列島がそのままの形で離れていったのではありません。西日本と東日本の陸地は2本に分かれて、まるで観音扉を開けるように回転しながら大陸から離れていきました。

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日本海沿岸にみられる断崖絶壁の荒々しい風景は、こうした太古の激動をまさに語っているのですね。

 

⑵伊豆諸島の衝突

伊豆半島と伊豆諸島は大陸プレートではなく「フィリピン海プレート」に乗っています。

2500万年前には伊豆諸島は沖縄あたりに並んでいたのですが、フィリピン海プレートが太平洋プレートの沈み込みに引っ張られ、1500万年前には日本列島に近づいていました。先の3枚連続写真にも、下の方からワイパーのように上がってくるフィリピン海プレートのラインが見られます。

南方からやってきた伊豆諸島は、東西の日本列島の間の海峡に近づいたところで、北に一列に並んだ状態で止まりました(3枚目の写真)。そして今度はプレートが列島に向かって動き始めます。

伊豆諸島は海面下を含めると富士山級の海底火山です。それらが次々と西日本の東端に衝突。火山島の並んだ向きとプレートの進む方向がたまたま一致していたからです。

衝突によって櫛形山地、御坂山地、丹沢山地が生まれ、最後の衝突で伊豆半島ができました。今も伊豆諸島は年に4cm北上しているそうですよ。富士山の誕生も、この伊豆諸島の衝突による大量のマグマ発生に起因しています。また海溝が陸のすぐそばまで来たことでそこに深海ができ、相模湾駿河湾という豊かな海が生まれました。

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このような火山島の連続衝突は他に例がないといいます。

さらに衝突によって隆起した山から流れた大量の土砂が、東西に分かれていた日本列島の間に流れ込み、海峡を埋め、関東平野のもととなりました。その後1000万年かけて日本列島はひとつに繋がっていきます。

番組では言及されていませんが、西日本と東日本の間に位置するフォッサマグナ(古い地層の溝に新しい地層が溜まっている地質的境界)は、西日本側が伊豆諸島の衝突で、東日本側が隆起した山々から流れた土砂の堆積によってできた地帯ということなのかもしれません。

 

紀伊半島の巨大噴火

今でこそ国土の3分の2が山地ですが、太古の日本列島にはほとんど山はなく、平原と沼地が広がっていました。

1400万年前、地球史上最大規模のカルデラ噴火紀伊半島で起こります。この影響で世界の気温が10℃下がったと推定されています。

地下に溜まっていた膨大なマグマが、南北40㎞に及ぶ半円形の裂け目から一気に噴出し、内側の大地は陥没。この時のマグマが固まったものが、熊野地方にみられる巨大な一枚岩や巨石です。日本最大の古座川の一枚岩(高さ150m、幅800m)や那智の滝、神倉山など。巨石の場所を辿ると半円形に並んでいます。それら火口の跡が熊野の信仰の地となったのです。

噴火の後、紀伊半島の地下に残ったマグマが冷えて固まり、超巨大な花崗岩となりました。なんと神奈川県ほどの大きさの岩と推定されています。長径60㎞、厚さ20㎞。

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花崗岩は密度が低く、周りの岩より軽いため、時間とともに浮上してきます。1000万年以上かけて10㎞あまり上昇。同時に上の大地も持ち上げ、西日本一の山岳地帯ができました。

ところが、このことは紀伊半島だけでなく、同じ時期に西日本各地で起こっていたのです。紀伊半島で他に2ヶ所、さらに愛知、高知、愛媛、宮崎、鹿児島で次々とカルデラ噴火が起こり、その結果西日本に高い山々が生まれていきました。

なぜこのようなトンデモナイことが起こったかというと、⑴で見たように、日本列島のもとが大陸から東へ引き裂かれていった時代、フィリピン海プレートも東に引っ張られ、プレートに巨大な割れ目ができてしまったことに起因します。

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番組の画像に上書きしたもの。

割れ目からマグマが溢れだし、プレートは高温に。そして1400万年前に西日本の大地が、高温のフィリピン海プレートに衝突。地盤が急激に熱せられて大量のマグマが発生し、史上最大の巨大カルデラ噴火が西日本に多発したと考えられています。

番組では触れていませんが、この時、大和の山々にもその痕跡が残されました。蒲池明弘著「邪馬台国は朱の王国だった」によると、1500万年前の溶岩や火砕流の跡が畝傍山耳成山信貴山二上山に残されており、中でも最大の痕跡地が宇陀を中心とする東西28㎞、南北15㎞に広がる地域だそうです。火口の位置はわからないとのこと。

100万年のずれはありますが、紀伊半島カルデラ噴火の痕跡では。

 

⑷東日本の圧縮

先の地図にみられるように、東日本の現在の陸地は長く海底にありましたが、300万年前に東日本が一斉に隆起し始め、現在の山々ができたことがわかっています。

房総半島沖に、フィリピン海プレート、大陸プレート、太平洋プレートの3つのプレートが重なるところ(三重会合点)があり、300万年前にそこでフィリピン海プレートが進行方向を北西に変更したことが、隆起の原因と考えられています。下図矢印①⇒②

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フィリピン海プレートの方向転換によって、太平洋プレートの沈み込むラインがぐっと日本列島側に動き(矢印③)、東日本は圧縮されて盛り上がっていきました。この東西の圧縮が東日本の山々を形成していったそうです。もちろん、たった今も隆起し続けています。

プレートの方向転換という地球史上めったにないことが、またもや起こっていたのです。

 

まとめ

3000万年前、大陸から引きちぎられて列島の元はふたつに分裂して移動を始める。

1500万年前、伊豆の火山島が西日本東端に次々と衝突。

1400万年前、熱くなったフィリピン海プレートが西日本にぶつかり巨大カルデラ噴火が連発。

300万年前、東日本で東西圧縮。

このような踏んだり蹴ったり?の歴史が日本列島にあったとは驚きでした。ある意味奇跡ともいえるこれら偶然の重なりがなければ、この自然豊かな日本は生まれなかったのです。最初から山国ではなかったのですから。

海のそばに高い山々があるから雨が大量に降り、地上を豊かにし、川から栄養豊富な水が流れ出て海をも豊かにします。傾斜の強い山から急流となって流れる水は、地中のミネラルを溶かさず軟水となって、昆布などお出汁の旨味成分をたっぷり引き出してくれます。

また伊豆諸島が列島に衝突したことで、列島の桜と伊豆諸島の桜が交配してソメイヨシノが生まれました。日本の代名詞となった富士山と桜もこれらの奇跡から誕生しています。

八百万の神々も豊かな自然とともにあります。

日本は4つのプレートに隣接しているために、地震の脅威から逃れることのできない宿命を負っていますが、それも日本の多面的な豊かさと表裏一体だったのですね。

 

中央構造線について

さて、最後にもうひとつ。

今回の番組では触れられなかったのですが、日本には東西に走る中央構造線が存在します。この構造線上は鉱脈が多く、昔から金属を産出してきました。水銀鉱脈も同じです。この中央構造線ができた時期は、今回の話のさらに前へと遡ります。

1億年前、日本列島のもとがまだユーラシア大陸と離れていなかった時代に、巨大な横ずれが起こってできた大断層が中央構造線です。異なる地質の境界線です。

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Wikipediaより

赤い線が中央構造線として示されていますが、関東と九州地方では新しい地層に覆われているため確認はできません。海底も確認できません。

1億年前にイザナギプレート(すでに消滅した海洋プレート)が、大陸東縁で急速に沈み込んでいったことによって生じたズレと考えられています。

中央構造線より大陸側を内帯、太平洋側を外帯と呼びます。

オレンジ色の地帯はフォッサマグナです。伊豆諸島の衝突によるのでしょうか、中央構造線も北に向かって食い込んでいますね。

朱(辰砂、水銀朱)の採掘場所は中央構造線に沿ってあると言われます。

1400万年前の西日本のカルデラ噴火は外帯のところで起こっていますね。朱は熱水鉱床から採れますが、熱水鉱床とはマグマで熱せられた高温の熱水が、岩石の割れ目を通過する際に鉱物が凝集してできるそうです。つまり「火山」と「大地の裂け目」が必要なのです。中央構造線の近くで巨大カルデラ噴火が起こったことが、西日本の朱産地を生み出したと考えられそうです。

 

 

 

船木氏⑶伊雑宮と伊射波神社、ふたりの女神

 

 

出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を見てみましょう。

斎木氏と勝氏の伝承が多少違います。斎木氏はサホ姫が太陽の女神を伊勢へ避難させたとし、勝氏は大和姫です。斎木氏の著書の中には大和姫としている記述もあるので、ここでは大和姫の伝承を紹介します。

まず大和の笠縫村の桧原神社で豊来入姫(トヨ)が月読の神を祀っていましたが、豊国軍が劣勢となり大和を追われ丹後へと逃げます。そして舟木の里に奈具社を建て、さらに日置の里の宇良神社(浦嶋神社)へ。そこから伊勢の椿大神社へ避難しその地で没します。豊来入姫は箸墓古墳の東隣り、ホケノ山古墳に葬られたと伝わっているそうです。

その後、大和姫が奈具社に奉仕するようになり、月読の神に加えて太陽の女神を祀ります。そこから宇良神社に移りましたが、朝日信仰のため東を目指し伊勢へと向かいます。(サホ姫は大和から丹後へと太陽の女神を避難させていたのかも)

大和姫は信者を増やすために伊勢の各地を転々としました。さらに志摩国へ行き、出雲系の伊雑宮いざわのみやの社家、井沢富彦(登美家出身)の協力を得て伊勢国五十鈴川のほとりに内宮を建てたということです。大和姫は最初の斎宮となりました。

亡くなった後、ご遺体は三輪山の賀茂家に送られ、太田の箸墓古墳に埋葬されたと伝わっているそうです。舟木石上神社と伊勢を結ぶ「太陽の道」の上には、斎宮跡と箸墓がありましたね。この時代に斎宮がそこにあったのかは不明ですが、歴代斎宮は神島から昇る朝日を参拝していたのかもしれません。

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 伊雑宮は出雲から勧請されたと考えられています。出雲には粟島坐伊射波いざわ神社があったそうで、粟島とは事代主が枯死されたところです。

伊雑宮志摩国一宮ですが、鳥羽市にも志摩国一宮伊射波いざわ神社があり、井沢富彦も祀られています。なぜかふたつの一宮があるんです。

伊射波神社の鎮座地は安楽島あらしま町。粟島あわしまにそっくり。昔は伊雑宮磯部町から安楽島町までの地域を粟嶋と呼んでいたそうです。事代主(八重波津見)を偲ぶ国なのですね。

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伊雑宮本殿 Wikipediaより

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伊射波神社の一の鳥居 加布良古崎 Wikipediaより 小さな白い鳥居です。

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伊射波神社拝殿 Wikipediaより

この伊射波神社と伊雑宮を結ぶかのように加茂川が流れ、河口近くには赤崎、そして船津とあります。「船」は古くは「舟」であり、「丹」の誤記から「舟」に変わることがよくあるそう。丹生⇒舟生。

例えば、福井県鯖江市の舟津町は古くは丹生郡に属し、もとは丹津でした。丹津神社は現在の舟津神社と比定されていますが、ここは大彦を祀ります。出雲伝承では大彦の支配地のひとつです。社伝によると、サルタ彦大神が現れ「我をここに祀れば、剣に血塗らずして賊を平らげることができるだろう」と言ったとあります。似た言葉があったなと思ったら、日本書紀で「新羅を攻めよ」と神功皇后を通してなされたご神託の中に「よく我を祀ったなら、刀に血塗らずして服従させることができるだろう」とありました。ニホツ姫は「赤い浪の威力で平定されるだろう」と言っていましたね。

蒲池明弘著「邪馬台国は「朱の王国」だった」は松田壽男氏の研究を受けて、古代の経済や王権の推移を「朱の視点」から捉えることを試みられた内容となっていますが、蒲池氏は先の日本書紀とニホツ姫の言葉から、これを非暴力による勝利を示すとし、朝鮮半島との交易を背景とすれば朱と水銀を輸出品とした商談の可能性があるとみておられます。鯖江市舟津神社のサルタ彦の言葉も、血ではなく朱の獲得による勝利を意味していると考えれば、この地に朱産地があったことがみえてきます。

話が遠回りしましたが、加茂川河口の船津はもとは丹津の可能性があり、赤崎は赤土が見えていた土地だったのかもしれません。であれば南の伊雑宮の千田ちだはやはり血田でしょうか。鳥羽市志摩市では明治になってマンガン鉱山が次々と発見され、採掘が行われていました。金やマンガンの鉱山には朱の鉱脈もあり、朱が尽きると金やマンガン鉱山として採掘されることが多いそうですよ。

 

さて、地図の右上に神島があります。ここは淡路島の舟木石上神社と伊勢を結ぶ太陽の道の東の端。こうして見ると出雲族と関わりがありそうな場所ですね。伊勢湾の入り口を守護する島にも見えます。

神島で元旦に行われる「ゲーター祭」という奇祭が有名らしいです。大晦日の夜にアワと呼ばれる太陽をかたどった直径2mほどの白い輪を作ります。元日の夜明け前、東の浜で島中の男性たちが竹竿を持ち、一斉にアワを刺すように突き上げ、そして落とします。どのような意味があるのかはわからないそうですが、女神と男神の神事でもあるような。

 

一方、豊来入姫のその後も伝えられています。

サルタ彦を祀る鈴鹿市椿大神社に豊来入姫が保護を求めてきたそうです。宇佐から来たので「ウサ女メ」と呼ばれていたのを「ウズメ」と変えて、目立たないようにしてかくまいましたが、垂仁天皇の刺客によって暗殺されたということです。

 

 伊雑宮天照大神を祀りますが、実は伊射波神社の祭神は稚日女尊ワカヒルです。出雲伝承では豊来入姫のこと。

日本書紀では神功皇后に「新羅を攻めよ」とご託宣した神様は、「五十鈴の宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒御魂)」「尾田の吾田節の淡郡に居る神」「事代主」そして「日向国住吉三神」とありますが、「尾田(加布良古)の吾田節(答志郡)の淡郡(粟嶋)」とは伊射波神社の地を指しています。そして遠征から帰還した神功皇后に再びご託宣があり、先の神々をそれぞれ指定された地に祀ります。伊射波神社の稚日女尊摂津国の生田神社(神戸市)へ。つまり生田神社の前の鎮座地が伊射波神社だったのです。

志摩国のふたつの一宮神社では、出雲の太陽の女神と、月神を祀る豊来入姫をそれぞれお祀りしていたということになります。逃げてきた敵方の豊来入姫(三国志魏書ではヤマタイ国の王に指名)をかくまった上にお祀りまでしています。

鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社では伊勢で太陽の女神が復活したことを喜び、「天の岩戸開き」の話を作って、初めて神楽を上演したと言われています。ウズメノ尊は暗闇の中、岩屋の前で太陽の女神に向かって胸を露わにして踊りました。これは磯良舞や隼人舞と同じく、服従の舞と考えらえます。椿大神社の社家は登美家分家、大田命を祖にする宇治土公家でした。伊勢においては物部と豊国(いわゆるヤマタイ国)の月神は、出雲の太陽神に服従したということになっているようです。もちろんここでも別宮の椿岸神社でウズメノ尊をお祀りしています。

岩戸を開けた手力男神は、この時、同族の船木氏を重ねて描かれたのでしょうか。

(九州筑紫舞の菊邑検校は、アメノウズメの舞が私たちの筑紫舞のもとですと言われたそうです。リズミカルな足使いのことを指しているとは思うのですが、やはり磯良舞と重なり、言葉の奥に潜む悲しみを感じずにはいられません。)

また古事記には、岩屋の前で「大きな賢木さかきを根から引き抜いて、八尺瓊の勾玉と八咫鏡を掛け」た根つきの賢木を捧げ持って祈ったとありますが、これは第1次物部東征で大和に侵攻してきた物部軍と協調することを選択したモモソ姫が始めた、新たな祭祀方式であるといいます。過去の記事から抜粋します。

《(モモソ姫の)祭りには物部氏の方式が一部入っていたそうです。榊を根から抜き取って(幸の神)、枝に神獣鏡(物部の道教。ここでは裏の光るほうを参拝者に向ける)を付けます。幸の神では鏡の丸い形は女神、木の根は男性のシンボル。男女の聖なる和合です。モモソ姫の兄、大彦は物部嫌いのために鏡はいっさい持たなかったそうですが、大和に残ったモモソ姫は物部と協調する道を選んでいったのかもしれません。

物部勢の大和侵攻による争乱のあと、モモソ姫の三輪山の大祭によってようやく大和は統一へと向かうことになります。オオヒビ大王や物部の武力よりも、モモソ姫の祭祀力、宗教力を支持する人々が多かったようです。その結果、第1次東征をした熊野系物部勢もしだいに磯城王朝にとりこまれていきました。》

物部勢と大和は宗教戦争のような状態に陥っていたので、モモソ姫は両者の思いを立て、このような方式(苦肉の折衷案)を生み出したのでしょう。

コメントを下さったT様は、このことが太陽の女神の依代に鏡が用いられた端緒になったのだろうと言われます。賢木に太陽の女神の御霊を取り付けて⇒「撞賢木厳之御魂つきさかきいつのみたまであり、このような祭祀方法を生み出したモモソ姫やそれを継承した姫巫女たちが、伊勢内宮の荒祭宮廣田神社天照大神荒御魂であり、三輪山の登美の霊畤を奪われ大和を追われ、遠く離れた田舎へと追いやられた⇒「天疎あまさかる、向家/富家(登美家)の姫巫女たち⇒「向津媛命」ではないかと言われます。これは納得です。

荒魂とは神様の荒々しい側面ですが、勇猛で決断力があり、新しく事を生み出すエネルギーを内包し、かつ忍耐力があるといわれます。天照大神の荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは不思議な表現だと思っていましたが、モモソ姫の決断と、その後の太陽の女神の伊勢へのご遷座を背景とともに考えると、まさしくそのものという感じです。

ただ「撞」という漢字は突く、当てる、ぶつけるなどの意味であり、鐘を撞くという時に使われます。出雲では銅鐸を木の枝などに吊るし、鈴のように鳴らしてお祀りしていたので、そこに鏡を重ねるイメージで「撞」の字が当てられたのかな、などと想像しています。

さらにT様は銅鐸は鈴とも呼ばれていたので、五十鈴とは銅鐸をたくさん(五十、伊)所有するという意味があり(タタラ五十鈴姫とは、タタラで作った銅鐸を数多く所有する姫を意味します)、イザナギとはイ(たくさんの)サナギ(銅鐸)の意味ではないかとも。これは私もこのところ考えていたことでした。

3世紀半ば、東出雲王国が物部軍に占領され王宮(現・神魂神社)を明け渡しますが、物部王朝は3代で終わりを迎え、王宮も返還されることとなりました。けれど向家が辞退したため、それなら神社にして幸の神を祀ろうと提案され、その際に神の名前は変えることとなり、イザナギイザナミという新たな名前が誕生したということです。出雲王国の始まりの場所で、元敵方の付けた名前です。かつて銅鐸祭祀は物部の侵攻によって終わることを余儀なくされました。王宮返還とともに銅鐸祭祀を出雲族祖神の名前の中に復活させる、そんな粋な計らいであったと思いたいところです。

伊射波神社の稚日女尊、椿岸神社、天照大神の荒御魂、そしてイザナギイザナミ大神の誕生。異宗教間の争いによって生まれた悲しみの中でも、他者への尊厳を失わなかった人々の思いを、ここに読み取ることができるのかもしれません。

 

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ここで伊射波神社の東西のラインを見てみましょう。

まず伊射波神社の西に位置する皇大神宮別宮、月読宮。ここには伊佐奈岐宮伊佐奈弥宮も並んで鎮座しています。さらに裏参道入口には内宮の末社として葭原あしはら神社があり、伊加利イカをお祀りしています。皇大神宮儀式帳には入田社と記され、入は丹生の変形です。イカリ姫は海村雲の妃で海部氏の祖となる倭宿祢(天御蔭命)の母。倭宿祢の后が井比鹿イヒカ神武天皇が吉野の光る井戸でイヒカと出会います。地名では井光と書いてイカリと読みます。光る井戸とは自然水銀の溜まった井戸と考えられ、朱砂の採掘を行っていた先住民を例えているとも読めます。豊来入姫の出身地、豊国も朱砂の産地です。

丹生(水銀)の女神、丹生都姫はイザナギイザナミの娘とされたり(丹生大明神告門)、稚日女尊と同神で天照大神の妹としたり(丹生都比売神社、日本書紀)。出雲伝承の言うように稚日女尊が豊来入姫なら、出雲の宗像家の姫を母系祖神とする宇佐家の姫なので、血縁としてはすべてを満たすことになります‥‥。ちなみに月読命記紀では天照大神の弟です。

とはいえ朱砂はもっと古くから大切にされてきたわけですので、丹生都姫(ニホツ姫)に豊来入姫を重ねたというほうが自然な気はしますが。

月読宮からさらに西へいくと仁田の佐那神社、そして水銀鉱山に鎮座する丹生神社。この丹生神社ではミズハノメノ命を祀っていますが、丹生都姫がのちに変化した神さまといわれます

このライン上には砂鉄というより、朱砂の匂いがぷんぷんします。

 

まとめ

船木氏は御巡幸において表にはまったく現れませんが、近江から美濃、尾張、伊勢に地名としてその名を残し、美濃国造らの献上した3艘の御船の造り手として存在を感じさせ、また瀧原宮の御船倉近くに舟木村があることなど、御巡幸を陰で支えたという説はじわじわと可能性が高まるように思います。

さらに伊勢から志摩国にかけて古くからの出雲族の存在と、五十鈴川のほとりへ導いたとする井沢富彦、そして倭姫命世記の中で同じ場所を勧めたという太田命など、天照大神の御遷座には出雲登美家が深く関わっていることが伺われます。

それから後の神功皇后による三韓遠征において、3艘の御船を船木氏が献上し、朱く染められた船団が勝利し帰還。その御船が武内宿祢によって紀の川河口の三社に祀られたことは、住吉大社神代記に残されています。

舟木の地名は今回紹介した以外にも、九州から東北に至る各地にまだまだあります。それほどの勢力をもっていた船木氏が正史にはほぼ現れず、なぜか幻の氏族のひとつとなってしまいました。

 

ここで淡路島の舟木遺跡にもどります。

舟木遺跡は2世紀半ばから3世紀前半までとされています。倭国大乱から第2次物部東征までということになります。舟木石上神社近くからも祭祀用の土器が出土しており、同時代に磐座信仰もなされていたと思われます。

船木氏の祖である大田田根子は、第1次物部東征後に三輪山の神官となりました。ということは船木氏はそれからずっと後に現れてくることになり、舟木遺跡が使われていた頃とは時代が違います。なので舟木という地名がついたのは、後世のこととなってしまうます。

もともと出雲族が播磨から淡路島に住んでいたけれど、物部軍がやってきたことでいったん離れ、美濃国で力をつけた一族(のちの船木氏)がその後の大和姫御巡幸や神功皇后の時代に勢力を伸ばし、再び淡路島から播磨へ戻ってきたという流れでしょうか。

ですが舟木の地名は伊勢の佐那、三島の佐奈部にもあり、これは銅鐸祭祀が行われていた時代です。第1次物部東征以前です。また丹後の奈具社も舟木の里ですが、ここは大田田根子の時代です。

例えばですが、登美家の中に舟木と呼ばれる舟を作る集団がいて、彼らは同時に材木、鉄、朱を探します。なので大和だけでなく各地を巡ります。朱は金と同じ価値がありますので富も手に入ります。のちに彼らは造船業を広く担うようになり、日の神をのせた御船も造ったことで、大田田根子神八井耳命の子孫だといわれるようになった。同じ登美家ですから。なので物部東征以前に彼らのいた地域には、舟木という地名が残っている。

というような可能性はないでしょうか。

 

船木氏の足跡を辿ることで見えてきた歴史の側面は想像以上に深く、同時に新たな疑問も次々と生まれました。そしてなぜ正史から消えてしまったのか、謎はさらに深まります。

 

年内最後の記事も長くなってしまいましたが、今年も「SOMoSOMo」にお付き合い下さった皆さま、コメントを届けて下さった皆さま、本当にありがとうございました。

佳い新年となりますよう、心よりお祈り申し上げます!

 

 

 

船木氏⑵大和姫と岩戸開き

 

  

大和姫の御巡幸

日本書紀では崇神天皇の時、宮中にお祀りした天照大神の勢いを畏れ、宮中から大和の笠縫村へ遷し、娘の豊鋤入姫に祀らせたとあります。御神宝の八咫鏡ですね。その後垂仁天皇の娘、大和(倭)姫が受け継いで、天照大神の鎮座地を探しながら伊勢内宮へと辿り着きました。(大和姫はヒバス姫の娘なので登美家の血筋です。)

記紀に描かれた天照大神岩戸隠れとは、大和から伊勢へと遷座するのに要した期間のことを表していると思われます。当時、第2次物部東征によって大和は混乱の中にあり、磯城王朝の御神宝を安全な場所へ避難させようとしたのが始まりだったようです。

御巡幸の中で天照大神は各地で祀られました。その場所を元伊勢と呼びます。その行程が日本書紀に少しと、皇太神宮儀式帳や倭姫命世記に記されています。

倭姫命世記が一番詳しいのですが、鎌倉時代に書かれたらしく、後世に話が追加されたものと考えられています。ところが出雲伝承には、志摩国伊雑宮で井沢富彦の助けを得たという話が伝わっており、このことは倭姫命世記にしか書かれていません。ですので注意はしつつ、船木氏と接点のあるところを参考にしていこうと思います。

 

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大和姫一行は伊賀、近江を経て、元伊勢のひとつ、美濃国伊久良河宮いくらがわのみやに留まりました。揖斐川沿いの天神神社(岐阜県瑞穂市居倉)と、長良川沿いの宇波刀神社(安八郡安八町森部)が有力な候補地としてあがっています。

天神神社の横手には犀川(幸川?)が流れ、境内には御船代石があり、天照大神の神輿をここに安置したと伝えられています。けっこう段差がありますね…。周辺は禁足地でした。

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瑞穂市のホームページより 御船代石

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宇波刀神社社殿 Wikipediaより

以前は天神神社の近くに船木村(現・美江寺地区)があったようです。ここから北へ3㎞ほどいくと船来山古墳群本巣市)があります。3~7世紀まで続いた東海地方最大級の古墳群。船来山からは縄文~弥生土器も出土しています。

290基からなる古墳群で、武器や装飾品など多く出土し、珍しいものでは雁木玉という模様の入ったガラス玉も見つかっています。

古い和歌をみると「舟木の山」と記されています。この規模と年代から、ここは船木氏の本拠地であったと思われます。

下図は中部地方整備局の学習支援冊子からお借りしました。古代の濃尾平野が海だったことを示しています。

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地図の「岐阜県」と書かれたあたりが伊久良河宮で、現代よりはかなり海に近かったようです。左下の「三重県」に重なっているのが員弁川。船木氏が祀っていた耳常神社や太神社は川のすぐ南になります。

 

倭姫命世記では、伊久良河宮から尾張へ向かいます。元伊勢の中嶋宮一宮市のいくつかの神社が候補地となっています。ここで美濃国造と美濃県主から計3艘の御船を献上されています。

中嶋宮から少し離れますが、春日市にも船木の地名がありました。神領町庄内川沿いにある貴船神社境内から銅鐸が出土し、その地名が尾張国山田郡船木郷でした。

大和姫は続いて伊勢へと向かいます。船旅です。元伊勢をいくつも経たのち、宇治土公家の祖、太田命の勧めによって五十鈴川のほとりに天照大神を祀りました。

出雲伝承では伊勢市猿田彦神社は、垂仁天皇の時に三輪神社の太田氏が祀ったといいます。その近くに天照大神も祀って伊勢の内宮ができたのだと。

大和姫の船による御巡幸を支えたのが、船木氏ではないかという説があります。美濃国造らが献上した御船は、美濃に拠点を置く船木氏の造ったものでしょう。

ご神宝が長旅の末に無事、伊勢内宮に鎮座した時、世界はようやく光を取り戻したことになります。天照大神の隠れた岩戸を開けたのが手力男神。船木氏が祀るといわれるのもそこに由縁があるのかも。

 

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倭姫命世記では瀧原宮へも向かっています。

地図の左下、瀧原宮の近くに船木の地名が今も残っています。三瀬谷、三瀬川という地名もあって、3つの川が合流するところだったのでしょう。今はちょうど船木で宮川と大内山川が合流し、瀧原宮のほうへ進むと熊野灘への近道となります。

瀧原宮は内宮の別宮(天照大神の遙宮とおのみや)で、大和姫が使用した御船を納める御船倉が併設されています。船木村の近くに瀧原宮があることは何か意味があるような。

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右が瀧原宮、左が瀧原竝宮 Wikipediaより

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若宮神社の御船倉(左)Wikipediaより


倭姫命世記には、大和姫が宮川を渡ろうとするも流れが速くて困っていると、真奈胡神が現れ助けてくれたので、御瀬社を建てたとあります。それが多岐原神社だといわれています。この真奈胡神は土地の神であるとしか伝わっていないようです。

また同書には、大和姫が大神に供える神饌を採るための御贄地を探しに志摩国へ行ったときのこと、真名鶴がしきりに鳴くのを不思議に思った大和姫が使いの者を行かせると、そこに稲がよく実った田が広がっていたので、そこを千田と名付け、近くに伊雑宮いざわのみやを建てたとあります。伊雑宮も遙宮と呼ばれます。

順序が逆になりますが、伊勢国でも御饗を奉る神が現れ、真名胡の国と名乗ります。

「マナコ」という言葉が気になり調べてみると、千葉県南房総に残る言い伝えでは、丹生氏の長の名を「まなこ長者」というそうで、富浦町手取地区の神社の社名、聖真名子神社として残っています。近くに丹生の地名もあります。富浦町から北東の鴨川上流にかけては古代朱産地であったそうです。(松田壽男著「古代の朱」より)

丹生氏はその氏族名が現れる前からの存在と思われるので、ここでは朱砂、水銀に携わる人々を丹生族として呼びます。

朱砂や水銀は金銀並みの価値ですので採掘者は大金持ち。九州の朱産地、大分にも「真名野長者伝説」があり、丹生族の存在が伺われます。

また富浦町の手取と居倉を合わせて鶴鳴地区と呼ぶそうで、居倉は山宮神社の大山祇命(クナト大神)を祀っています。居倉という名も岐阜県の伊久良河宮の比定地、居倉と重なりますね。

もうひとつ、栃木県の栃木市西方町に「真名子地区」があり、ここには「八尾比丘尼伝説」が伝わっています。この伝説は多くの地域にみられますが発祥は福井県小浜のよう。小浜も古代朱産地。

昔、朝日長者の娘が不老不死になる貝を誤って食べてしまい、18歳の姿のまま800歳まで生き、巡礼の旅に出て、福井の小浜で自ら入水し果てたというお話です。※事代主のご遺体が見つかった出雲の粟嶋の洞窟(静の岩屋)にも、八尾比丘尼が祀られています。

真名子、丹生、長者、不老不死。これらの伝説は丹生族の採掘する朱砂(水銀朱)を象徴しています。そして鴨川、大山祇命、朝日など、出雲族の気配もありますね。

古代において最大の朱産地は大和ですが、伊勢もそれに匹敵します。多気には丹生神社がありますので、丹生族が関わっていた時代があったのでしょう。志摩国多気から少し離れますが、伊雑宮の「千田ちだ」は、もとは朱砂の赤土を表す「血田」だったのではないかとさえ思えてきます。ついでに想像をたくましくすると、丹波の真名井原の「マナ」も何か丹生族と関わりがあったのだろうかと気になり始めました。ここも元伊勢ですからね。

倭姫命世記には後世に付け加えた話が盛り込まれていたのだとしても、伝説や例え話として挿入することで、逆に本質を突いている可能性もあるかもしれません。なぜ大和の次は伊勢だったのか‥‥。

 

住吉大社宮司の真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」には、大和姫の御巡幸地はいずれも古代の産鉄地であるとして、各地の現地調査もされています。実際に鉄が認められるところだけでなく、製鉄にまつわる神が祀られていたり地名から伺えるところなども含めてですが。伊勢の五十鈴川の河口に近い二見浦の海岸では、たくさんの砂鉄が採取されたそうですよ。出雲族の祀る二見輿玉神社がありましたね。

その他にも伊久良河宮の前に滞在したという琵琶湖北東岸の坂田宮については、この付近は息長氏の本拠地であり、古代産鉄地の中心地であったとのこと。息長氏は製鉄で勢力を強めたといわれます。越前日本海岸から美濃、近江にまたがる伊吹山系に広がる地域に、飛び石のような脈絡をもって丹生の地名が点在し、それらをつないで古代産鉄地があるそうです。

酸化鉄(ベンガラ)の赤がこちら。

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青森県赤根沢の赤岩 Wikipediaより

そして朱砂の赤がこちら。

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徳島県若杉谷採集の辰砂(朱砂)鉱石 淡路島日本遺産展資料より

写真なので色合いはそのままとはいきませんが、ベンガラのほうが現代の私たちの朱色のイメージに近いと思います。けれど古代に神聖な色として尊ばれた赤とは、朱砂、水銀朱の赤です。

真弓氏は丹生という地名は、赤土=褐鉄鉱、赤鉄鉱の色からきているといわれ、同時に朱砂も採れるという捉え方です。あくまで鉄が主役です。であれば大和姫の御巡幸は古代の朱砂産地を巡っているとも言えるような。さらに言えば大和姫の兄、景行天皇による土蜘蛛征伐を先住民の鉱山採掘の利権を朝廷のものにしていった話だと考えると、大和姫の御巡幸もまた、祭祀場にふさわしい土地=朱砂の豊富な土地、水銀鉱床を探す旅という面を持っていたのかもしれないと感じ始めています。

さて、伊吹山と息長氏というと、ヤマトタケル伊吹山で猪神と対峙するシーンを思い出します。

山の神である猪は息長垂姫(神功皇后)。出雲伝承では神功皇后成務天皇の后であったと伝えます。そして伊吹山ヤマトタケル成務天皇を例えていると。つまり新羅を攻めよとの神の言葉に従わず、突然崩御されたのは、仲哀天皇ではなく成務天皇であったということになります。たしかに高穴穂宮は琵琶湖の西南。日本書紀でも成務天皇の事績はほとんどなく、あっけないほどの文字数です。(仲哀天皇は九州の一豪族だったとのこと)

ついでになりますが、琵琶湖にも船木の地名は残っています。西岸の高島市安曇川町船木、南東岸の近江八幡市船木町。どちらも中世には船木関(湖上関)として機能していますが、もとは造船用木材の集材地だったそう。どちらの隣にも加茂の地名や神社がみられます。一帯は息長氏の地盤だったわけですし、三韓征伐の前から関係はあったのかもしれません。製鉄と朱砂が船木氏と神功皇后を結びつけているようにも見えてきます。

 

次回、出雲伝承が伝える伊勢への御巡幸を追ってみたいと思います。

 

 

 

 

船木氏⑴朱砂と製鉄と

 

 

伊勢と淡路島を結ぶ「太陽の道」に関わっていると思われる、船木氏の足跡を辿ります。まずは文献に記されたところから。

 

古事記で船木氏と関連のあるところを取り上げると、

神武天皇の皇子、神八井耳命は伊勢の船木の直らの祖。とあり、多氏と同祖となる神八井耳命の後裔としています。出雲では海村雲とタタラ五十鈴姫の御子といわれます。

②ヒコイマスの孫の曙立アケタツは伊勢の佐那の造らの祖

③手力男は佐那の県にいます神

 

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多気多気町の佐那は伊勢船木氏の本拠地といわれます。天手力男命は内宮の相殿に祀られる神さま。天照大神スサノオの傍若無人ぶりに嫌気がさして岩屋戸に籠ってしまった際、岩戸を開けて世界に光を取り戻したのが手力男神岩戸開きの神さまです

船木⇒佐那⇒手力男神、という流れがあるようなのですが、その出所がわかりません。後ほど書きますが住吉大社神代記の中に、船木氏の祖先のひとりが「伊勢の船木に在る」と記されていて、船木の地名が残るところは南西の度会わたらい大紀町になります(瀧原宮の近く)。古くは多気郡に属していたようです。

多気町の仁田に鎮座する佐那神社では、天手力男命と曙立王命が祀られています。ヒコイマスは磯城王朝10代大王。曙立王は出雲伝承では第2次物部東征で西出雲王国を倒した将軍の1人であり、登美家の分家だといわれます。

「佐那」の名前の由来は、佐那神社の近辺で銅鐸が出土しており、銅鐸の古語「サナギ」からではないかといわれています。出雲では銅鐸の形が蛹に似ていたからそう呼んでいたと。「サナグ」と変化している地名もあります。

摂津国の三島の話を大田田根子の記事で書きましたが、この三島にも「舟木」の地名が残り佐奈部神社が鎮座しています。中世の水害などで由緒がわからなくなってしまいましたが、周辺の神社の祭神などから一帯は古代鍛冶集団がいたと考えられているようです。(舟木を取り巻く地名を眺めていると、歴史が見えてくるようで面白いです。五十鈴町に鎮座する溝咋神社、玉櫛、砂鉄を採る「真砂」、沢良宜さわらぎ(銅器の村の意)などが密集し銅鐸も出土しています。もう少し北には太田、登美の里、さらに北側には大彦が安倍と名乗る由来となった阿武山も)

丹後国風土記では天の羽衣の話として、竹野郡舟木の里奈具社に鎮座した豊宇賀能売トヨウカノメ命(豊受大神)のことを伝えていて、奈具社は伊勢外宮の元宮となります。奈具社はもしかすると「サナグ」?

伊勢の佐那神社、摂津の佐奈部神社、丹後の奈具社。

 

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一方、平安時代に津守氏によってまとめられた住吉大社神代記には「船木等本記」という項もあり、船木氏は住吉大社の創始に関わったことが読み取れます。住吉大社神職を務め、造船も担っていました。船木氏に関わるところを取り上げます。

「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは、船木の遠祖、大田田神なり」とあり、船木氏の祖は天照大神を祭祀する大田田神、つまり大田田根子と考えられます。三輪山は事代主の御霊である大物主神を祀り、また三輪山から昇る朝日を太陽の女神(幸姫命)として参拝してきました。代々磯城家の姫巫女が司祭者(初代はタタラ五十鈴姫)でしたが、物部東征後に男性司祭者、大田田根子に変わります。「出雲王国とヤマト政権」ではタタラ五十鈴姫は太田家の娘で、太田タネヒコ(大田田根子)は弟と考えられると記しています。

さらに「大田田神の作った船二艘を後代の験しるしのために生駒山の墓に納め置く」とあります。(長屋墓に石舟、白木坂の三枝墓に木舟)

まるでクフ王の「太陽の船」みたいですね。こちらは二艘とも木船ですが。

播磨国明石郡に船木村(船木連宇麻呂)、黒田村(船木連鼠緒)、辟田村(船木連弓手)があり、それぞれ船木氏の所領があったようですが、住吉大社に寄進しています。

船木村は現・明石市船上町で淡路島の対岸に位置し、すぐ東には伊弉諾神社、伊弉冉神社、岩屋神社が並んで鎮座しています。黒田村、辟田村は現・垂水区にあったようですが、地図では見つけられませんでした。

垂水のわたつみ神社は、神功皇后三韓からの帰路で住吉三神を祀ったのが始まり。地図を見ていると、五色塚古墳は船木氏と関わりがあるように見えてきますね。

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播磨国賀茂郡椅鹿はしかには大田田命と御子の神田田命の所領が9万8千余町ありました。神功皇后の時住吉大社に寄進し、その後大社の造宮料になったそうです。椅鹿山の材木は東条川から加古川を使って運ばれたのでしょう。(出雲伝承では太田タネヒコの息子は大御食持オオミケモチ神部ミワベ大王と呼ばれていたそうです。)

また三木市は最古の金物の町といわれますが、古くは神功皇后の頃、志染しじみに渡来系鍛冶職人を連れてきたといわれています。丹生山、帝釈山(主に銅の鉱山)で採掘し、志染川明石川は運搬路であったと思われます。

神功皇后熊襲新羅征伐の際に、船木氏が大田田命所領の山の樹を伐って船三艘を造り、神功皇后住吉大神の部類神、日の御子神、大田田命と神田田命を乗せて渡ったとあります。神々を乗せた御船です。

そしてこれらの船を武内宿祢に祀らせ、紀国の志麻社、静火社、伊達社の前身となりました。住吉大社摂社の船玉神社は紀国ではこの三社となるようです。

また船木連宇麻呂等が新羅征伐の時に船を献上したことにより、船木、鳥取の二姓を賜りました。

さらに各地の船司、津司を任命され、但波、粟、伊勢、針間、周芳の五ヶ国の船木連となります。

大田田命から続く系譜も記されています。曾孫の伊勢川比古命イセツヒコ伊勢の船木に在るとしています。瀧原宮の近くの船木村でしょうか。

また兄弟に木西川比古命キセツヒコがいて、子は越の国へ移住、孫たちは越国君となっています。その子孫の中に彦太忍信命ヒコフツオシノマコトの娘(の子孫のことでしょう)を妻とした者も見え、皇族の血筋となったことが記されています。出雲伝承では彦太忍信は磯城王朝8代クニクル(孝元)大王と物部の姫の皇子であり、紀国の山下陰姫(高倉下の娘)との間に初代武内宿祢をもうけています。

※以前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で、越後国弥彦神社にはなぜか天香山命が祀られており、もとの弥彦大神とは大屋彦=五十猛なのか出雲の大彦なのかと疑問が残りましたが、対となる能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっていて、五十猛と大屋津姫の組み合わせは紀伊の樹木神。キセツヒコの子孫が越国君となっていたわけですし、能登には船木部がいたことも文書にあり(平城京跡の出土木簡)、船木氏が紀伊との繋がりから樹木神(五十猛、大屋津姫)や造船の神(イタテ神=五十猛)を祀ったのだとすれば不思議ではないと思われます。

つまり船木氏は三輪山の太陽神を祀る大田田根子を祖にもちながら、磯城王家と物部の血筋も入り、紀氏とも親戚になるわけです。最強の氏族ですね。そして神功皇后の時代に船を造って献上したことから船木の姓を名乗ったということです。

古事記の記述と併せると、伊勢にはふたつの系統の船木氏がいたことになります。

神八井耳命は海村雲とタタラ五十鈴姫の御子であり、五十猛(香語山)と事代主の血筋。

大田田根子は事代主の御子、天日方奇日方(登美家)の分家。

どちらも事代主の富家ということで、同族として船木氏を名乗ったのでしょうか。

 

伊勢川比古イセツヒコについて出雲伝承では伊勢津彦椿大神社に幸の神を遷した人」といわれています。椿大神社の社家は宇治土公家で祖は大田命(登美家分家)ということなので繋がりますね。

この椿大神社の北東、四日市には神八井耳命を祀る耳常神社、太おおの神社が鎮座。耳利神社(菟上神社に合祀)は舟木大明神と呼ばれていたようで、耳常神社ともに船木直の子孫が長く祀ってきたそうです。銅鐸も出土しています。出雲族の居住地に多い「朝日」という地名もみえます。

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住吉大神を祀る神社の中に「紀伊国伊都郡丹生川上社、天手力男意気続々流住吉大神」と記され、紀伊国神名帳にも「正五位上天手力雄気長足魂住吉神」とあります。息長垂姫(神功皇后)を彷彿とさせる名です。

また播磨国風土記逸文には、神功皇后新羅征伐に向かう際、邇保都ニホツ姫/丹生都姫(丹=朱砂の女神)が現れ、私をよく祀れば赤土の威力で平定できるだろうと言って赤土(朱砂)をお出しになったので、それを武器や船、軍の着衣などに塗ったところ無事帰還でき、皇后はニホツ姫を紀伊国管川藤代之峯に祀ったとあります。呪術と船の防水・防腐剤として朱が使われています。※播磨国の丹生神社は地図に記しています。

住吉大社宮司真弓常忠氏は著書「古代の鉄と神々」の中で、藤代の峯を今も丹生神社が複数鎮座する伊都郡高野町大字富貴ふき筒香つつかに比定しています。富貴ふきはタタラ炉の火を吹く「フキ」であり、筒香、管川つつかわはシャフト炉型タタラ炉の筒であると。(シャフト炉とは地形を利用した筒状の炉体が煙突の役目をするもの。)藤代の峯とは、鉄穴かんな流しで砂鉄を採る際に使う筵むしろの材料が藤蔓つるであり、材料としての藤代だろうと。ニホツ姫の鎮座地なのに製鉄の話になっていますね。造船には材木だけでなく、鉄、朱砂が必要ですから。

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真弓氏は「天手力男意気続々流住吉大神」を祀った場所が藤代の峯であるとし、住吉大社神代記にはその後のこととして、住吉大神播磨国に渡り住まんと言われたので、丹生川上から移ったと記されています。(なので現在、住吉大神は祀られていません。紀の川周辺には多いです。)

真弓氏は「この時、船木直が関わっていたと伝えられている」といわれます。また、播磨の加古川から明石にかけての海辺は、中国山地から流れ出た砂鉄の宝庫だったそうですよ。完全に船木氏の領域です。

朱砂の研究家である松田壽男氏の著書「古代の朱」でも、藤代の峯については筒香を比定地としています。古代の朱産地であり、紀の川に入る丹生川の発源地帯でもあります。富貴から東の山筋を越えた五條市にも同名の丹生川があり紀の川(ここでは吉野川)に合流します。つまり藤代の峯は分水嶺でしょう。

8世紀に書かれたとする「丹生大明神告門のりとには、最初に丹生都姫が天降ったのは伊都郡庵太村(現・九度山町慈尊院)とし、その後川上の水分みくまりの峯(藤代の峯でしょう)に移り、さらに大和など転々とした後に天野社(紀伊国一宮丹生都比賣神社)に鎮まったと記しています。この丹生都比賣神社は空海高野山を開く時に、土地の神であるニホツ姫(丹生都姫)から神領を譲られたので、先にここに祀ったと伝えられています。

ニホツ姫が最初に天降ったという庵太村は、現在の高野口にあり、古くは舟木山の麓でした。ここは丹生川が紀の川に注ぐ地点。つまり庵太村と藤代の峯は丹生川で行き来できるということですね。そして紀の川の河口には、静火社、志摩社、伊達社が鎮座しています。新羅征伐の際に船木氏の献上した3艘が武内宿祢によって祀られたところ。

これらの話をまとめてみると、最初はニホツ姫は舟木山の麓に降臨しましたが、住吉大神が来られる際に藤代の峯に上ります。その後住吉大神はさらに砂鉄が豊富な播磨国へと移動。丹生神社だけが残りました。これらすべてに船木氏が関わっていたこととなります。

そして住吉大社神代記には、播磨国の明石郡、賀茂郡紀伊国伊都郡にすでに船木氏の勢力があり、また伊勢、越にも及んでいたことが書かれているわけです。

 

次回、神功皇后以前の船木氏の足跡を辿ってみたいと思います。

 

※大昔、火山活動によってできた熱水鉱床(銅、鉄、鉛、亜鉛、金、銀など)の中で、熱水が動く過程で水銀や朱砂(硫化水銀)が生成されるそうです。なので鉄と朱砂は隣り合わせともいえるのでしょう。色も似ていてややこしいです。出雲伝承では朱砂については、遺体の防腐剤として使われたことに触れられているだけです。 

 

参考文献及びWebサイト

真弓常忠著「古代の鉄と神々」

松田壽男「古代の朱」

田中巽「住吉大社神代記について」

神奈備にようこそ~布奈木の郷

 

 

 

 

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡

 

地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。

国内の地名残存率を見てみると、平均で4割。ところが淡路島は8割も残っているというのです。郡や郷だけでみると9.5割!さすが国生みの島ですね。

 

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今回訪ねた淡路島の五斗長垣内ごっさかいと遺跡の「ごっさ」も不思議な名前ですが、由来については残念ながらまだ腑に落ちる説に出会っていません。

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遺跡近くの棚田

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2004年、淡路市黒谷の五斗長ごっさ地区を台風が襲い、ため池が決壊して棚田が土砂に埋まってしまいました。50世帯、高齢化の進むこの地区では若い人がますます減って大きな痛手となりました。それでも立ち上がるしかないと復旧の工事を始めます。ところが土砂を取り除いていくと、水田の下から国内最大級の鉄器生産集落跡(1~2世紀)が現れたのです。

その後住民の方々は自分たちの手で遺跡の施設を整備したり、見学者への説明など地区活性化に向けて活動を続けておられます。施設内では地元食材の手料理でもてなすカフェ(土日のみ)も皆さんで運営され、ほっこりとした心地いい空間となっています。五斗長カレーを頂きましたが、地元産の甘い玉ねぎが丸ごと入っていて、辛さとのバランスが絶妙!とってもおいしかったです。

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播磨灘を見降ろして、広々とした気持ちのいい場所です。海に沈んでゆく夕日がきれいでしょうね。

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海岸から3㎞、標高200mの丘にあり、東西500m、南北50mほどの尾根の上に広がっています。

23棟の竪穴建物跡のうち12棟が鉄器を作る鍛冶作業場です。一番大きな建物では柱を10本使い、直径が10.5m。

100点を超える鉄器や、朝鮮半島製とされる板状鉄斧が出土しています。鉄器の中では鏃やじりが多いです。

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下の写真は一番大きな建物の復元です。中では地元の方による火起こしや鞴ふいごの体験会が行われていました。

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皮袋で風を送ります。

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遺跡入口にある施設では、現在洲本で開催されている「古代淡路島の海人と交流」という展覧会のサテライト展示として、舟木遺跡の一部展示が行われていました。一般の方はまだ舟木遺跡に入ることはできませんので、とても有難い情報です。

舟木遺跡が知られることとなったのは、昭和41年に近所の小学生が土器を発見したことに始まります。海岸から2㎞ほど、標高150~190mの丘に位置し、東西500m、南北800mという広さ。五斗長垣内遺跡の16倍になります。

こちらの遺跡からも大規模な鉄器工房跡が現れ、時期は五斗長垣内遺跡より少し遅く、2世紀後半から3世紀前半までの使用と推定されています。

五斗長垣内が1世紀半ばに現れ2世紀半ばに鉄器生産の最盛期を迎え(建物の巨大化)、間もなく交代するかのようにさらに大きな舟木遺跡が出現、3世紀前半には消滅しました。

出雲伝承の示す年代を考慮すると、五斗長垣内は倭国大乱(147~188年)の時期に重なります。ヒボコの播磨侵攻(150年頃~)、吉備と出雲の戦争(160年頃~)、第1次物部東征(165年頃~)。そしてより大規模な舟木が現れますが、第2次物部東征(246年頃~)が始まるととともに消滅しています。ここで戦乱があったというような痕跡は今のところないようで、捨てて移動した可能性が高いと思われます。

 

遺跡の中心付近には舟木石上神社が鎮座し、周辺から大型の器台型土器(祭祀用と推察)が出土しました。下写真のD地区と書かれた囲みの左下に石上神社とあります。

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淡路市教育委員会 平成30年度の舟木遺跡発掘調査現地説明会資料より

黒い太枠が遺跡の範囲で、黄色や青のかなり小さな長方形が平成27~30年度に調査された場所です。2m幅の溝(調査区)を何ヶ所か定めて発掘します。

平成29年度のわずかな調査区域だけで104点の鉄器が出土し、五斗長垣内遺跡の規模と出土数から考えると、今後どれだけの発見があるのか予想できないほどです。ところが来年度は調査書の作成のため発掘作業はお休みだそうで、全体像が見えてくるのはかなり先のことになりそうですね。

※上の地図には記されていませんが、平成3~6年に調査された区域も少しあります。

下の写真は航空レーザー測量による三次元立体地図です。B地区とD地区を拡大して、竪穴建物の位置と絵画土器が出土した場所を示しています。D地区の南尾根が祭祀場だった可能性が高いそうです。書き込まれてはいませんが、D地区の西側の丘に舟木石上神社があります。

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同資料より

 

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平成27年度以降に発見した鉄器以外の主なものは、

中国鏡片(中国南部産の材料を使用した後漢鏡)

絵画土器、器台型土器(祭祀用と推測される)

他地域からの搬入土器(河内、但馬、丹波方面)

鍛冶工房跡

鉄製の漁具

塩土器、イイダコ壺(発掘状況からみて祀りで使われた様子)

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この鉄製ヤスは、弥生時代としては北部九州と山陰地域で少数の出土例があるのみで、他地域では極めて稀な鉄器だそうです。山陰では青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡など、近年鉄器の出土が増えていますが、青谷上寺地遺跡からは上の写真と同じような逆刺かえしがついたヤス、釣針が出土しています。海の民による何らかの交流があったのでしょう。

これらの遺跡も最盛期は淡路島と同じく200年頃となります。

出雲伝承では奥出雲は良質の砂鉄が採れ、ウメガイと呼ばれた両刃の小刀が豪族達に人気だったそうです。他にはフトニ大王が占領した吉備や、ヒボコが狙った播磨からも砂鉄が豊富に採れたといいます。淡路島には野ダタラの跡もないようなので、鉄の加工を行う鍛冶場として機能していたのかもしれません。

 

舟木石上神社

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電柱の左下の小さな看板に「石上神社」とあります。カーナビでは表示されなかったので、この交差点を見落とすと辿りつけません。

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三輪山の真西に鎮座する舟木石上神社です。鳥居の左脇には女人禁制を示す碑が建っていて、女性は右手の小道を進んで稲荷神社からの参拝となります。

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出雲伝承では太陽信仰の司祭者は古来より女性(姫巫女)であり、男性となったのは3世紀半の大田田根子(太田タネヒコ)からです。

ここからは同行者に撮影をお願いしました。

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ご神体の磐座です。その下の空間に小さな祠が祀られています。

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人為的に支え石が置かれているようにも見えます。祠は南向き。

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磐座の右手にまわり横から見ると、下写真のように大きな割れ目があって、ホト岩(女神岩)であることがわかります。ここがちょうど東を向いています。

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祠の背後にはたくさんの巨石が。

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写真では影になってわかりにくいですが、ふたつの巨石が三角の空間を作り(ホト岩)、中に小さめの石が置かれています。人為的なものであれば児玉石=子神石かもしれません。子宝を願って祀られるものです。

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小ぶりの三角の立石のまわりに御幣がたくさん立てられています。ここは鳥居から入ってご神体の磐座に向かい左手になります。

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横から見るとお祀りされていることがわかります。

地元の方は荒神さんと呼ぶそうです。出雲の竜神は怖い顔をしているので荒神とも呼ばれるようになり、それを役の行者が全国に広めました。もとは幸の神(幸神)です。

 

「舟木」という地名にもなった、古代に造船や住吉大社神官として活躍した船木氏について、次回辿ります。