古代海人族たちを結ぶ糸(1)海部氏の系図
筑紫舞に残された謎に導かれるように、ソラフルは「君が代」の背景を探ります。
筑紫の王、安曇磯良の行方を追ううちに、他の海人族たちの存在が浮かび上がってきました。
まずは神話に描かれた海神たちの登場シーンから。
海神の誕生
死者の国から逃げ帰ってきたイザナギが穢れ(けがれ)を禊ぎ(みそぎ)によって洗い流した時に生まれた神々です。
水の底ですすぐときに生まれた神が
底津綿津見の神、次に底筒男(ソコツツノオ)の命
水の中程ですすぐときに生まれた神が
中津綿津見の神、次に中筒男(ナカツツノオ)の命
水の面ですすぐときに生まれた神が
表津綿津見の神、次に表筒男(ウワツツノオ)の命
綿津見は安曇連が祖神として祀り、筒男は津守氏の祀る住吉三神。津守氏の祖神ではありません。
筒男、ツツノオってなんだろう?
この不思議な名の由来にはいくつか説があって、津の男であるとか、船の守り神を祀る筒を言うとか、海人の本拠地の地名とか。
他にも古語でツツは星を意味するからとも言われます。
海人族にとって星は夜の航海の命綱。北極星はほぼ動くことなく道標となって輝きます。そのそばに見える北斗七星は1日に1回転し、柄杓の先っぽに当たる剣先星の位置から子の刻0時、丑の刻2時というように時間を測っていたそうです(天の大時計)。
星々の中心である北極星を、古来中国の道教では北辰や太一と呼んで最高神、天帝として信仰していました。日本の天皇という言葉も道教の天皇大帝(宇宙の中心)から来ていると言われています。日本では北極星と北斗七星を祀る妙見信仰がありますね。空海や最澄もこれを密教と融合させています。
住吉三神はオリオン座中央の三ツ星という説もありますが、ソラフルは北極星近くの三ッ星(北斗七星を含むおおぐま座の足である三台星)を表しているという説のほうが自然な気がします。
後漢の頃、道教信仰が盛んだった中国の天台山は、この三台星の真下にある神聖な場所とされました。三台星は天帝である北極星を支えています。
住吉三神も天帝を指し示す、もしくは守護する三ッ星として描かれたのかもしれません。
海人族にとって星は生命を司る神。海と星は強い絆で結ばれているようです。
ところが、もう少し調べてみてわかったのですが、谷川健一著「日本の地名」によると、筒男は剣の神である経津主(フツヌシ)神や雷神と関係があることが日本書紀から読み取れるということで、氏が地名辞書で調べたところ、筑前糸島郡雷山の項では「山頂に雷神社あり、山下を筒原と曰ふ。雷神或いは筒神と唱ふ。蓋(けだし)住吉の筒男神に同じかるべし」とあります。さらにそこに雷神が造ったという筒城があるとも書かれています。雷神は筒神であり、住吉の筒男神に由来するというのです。
また壱岐の石田町筒城には海神社があり、今は白沙八幡宮となっていますがその前は筒城宮といったそうです。文脈から雷神は海神と同意義とされていて、まとめると、
剣神≑雷神=筒神=海神
ということになります。だとすれば、糸島や壱岐は安曇族の支配地ですので、安曇の綿津見神から住吉神へどのようにつながっているのでしょう。系図で見ていきたいと思います。
系図に張り巡らされた意図
さて、新撰姓氏録には津守連は天火明命アメノホアカリノミコト(海部氏)の後裔と書かれています。唐突ですが、結論から言えば海部氏は安曇氏の親戚です。さらに踏み込めば今、宗像大社沖ノ島で話題となっている宗像氏は海部氏の親戚です。海人族はみんな親戚!
つまり安曇と津守も親戚です。記紀などの描き方からも綿津見神と住吉神はペアになっており、綿津見神の発展系(記紀を編集した中央政権による改変?)が住吉神のようです。
先走ってしまいました。ここからはややこしいですが、一緒に格闘してください。知られざる日本の歴史が浮かび上がってきますよ。
国宝、海部氏の系図
丹後天橋立の籠神社宮司である海部氏の系図は昭和51年に公表され、日本最古の系図として国宝に指定されました。その後代々伝世されてきた鏡2枚、後漢時代の息津鏡、前漢時代の辺津鏡も公開。(古墳から出てきたのではなく、代々受け継がれているのです!)
そしてさらに平成4年、詳しい説明の書かれた秘伝の勘注系図がすべて公表されました。そこには2枚の鏡のことも記されていました。説明書付きの鏡なんて、他にありませんよね。
この勘注系図には始祖の火明命(ホアカリノミコト)から9世紀までの直系の子孫の兄弟姉妹と細かな注釈がついています。記紀には見られない話が記されていて、大変貴重なものなのです。
なぜこれまで秘伝とされ公表されなかったのか。それは海部氏の祖先が天皇家と同じだったからです。
公表された系図はふたつあり、本系図は直系のみ縦に記されています。ここには丹後国庁の印が押されていて、公に認められていることがわかります。そしてこの本系図は火明命の子と孫を飛ばして3世孫を記した後、18世孫まで14代が省略されています。公表できない理由があったのでしょう。
この省略を補うのが勘注系図です。だから秘伝なのですね。
天皇家の天孫降臨はニニギノ命が筑紫の日向の高千穂峰に降臨します。
海部家ではニニギノ命の兄弟であるホアカリノ命(別名ニギハヤヒ)が丹波に降臨します。(丹後は丹波と言われていた)その後河内国にも降臨し、また丹波に戻ってきます。
えらいこっちゃです。
ニギハヤヒと言えば物部氏の始祖であり、神武東征より先に河内国に降臨し大和地方を支配した豪族とされ、しかも神武とニギハヤヒが同族であったということが日本書紀にも記されています。
つまり海部氏の系図に書かれていることは、記紀では省略されている神武の曾祖父ニニギの兄弟であるニギハヤヒの降臨伝ということになります。
火明命の一番長い名は、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト
です。天照まで出てきましたよ。
詳細を書くとキリがないので、今回は海人族の関係に絞ります。
下記の系図は安曇氏と関係のある一部抜粋です。
※新撰姓氏録は平安時代初期に編纂されたもので、京と畿内に住む1182氏を皇別、神別、諸藩別に分類し、その祖先を明らかにして氏名の由来や分岐の様子を記述したものです。
このように始祖から3代目のタケイタテの命が重なっていて、同じ祖先を持っていることがわかります。
安曇と海部がつながりました。
そして津守氏は新撰姓氏録では、尾張氏と同祖であり、彦火明命8世孫の市大稲日命の後裔とされています。
旧事本紀の尾張氏系図ではこの市大稲日命は火明命8世孫の倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコ)と同じとされ、海部氏の勘注系図にも8世孫に倭得魂彦命とあります。
市大稲日命(火明命8世孫の倭得玉彦命) ⇒ 津守氏と尾張氏へ
安曇氏、海部氏、津守氏、尾張氏がつながりました。
残るは宗像氏です。
そもそも「君が代」のキミって誰?(3)神々と安曇の君
この日の旅もそろそろ終わりに近づいています。
お昼前に博多駅でレンタカーを借りて糸島半島へ、そしてまた博多へと戻ってそこから志賀島を目指して海の中道へ。半日では少々キツいスケジュールとなりました。
夕暮れが迫っています。
海の中道は10kmほど続く細長い砂州です。写真では見えにくいですが、左手に博多湾、右手に玄界灘が広がっています。
正面にようやく志賀島が見えてきました。一旦ここで車を停めます。
玄界灘は轟音をあげながら荒々しく波を打ちつけています。風がとても強く、大声を出さないと互いの声が聞き取れません。
ところが反対の博多湾はというと、凪いだように静けさを湛えているのです。
小さな能古島をぽっかりと浮かべて、夕暮れの光にきらきらと照らされています。
何度も何度もふたつの海を見比べました。玄界灘からの風に体を揺さぶられながら、激しい波音の中、静かに悠然と輝く博多湾を見るうちに、厳かなものに包まれていくようでした。
博多湾は守られている。神々に守られた海だ‥‥
古代の船に乗って対岸からこちらへやって来る王の姿が見えるようでした。人々はこの地を治める王を神の化身と感じていたのかもしれません。
海と大地と空に満ちる神々の象徴が王であったと、そんな思いが湧いてきました。古代の人々の祈りがここに満ちています。
千代に八千代に、この国は神々に守られてゆく。「君が代」は言霊となってその祈りを伝え続けているのかもしれません。
それではこのいにしえの王、安曇の君とはどんな人だったのでしょう。
山褒め祭を行う志賀海神社は「龍の都」といわれ綿津見三神(海の神)を祀っています。ここは海人族安曇氏の本拠地であり、宮司は代々阿曇氏です。
※ 安曇、阿曇、安積など表記はいろいろで、またアトベ、アト、アド、アドベ、アチメ、アントンも同じ。
関係する氏族は阿曇連、凡海連(オオシアマ)、海犬養連(アマノイヌカイ)、安曇犬養連、八木造(ヤギノミヤツコ)
古事記では「安曇連は綿津見の子、宇都志日金析命(ウツシヒカナサク)の子孫なり」
新撰姓氏録では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見の命の後なり」
志賀海神社には神功皇后が三韓併合のとき志賀島の安曇磯良(アヅミノイソラ)を海底から呼び出し、龍神より干珠満珠を借り受けて皇后へ渡すと、皇后は三韓を平定して無事帰還したという伝説が残っています。磯良は皇后を庇護し導いたようです。
この話は北九州のいくつかの神社にも大筋は同じような内容で伝えられていて、また京都の祇園祭でも船鉾の人形で表されています。
和布刈神社、風浪宮の磯良丸神社、高良大社(玉垂宮)、対馬の和多都美神社など。
三韓併合とは仲哀天皇の皇后である神功皇后が 新羅に出兵し、新羅降伏後、百済、高句麗も日本の支配下に入ったとされます。時期は確定せず、3~4世紀頃といわれています。
高句麗の好太王の石碑(414年建立)に400年前後に倭が新羅に大軍で侵入してきたことが刻まれていますが、日本書紀では神功皇后を170~269年としています)
神功皇后とは息長帯比売(オキナガタラシヒメ)とも言われ、母方は辰韓から渡来した王子、日矛(ヒボコ)の家系です。一説によると三韓併合を行ったのは神功皇后の出自が辰韓の王族であり、辰韓王家断絶の際に家来が起こした新羅国の権利を巡っての争いだったとのことです。
干珠満珠とは潮の満ち引きを司る霊力をもった玉で、海幸山幸の神話にも潮満珠潮干珠(しおみつたま、しおひるたま)として登場します。
この神話はこれから何度か出てくるので、ストーリーを紹介しておきますね。
海幸彦と山幸彦
ニニギの命とコノハナサクヤ姫夫婦の三男、山幸彦(別名、ホオリの命、ヒコホホデミの命)は兄、海幸彦の釣り針を海で落としてしまい探しに出ます。塩土(シオツチ)の神(潮流を司る神)の助言に従うと、海底に住む綿津見の神、豊玉彦の娘、豊玉姫と出会いました。ふたりは夫婦となって3年を共に暮らしますが、やはり釣り針を返さなければと山幸彦は地上に帰ることを決意します。失くした釣り針は綿津見の神が鯛の口にかかっているのを見つけてくれ、さらに潮満珠と潮干珠を土産に持たせてくれます。
潮の満ち引きを操ることができるようになった山幸彦に兄の海幸彦は従うようになりました。(兄は怒りっぽくて厄介な相手として描写されています)
豊玉姫には子どもが宿り、陸に上がって産屋を建てようと鵜の羽を葺き始めますが間に合いません。そして山幸彦に出産するところを見ないでと頼みますが彼は覗き見てしまいます。豊玉姫はワニの姿をしていました。姫は恥じらい海へと帰ってゆきます。
その時生まれた子が鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズの命、別名ヒコナギサタケ)です。のちに豊玉姫の妹、玉依姫と結婚して神武天皇(初代天皇)が生まれます。
民間伝承では豊玉姫の息子、ウガヤフキアエズが磯良であると言われています。初代天皇の父?
磯良の舞
志賀海神社では磯良の舞である鞨鼓(かっこ)の舞が御神幸祭で奉納されます。
春日大社では細男(せいのう、ほそお)の舞といって、神功皇后が筑紫の浜で老人から「細男の舞を舞えば磯良が出てくる」と聞き、舞わせると磯良が現れたという物語です。
また筑紫舞にも神舞の「浮神」という磯良の舞があります。筑紫舞の宗家、西山村光寿斉さんの師匠である菊邑検校によると、この舞が最も大事なものだそうです。筑紫舞は安曇磯良と深い結びつきがあるということですね。
鞨鼓の舞と細男の舞は白布を顔に垂らして顔を隠し、浮神の稽古では敷布を頭からすっぽりかぶって藻のようなものを頭から下げたそうです。貝殻や海藻が顔に貼りついていて醜いために隠しているということですが、ちょっと違和感を覚えます。あえて醜い者にされているような。
和多都美神社前の海岸には磯良エビスという霊石があって、鱗状の磐が祀られているんです。海底で長い年月を過ごし、牡蠣やアワビや海藻が磐を覆っていく。これを醜いとするか、海の豊かさと見るか、海人であれば決して醜いものには映らないのではないか?
「君が代」で歌われた、細石も巌となりて、という言葉がここに重なるような。
あれ? 細石、細男。関係あるのでしょうか。。。
他、磯良の記述等
・宗像神社「宗像大菩薩御縁起」
・高良大社祭神縁起図、玉垂宮神秘書
・太平記
これら中世の記述より、
志賀大明神、常陸国の鹿嶋大明神、大和の春日大明神、天児屋根命、高良玉垂命、対馬の琴崎大明神、
すべて安曇磯良のことを示唆している可能性があります。もしそうだったとして、これほどの変化を遂げることや、神功皇后の大偉業伝説の重要な存在にもかかわらず古事記や日本書紀(以後、記紀と略します)には磯良の名が登場しないことから、何らかの事情があって正史から消された人物であることが窺えます。
記紀の制作年代のほうが明らかに古いのに、中世になって安曇磯良が復活するというのも不思議です。もしかすると海人族由来のくぐつたちによって磯良は海の精霊もしくは海神と形を変え、全国へと語り継がれていったのかもしれません。
もともとは北九州沿岸から朝鮮半島にかけての荒海を航海することのできる海人族の長であり、博多湾沿岸を治める筑紫の王だったのでしょう。それがのちの子孫の代で権力を奪われ、神功皇后の三韓併合の話の中では朝廷に従属する側に変わっていったようです。実際に安曇族が航海の舵取りをしたかもしれませんよね。
また、記紀では三韓併合は磯良の代わりに住吉三神(海の神)が登場します。安曇と住吉神の関係は?
さらに磯良の名を磯武良(イソタケラ)ということもあり、磯を渚と換えればナギサタケラになります。(ナギサタケはウガヤフキアエズと同じ)
このイソタケラという響き、どこかで聞き覚えがあると思ったら、スサノオの息子、五十猛(イソタケ)に似ています! 関係があるのでしょうか。
参考文献
そもそも「君が代」のキミって誰?(2)糸島から博多湾岸・君が代の旅
このコスモスは前原市井原(イワラ)にある王墓跡に咲き乱れていました。
井原と書きますが、漢字は後からつけられたものですので音が大事です。地元の人はイハラやイバルではなくイワラと呼んでいます。
巨石信仰があったとすると、岩羅、磐羅、であってもおかしくないのでは。
この辺りはいにしえの伊都国の中心部にあたります。
伊都国というのは 三国志魏書倭人伝によると卑弥呼の時代、女王国連合の外交と防衛機関の役目を担っていました。中国からの使者は必ずここでチェックを受けて留まり、贈り物などもすべて検査されます。戸数は1000と少なめですが、代々王がいます。
中国からの最新の情報がまずはここへ届くということなので、流行の先端をいっていたのでしょう。
王墓は3つ発見されていて、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡です。
平原(ひらばる)遺跡は伊都国女王の墓?
2~3世紀に造られたという平原遺跡の中心になる1号墓からは40面の銅鏡が出るなど副葬品はトップクラスで、その内容から女王のものと言われています。武器がほとんどないことや、アクセサリーがとても多く(ガラス、めのう、琥珀)特に中国で女性がつけるピアスが入っていたからです。日本では唯一のものだとか。
上の内行花文鏡は5枚あり、なんと直径46.5㎝の国内最大の鏡なんです!
実際に目にすると、その大きさに圧倒されます。これまで見たことのある鏡とは存在感が違うんです。
大きさや文様などから三種の神器のひとつ八咫鏡(やたのかがみ)だという説もあります。
想像してみてください。連合国の外交と防衛を司る女王は、流行を先取りしたお洒落なシャーマン‥‥
古代の女性ってかっこいい。
さて、次の目的地はすぐ近くに建つ細石(さざれいし)神社です。
姉妹神を祀る細石神社
今は200坪ほどのひっそりとした神社ですが、豊臣秀吉に没収される前は何倍も広くて立派な神社だったそうです。
細石神社の裏手には三雲南小路遺跡があり、平原遺跡より前の紀元前1世紀の王墓(王と王妃)です。姉妹神として祖先を祀っていたのでしょうか。
ところで細石(さざれ石)とはどんなものでしょう。
私は小石とは大きな岩が小さく削られていくものだと思っていましたが、それと逆に、小石が大きな岩になっていくこともあるようです。
Wikipediaによると、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、ひとつの大きな岩の塊に変化したもの、石灰質角礫岩というそうです。石灰質が雨水に溶け、粘着力のある乳状液が小石どうしを繋いでくっつけていき、コンクリート状に固まります。
参照 籠神社の細石
昔の人々はこういったことが起こることを知っていたのでしょうか。
糸島郡誌によると細石神社の御神体は小石と記されているので、君が代に関わるとしても、小石としての意味で使われたように思います。
千代の聖水? 千代水
博多湾岸を東に進み博多の県庁付近へやってくると、そこが千代町です。博多湾を望めば志賀島が向かいに浮かんでいます。
この写真は昔おいしい水が湧いたという千代の井戸跡です。海辺に塩を含まない井戸水があればとても貴重です。古代では聖地とされたそうです。
古今和歌集の伝本によっては「我が君は 千代にましませ」というものもあり、これだと千代にいらっしゃる我が君となり、君主の館が千代にあるという可能性もでてきます。
さて、これで苔むすめ、磐、さざれ石、千代と揃いました。
古代の主要国家であった伊都国の周辺にまつわる神の名、神社、地名をたった32文字の中に入れ込んで歌われている君が代。
偶然だろうと言ってしまうことのほうが、むしろ不自然に思えてきます。
ソラフル一行はこのあと海の中道へと車を走らせます。
そもそも「君が代」のキミって誰?(1)志賀海神社の山誉め祭
2001年初秋、博多へ筑紫舞を観る旅に出た父と私、夫、息子の4人には、もうひとつのミッションがありました。
君が代のキミを探せ。
探すというと少々大袈裟ですが、古代史研究家の古田武彦氏の説かれていた、君が代は古代筑紫地方の王に捧げる歌というのが本当なのか、とりあえず現地へ行ってみようということになったのです。
君が代はどこからやって来た?
元歌は古今和歌集(905年)に題知らず読み人知らずとして納められています。出だしは「君が代は」ではなく「我が君は」となっています。
明治の初め、日本にも国歌が必要ということになり、薩摩藩出身の者たちが地元に伝わる薩摩琵琶の「蓬莱山」よりこの歌を推薦したようです。
島津の殿様が作詞したという蓬莱山の一部に君が代が入っているのですが、元はどこからの採用か。薩摩に古来から伝わる神前神楽にも君が代があるらしく、そこから採ったとも言われます。では薩摩発祥なのか?
ところが、です。
今現在、君が代を神事として昔から歌い継いでいるところが存在しました。
博多湾志賀島にある志賀海神社で4月と11月の山誉め祭にて土地の歌として奉納されているのです。志賀海神社といえば漢委奴国王の金印が発見されたところですね。
そしてこの山誉めの神事が神功皇后の前で行われたことや、それ以前から続いていることが太平記に記されています。太平記は歴史書ではありませんが、伝承を由来としている可能性があるので参考として。
つまり、弥生時代にはすでに存在していた可能性が!
志賀海神社の山誉め祭
第一部 大祓の祝詞(おおはらいののりと)
第二部 八乙女の舞
第三部 今宮社での闇のお祭り
第四部 山誉め祭
昔からこの通りに進行していたのなら、大祓の祝詞の起源もそれほどに古いということですね。祝詞が終わると最後に「おーーっ」という深い声をあげるそうです。
これ、どこかで聞いた話だなと思ったら、筑紫舞の菊邑検校やくぐつ達が洞窟での舞のあと玄界灘に向かって両手を上げて「おーーっ」と神呼びをしていた、というのを思い出しました。
八乙女の舞は8人の老女が2人ずつ立って時々ぐるりと回転するのを2、3度繰り返すだけの舞だそうです。これを舞う8軒の家が決まっていて代理は立てられないというので、特別な存在ということでしょうか。意味がありそうですね。(今では若い人が継ぐのを敬遠して人手が減っているとか。神事の意味もわからない人が増え、急速に継承が難しくなっているようです)
次に本殿から隣の今宮社に場所を移して、暗い中で祈りを捧げます。
最後に本殿の前にて山誉め祭です。前半は山での鹿狩りの話で、狩りの安全と豊猟を志賀大明神に祈願して矢を射ます。後半は海の漁です。櫓を持って漕ぐようにしながら君が代が歌われます。歌うというより述べられます。
君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで
あれはやあれこそは 我君の御船かや
うつろうがせ 身骸にいのち千歳という花こそ咲いたり
鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば幾世経ぬらなん
香椎路に向いたるあの吹上の浜
千代に八千代まで
今宵夜半につき給う御船こそ たが御船なりけるよ
あれはやあれこそは安曇の君のめし給う
御船になりけるよ
いるかよいるか 汐早のいるか
磯良が崎に鯛釣るおきな
情景を簡単に説明すると、七日七夜のお祭りの最終日前夜、この地の君主、安曇の君を乗せた船が今まさにこちらへやってくる。言わばお祭りのクライマックスで「君が代は千代に八千代に」と讃えられるのです。
安曇の君、何者なのでしょう。
この謎は一旦置いておいて、まずは博多湾沿岸の君が代探しに出てみたいと思います。
こけむすめを探しに
最初に糸島半島付け根あたりの西側にある船越という港を目指します。旧糸島水道(博多湾と唐津湾を結ぶ)の西の端にあたります。そこに目当ての桜谷神社があるそうなのですが、今のようにカーナビのない時代でしたので、夫が運転する車で1時間ほど迷いに迷ってなんとか近くまで来たものの、桜谷神社が見つかりません。
こんな山道を歩き回ってようやく土地の人と出会い、尋ねてみたところ「桜谷神社とは聞いたことがないけれど、コケムスメの神様を祀ってる神社ならこの先にある」と言われます。何年か前にも東京から来たという学者さんらしい男性たちがぞろぞろとやってきた、とのことでした。
この土地では神社よりも神様そのものを語り継ぎ、大事にしてきたということなのでしょう。
6畳ほどの小さな祠の中の額には古計牟須姫命(コケムスメノミコト)と木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)とありました。
木花開耶姫は古事記のニニギノ命に求婚された美しい姫として有名です。姉の磐長姫(イワナガ姫)とともに父の大山津見の神が差し出したけれど、ニニギノ命は醜い磐長姫を返してしまう。大山津見の神は怒って「木花開耶姫を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろう、磐長姫を妻にすれば天津神の御子の命は岩のように永遠のものとなるだろう。木花開耶姫だけであれば天津神の御子の命は花のように短くなるだろう」と告げました。
この醜い磐長姫というのは、きっと木花開耶姫の時代よりも古い神様なのでしょう。その名前の示すように巨石信仰の時代、縄文時代に崇められた神だからこそ、新たにやってきた弥生時代の美しい神様と比較しておとしめられていると考えられます。
古計牟須姫命は伝承には出てきませんが、陰陽石が祀られていることと名前から想像すると磐長姫と同じく巨石信仰時代の神様でしょう。
この地元ではコケムスメとは磐長姫のことだと伝わっているというのですが、真偽はわかりません。
さて次はイワラ(井原)地方へと移動します。
そもそもは幻の筑紫舞、古典芸能の源流へ(3)宮地嶽神社に蘇った古代の舞
別れ、そして再び
太平洋戦争に入ってからは、検校は光子のもとに1度来ると1年中ほとんど家にいて毎日稽古が続きました。
昭和18年の秋、検校から「もう全部伝えました。しっかりと体に入れて後々まで残して伝えてください。私はもうお暇します」と稽古の終わりを告げられました。
家のものが戦時中だからと引き留めましたがだめでした。
光子は泣きながら検校との別れの盃を交わし、その時初めて検校に激しい愛情を感じたといいます。
検校は旅立っていきました。見送りを辞退した検校とケイさんの後ろ姿には、あの洞窟で舞った人々が嬉しそうに取り巻いて歩いている幻が光子には見えたそうです。
昭和20年春に光子の友人が長崎で検校とばったり出会いました。友人が何か光子に言づては?と訊くと
「いいえ、何もありません。あの人が私ですから」
と答えたそうです。
夏に原爆が投下され、光子はその日を師の命日としてお祀りすることと決めました。
戦争が終わって1年ほどたった頃、差出人不明の手紙が届き、そこにはケイさんが福岡の川で入水自殺したと書かれた小さな記事が入っていました。
後年光子は次のように書き記しています。成すべきことを成し遂げ、あとは神に任せる、そんな高僧のように無私無欲な検校、そんな検校に「陰の形に添う如く」の形容そのままのケイさんの姿はまるで殉教者のように思えたと。
暗闇の中をふたり寄り添いながら、けれど確かな足取りでかすかな光へと向かって歩いていく。そのかすかな光こそ、光子だったのでしょう。
光子はその後、日本舞踊西山村流を起こしますが、やはり筑紫舞への思いが募り、60代ですべてを捨てて九州福岡へと移住、筑紫舞宗家、西山村光寿斉となりました。
70歳頃の光寿斉さんの言葉:
「私は残り少ない年齢になって、やはりかつての検校のように筑紫舞を次の世代の人に教え、伝え、残すことのみ生き甲斐を感じて暮している。他には何も欲しくない。むしろ日一日と、鮮明に一つ一つの検校の動作、語りが思い起こされる。‥‥時間と空間を越えてやっと検校とひとつになったのかも知れない」
さらに10年後、ソラフルは父と福岡へと向かいます。
父が光寿斉さんの談話会に出席するなどのつながりからお手紙のやりとりもあって、珍しく興味を示した娘のソラフルと一度本場に観にいこうということになったのです。
博多駅に近い筑前一の宮、住吉神社での奉納舞でした。お弟子さんたちの舞のあと、光寿斉さんの神舞が奉納されました。当時の私にはただただ別格だなぁという感慨が強く、言葉では表現できなかったのですが、のちにその時の記事がJR九州のコミュニティー誌に掲載され、光寿斉さん自ら送って下さいました。
記事の抜粋:
「ゆららさららと神が揺るぎ出るような舞である。・・・・ふわふわと波を踏むような足づかい。くるりと手首を返す所作。大きく旋回しながら、高く足を挙げ跳びあがった瞬間、小柄なその躯が宙に止まったように見えた。・・・・ひらひらと踏まれる白い足袋の先からは、神の国の常世波が泡立ち、拝殿の中にまで寄せて来るようだった」
いつか筑紫舞の話をもっと調べてみたいと思いながら、子育てや仕事に追われるうち、気がつけば今となっていました。
光寿斉さんは2013年に、古田武彦氏は2015年にご逝去され、この春には父も旅立ちました。
まるで父とバトンタッチするかのように古代史に興味を持ち始め、かつてはただの呪文だった言葉が今になってじわじわと意味をなし、パズルを解くような思いで歴史の中へ踏み込んでいます。父の執念の炎が私の中に飛び火したかのようです。
とはいえソラフルの目にうつる古代なので父とはまた違ったものが見えてくるのですが、それでもやっぱり、そもそもは筑紫舞でした。
そして筑紫舞のことを再び調べていくと、ありました。
検校とケイさんの守ったものは九州の地でしっかりと受け継がれ根付いていたのです。
Web上にはたくさんの記事が掲載され、今では簡単に調べることもできます。筑紫舞は光寿斉さんのお嬢さんたちに引き継がれ、発祥の地で継承されており、さらにあの洞窟の舞が行われていた宮地嶽神社で、毎年10月に宮司らによって筑紫舞が奉納されているのです。
27年前の光寿斉さんの記述によると「幸い、宮地嶽神社の宮司が当神社に関係の有無に関わらず、一番近いところにいる私たちが習って、何とか残すことに努力を致しましょうと言ってくださった」とあり、5年間の契約で伝承を始めたそうです。
すでにその契約期間を越え、今では恒例の神事として執り行われています。
昭和初期、消えかかった灯を命がけで守り繋いでいった人たちの想いが、今ここに確かな炎となって歴史の闇を照らしだしているような気がします。
宮地嶽神社 光の道
検校は光子に舞の情景は詳しく説明してくれたけれど、歴史的なことは伏せていたそうです。
光子のもとを去る前に検校は言いました。
「色々難しい事、無理難題を押しつけましたが、私が生涯をかけてやった仕事と思っています。‥‥曲の解釈のことなど、そっくりそのまま持っていて下されば、いつの日か、何十年、いや何百年か先にでも、きっとその色々の謎を解いてくださる方が現れるでしょう。それまで、伝え伝えて、大事にしてください」
歴史の謎はいまだ解かれてはいません。
けれど謎を解くためではなくとも、人々が互いを尊びあい、自分にできることを成す、その姿にソラフルは心が震えるのです。
☆補足☆
現宮地嶽神社の浄見宮司のお話によると「自分は次男だったので奈良の春日大社に奉公していたが、その間なぜか大和舞ばかり学ばせられ、嫌になってアメリカへと渡った。ところが兄が急逝しこちらへ戻って跡を継ぐことになり、最初に言われたのが筑紫舞を舞えということだった。やり始めてみるとわかったが、13年間学んだ大和舞の元が筑紫舞だった」
不思議な経緯ですね。なんだか筑紫舞自身が時をつなぎ縁を結んでいくかのようです。
参考文献
「よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞」古田武彦
「市民の古代第11集・第12集」新泉社
「旅のライブ情報誌Please175」JR九州
そもそもは幻の筑紫舞、古典芸能の源流へ(2)菊邑検校が秘めたもの
前回の記事はこちら
光子たちのその後に入る前に、筑紫舞の大事なポイントを何点か挙げておきたいと思います。
筑紫舞の核となる舞は翁の舞(くぐつ舞)です。
諸国の翁(その地方の王)が集まって諸国の舞を披露します。
三人立ち 肥後、加賀、都の翁
五人立ち 上記に加えて、出雲、難波津より上りし翁
七人立ち 上記に加えて、尾張、夷(えびす)の翁
このような形なのですが、都の翁だけが地名が抜けています。都とはどこですかとの光子の問いかけに「今は申せません」と検校は最後まで答えなかったといいます。
シンプルに考えれば筑紫舞なのだから筑紫地方だろうと思いますが、明かしてはいけない理由があったのでしょう。
ここが判明すれば「難波津より上りし」の意味も明らかになり、歴史の変遷が浮かび上がってくるかもしれません。隠されるからよけいに気になってしまいます。
光子が検校に筑紫くぐつの人たちはどういう人に舞を教えるのかと聞いたとき「九州の子に教えます、それ以外の子がやると言ってもいりません」ときっぱりと答えたそうです。光子が継承者に選ばれたのは異例であったようです。
緊急手段として舞は伝えたけれど、九州の歴史までを光子に背負わせることはしなかった。それは歴史を伝承していく者たちが他にいたからとは考えられないでしょうか。いつかその者たちが事を明らかにする日が待ち遠しいです。
次に、舞そのものの独特な動きとしてルソン足があります。
踏んで蹴りだした足先を立てているのが特徴です。
♪ トトトン・・トトトン・・トトトントンサ
軽快で面白いですね。天の神は舞う人を見てくれるけれど、地の神には見えないのでこのような音を捧げるのだそうです。
〈 天の岩屋の戸の前に桶を伏せて上に乗り、足を踏み轟かし 〉神懸かりしたというアメノウズメの舞を彷彿とさせます。
他にも鳥とびや波足、砂けり、三界越え(花魁道中の外八文字のもと)などあって、跳躍は一気に現世を飛び越える動きとのことです。
ソラフルが実際に目にした筑紫舞はわずかですが、ふうわりと優美な動きの中に時折跳躍しながらの素早い回転が入ったりして足さばきが実に軽やかで、そして品があるのです。ただ技を披露するというよりも、神様へ捧げるものだからでしょう。
やっぱり不思議・・・
ところで、光子たちのお稽古について想像してみると不思議だと思いませんか?
盲目の人が舞を習ってさらに人に伝えるとはどういうことでしょう。
ケイさんがいますが彼は話すことができません。さらに筑紫舞は秘伝のためすべて口伝です。なので光子は初めの頃は1曲マスターするのに1~2年もかかったそうです。
この不思議については当の光子もいつも疑問に思っていたらしく、検校が本当は見えているんじゃないかと試しに足を出してみたら転んでしまったと(笑)
そんなことをしてしまうほど確かに見られていると感じていたのでしょう。衣ずれの音で位置や動きがわかったり、どんな着物か、下にどんな腰巻をつけているかさえ見抜かれるといいます。でも音だけではないような気もします。物を探すのに手探りしているのを見たことがなかったと。検校曰く心眼だそうですよ。
研ぎ澄まされた内面世界に生きておられたのかもしれません。
このような検校やケイさんの全身全霊の集中によって、光子は舞人として育てられていきました。そんな関わり方をする間柄というのは、通常の人間関係の枠を超えているように思えます。そしてそれぞれが私心を超えている。
古代から脈々と伝えられてきた舞を、そしてそこに知られざる歴史を密かに携えながら、ただこの身を通してしか残せない形なきものを、人生をかけて命をかけて守り抜こうとする人たちの結びつきです。
補足ですが、文字に残してはいけないという約束事がありますが、昔から縄を結んで文字の代わりにしたり、石や木に〇や△など記号を刻むことで残してはいたそうで、検校にも縄文字の習慣はあったようです。(沖縄では近年まで縄文字が使われていたそうですよ)
隋書倭国伝の中に「文字はなく、ただ木に刻み目をつけたり縄に結び目を作る」とありますが、そのまんますぎて驚きです。
もうひとつ不思議なことがあって、検校が光子の家に滞在中は度々「太宰府よりおん使者参りました~」と店先で大きな声で呼ばれていたそうで、また検校が来る10日ほど前には必ず山伏が連絡に来たといいます。
使者の方が家に泊まる時は検校との同室は辞退され「私らが親方様と枕をともにするのは死ぬ時だけでございます」と言われたそう。
全国から光子のもとに伝承者が教えにやってくる時も検校の指示で来たと言われます。
検校っていったい何者???
国家体制の裏に隠れたネットワークがあって、そのドンだったのかも‥‥。
余談ですが、あの楠木正成も山伏を使って情報戦を展開していたらしく、その正成の妹の子が観阿弥(世阿弥の父)なんだそうですよ。くぐつと山伏の関係は?
疑問は尽きませんが、まあこれだけ隠れなければいけないということは、歴史のどの時点かで敗けた側ということはわかります。
検校が光子には地唄舞の曽我物語や曽我にまつわるものだけはタブーのように頑なに教えなかったとか、信仰しているのは高木神だけだと言っていた、自分たちの翁は海の翁であり何かあれば鳥船に乗って誰よりも速く空を駆けてくる、などなど手掛かりになるかもしれませんね。
さて、長くなりましたので光子たちのその後は次回へ続きます。
そもそもは幻の筑紫舞、古典芸能の源流へ(1)筑紫くぐつと洞窟古墳の舞
こどもの頃、父は日本の古代の歴史をくり返し聞かせてくれました。
歴史といっても弥生から古墳時代の話です。確かなことはわかるはずがありません。つまり仮説です。
歴史に興味のないソラフルは聞いているフリをしながらやり過ごすのが当たり前。いつか終わるとたかを括っていたのですが、結局大人になっても止むことはありませんでした。
父はいわゆる邪馬台国九州説でした。
当時畿内説が主流の時代に、教科書にも載っていない少数派の説など聞かされても胡散臭いだけで、興味のないソラフルには意味不明の呪文に過ぎなかったのです。
ただそんな中でひとつだけ心にひっかかる話がありました。古代から密かに継承されてきたという筑紫舞です。古くはちくしまいと言ったそうです。
筑紫舞の説明に入る前に、この幻の舞を現代に蘇らせたひとりの女性の、不思議な縁に彩られた半生を紹介したいと思います。
筑紫くぐつと菊邑検校、謎めく洞窟の舞
昭和6年、神戸の造り酒屋「山十」のひとり娘、10歳になる山本光子はふとした縁から九州発祥の筑紫舞の稽古を受けることになりました。
家には芸能の人などが出入りしており、その中のひとり、太宰府から来た盲目の琴曲者、菊邑検校(きくむらけんぎょう)が長く滞在していたときのことです。
検校はケイさんという話すことが不自由な男性と共に舞の稽古を歌舞伎役者につけていたのですが、彼は振りがうまく覚えられません。
光子は山村流の地唄舞を習っていたので、そばで真似をしてみることもありました。
ある日検校から光子に稽古をつけさせてもらえないかと両親に申し出がありました。
検校の話によると、以前太宰府近くの寺にいる鼻の欠けた庭男が筑紫舞の伝承者であるとわかり、まだ筑紫くぐつが残っていたことを知った。その庭男が言うには、自分たちには何百年も前から仲間が大勢いて、年に1度高位高官の前で舞えば1年は食べていけたが今日ではそうはいかなくなった。昔からの言い伝えで仲間の誰かに伝えて死ななければ地獄に落ちると言われているのに、伝える者が無い。どうかご縁と思って受け取ってもらえないかと。それで検校は残りの人生を筑紫舞の研究に使うことにしたと言うのです。
くぐつ(傀儡子)というのはプロの芸能集団で、各地を放浪し三味線を弾いて人形芝居をするものから、高貴な人を相手に芸能を教えるものまで様々です。世阿弥もくぐつです。
言葉の起源は、昔海人族(あまぞく)の女たちが海岸のくぐという草で籠(くぐっこ)を編んで使っており、男たちが海に出ている間、くぐっこに物を入れて町に売りに出たり、中には春を売るものもいて、そこからくぐつと呼ばれるようになったそうです。
くぐつから神主、宮司になった人も多く、また能や狂言もそこから生まれました。奥義を極めたものは大夫と呼ばれます。人形使いのくぐつは竹本義太夫と組んで人形浄瑠璃を生み出しました。日本の芸能に欠かせない存在だったのです。
検校の申し出を受けてから12年、光子は検校とケイさんの厳しい稽古によって200曲を超える古代の舞を心身に叩き込んでいきます。
どのようなネットワークがあったのか、全国から次々と伝承者のくぐつたちが光子のもとを訪れ、伝えては消えてゆきました。みんな礼儀正しく品格のある人たちで、戦時中には赤紙が届いたからあと数日しかないと必死に教えてくれた人もいました。
不思議なことにその誰一人としてその後会うことはなかったといいます。まさに気魂の一期一会ですね。
14歳のある日、検校に連れられて光子は北九州へ向かいます。本場の舞を見せるため、そしてこれが最後になるかもしれないとも言われたそうです。昭和の動乱期だったからでしょうか。
連れてゆかれたのは玄界灘に面した洞窟でした。そこに現れた12、3人の中年男性たちは古びた衣装に着替えると、かがり火に照らされた洞窟の中で静かに舞い始めました。
琴や鼓を奏でる者と舞人が次々と入れ替わります。その無我の姿は神そのものであり、灯りに照らされた顔はまるで仏像のように見えたそうです。
舞のあとには神事のような儀式が行われ、光子はわけのわからないままそれに従いました。
すべてが終わってからの男性たちの会話に「去年はあの山の向うでしたな」とあったので、毎年ここで舞っているのではないようだと思ったそうです。
別れ際、「もう親方様(検校のこと)の前で舞うことはないだろう、これだけ揃うこともないかもしれない」と呟く人も。
それから50年近くたって、光子は古代史研究家の古田武彦氏との調査によって、この時の洞窟が宮地嶽神社敷地内にある宮地嶽大塚古墳だったということを突きとめました。
7世紀頃に造られたこの古墳、開口石窟として全国最大規模なんです。横穴式石室で長さが22メートルもあります。奈良の石舞台古墳でさえ20メートルなのに!
これなら古墳の中で10数人が舞うこともできそうですね。
しかも副葬品がすごいんです。3メートル近い金銅製の太刀、同じく龍虎模様の透かし彫りを施された冠、馬具、瑠璃(ガラス)玉や瑠璃板など他に例を見ないような超一級のお宝を含めて300点。
被葬者は宗像徳善、磐井の一族など諸説あります。
神事のような舞は祖霊へ捧げていたのでしょうか。
さて、この筑紫舞とはいったい何ものなのでしょう。
文献として最古のものは、続日本紀 (731年) に宮廷舞踊としての記載があります。けれどその後は表舞台から姿を消してしまいます。権力の交代があったのかもしれません。
筑紫とは九州北部の地方を指し、古代より海洋民族として朝鮮半島や中国大陸を行き来する倭人が住んでいました。
中国古典の礼記によると、周の時代(紀元前1000頃~同256年)の天子の礼(君主のあり方として重要な規範)のひとつに「東夷(倭国)の舞楽たる昧(まい)と南蛮の舞楽たる任を廟前に奏せしめ…」とあります。
この昧が筑紫舞だというのは無理があるでしょうが、その起源が繋がっていないとも言い切れません。
能や狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎の源流といわれ、菊邑検校によればアメノウズメの舞(天の岩戸開き)をさして「あれが私たちの筑紫舞のもとです」とのこと。
ただし筑紫舞は神に捧げる舞のためお金儲けはできません。酒席もだめ、神主のお祓いと同じで乾杯の前でないと舞えないのです。
筑紫舞には神舞、神前、宮舞や人々に見せるためのくぐつ舞などがあります。
検校の言葉:
「神舞は上手に舞おうと思ってはいけません。見物人が何人いようと皆、神のお相伴です。神様が満足されればそれでよろしい」
「これは天満系(アマミツケイ)の舞です。天に満ち満ちた神のことです。天の神、海の神、地の神とあるのです」
「アマテラスに感謝してお塩を頂くのです。この場合のアマテラスとは、海を照らすと書きます。つまり月の光、日の光の御余光で海の幸が獲れる。その光、波にキラキラと光る、その光を言うのです」
とてもおおらかな神の気配が伝わってきますね。
古代筑紫地方の海人族(あまぞく)たちの見ていた光、そして感謝の思いが満ちてくるようです。
「筑紫舞はたとえ曲がなくても、風の音、波の音でも舞えないといけない」
ぐっときます。
さらに宮廷舞踊以外にも、庶民の生活に根ざしたくぐつ舞もあって、案山子や蛙や鼠、鳥など様々なものを擬人化して舞います。
「世の中すべてのものは人間と同じです。言葉も喋るでしょうよ」
原始日本のやわらかくおおらかな心に触れたような気がしませんか。
また九州ものだけではなく全国の舞があり、東物(相模、武蔵、陸奥)に尾張、伊勢、畿内物とに分類されます。くぐつ達によってしだいに全国へと広がっていったようです。
光子たちのその後は次回へ続きます。