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源流なび Sorafull

第1次物部東征~八咫烏と八岐大蛇

第1次物部東征で紀ノ川の名草軍に撃退された物部軍は、海路で熊野へ向かい、熊野川中流の中州に本拠地を置きました。

大和葛城ではすでに主力となる勢力はなく、出雲王家の分家である登美家は、次は物部が大和を統一するだろうと見越します。

出雲の伝承です。

登美家の大鴨建津乃身オオカモタテツノミは物部と共に政権を作ることを目的に、物部軍を熊野から大和へと案内します。物部氏はこれを「トビの道案内」や「八咫烏ヤタガラスの道案内」と呼びました。八咫烏とは3本足のカラスを指し、中国の神話では三足烏と言われ、太陽に住むので太陽のシンボルとされます。登美家は三輪山の太陽神を崇めているので、建津乃身を八咫烏に例えたと言われています。熊野の人々は新宮市八咫烏神社を建て、熊野大社など熊野三山では八咫烏を眷属神として祭り、建津乃身の子孫は京都の加茂神社で八咫烏神事を行っています。磯城登美家はこの建津乃身の時から正式に加茂家と呼ばれました。

神戸市にある弓弦羽神社のヤタガラス

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日本サッカー協会のシンボルにもなっていますね。勝利へと導く守り神です。

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物部軍は八咫烏の案内によって熊野山地を北上し、国栖くず→宇陀→墨坂→磐余いわれ(登美家の地盤)へと到着します。イワレ彦(神武天皇)という名はこの地名からつけられたようです。

日本書紀では墨坂を越えたのち、皇軍がナガスネ彦(大彦)と苦戦している時、突然金色の鵄トビが飛んできて天皇の弓の先にとまります。鵄は光り輝いてナガスネ彦の軍勢を幻惑します。トビとは登美トビ家でしょうか。

京都の賀茂神社上賀茂神社下鴨神社)では金鵄きんし八咫烏は賀茂建角身カモタテツノミの化身とされています。

 

出雲の伝承によると、熊野から磐余に着くまで、戦いはなかったということです。記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も出てきます。そして物部軍が勝つたびに神武天皇は歌います。わざわざ戦いの場面を多く描き、天皇に何度も歌わせるのですから、書き手の意図が何かあるのではないかと深読みしたくなります。例えば、こんな歌があります。

「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」

鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。変ですよね。シギというのは磯城シキ王朝にかけているのかなと思えますが、クジラとは何を指しているのでしょう。古代朝鮮語で鷹をクチというのだとか、諸説ありますが、どれもすっきりしませんでした。そこで出雲の伝承から読み解くと、(これはSorafullの推測ですが)、八咫烏とは登美家です。登美家は事代主の子孫です。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと。古事記が書かれた時代にクジラを現代と同じ意味で使っていたかどうか、検証しなければなりませんが。

【2019.12月追記】御所市に「櫛羅くじら」という地名があることがわかりました。以下の記事で紹介しました。 

 

東征の続きに戻ります。磯城王朝の兵は北に移動しました。生駒山地で防備する者や、山城国の南部へ移住する者もいたようです。

175年頃、物部勢は大和入りすると、銅鐸を壊してまわり、代わりに銅鏡の祭祀を広めようとしました。また、登美家が手助けしたにもかかわらず、登美家の祭りの庭(霊畤)を占領し、三輪山祭祀を妨害しました。これは宗教戦争でもあったようです。大彦が物部と長く戦いを続けましたが、しだいに劣勢となり、大和の人々は銅鐸を地下に埋め、銅鐸文化は終わりました。183年頃、大彦は北へ退却します。大彦のその後については、下記の記事を参照してください。

 

 

大和の高尾張村にいた尾張一族は、物部勢力に圧され、一部は紀伊国の高倉下の子孫と合流、残りは摂津三島へ。そこで尾張家と分かれた海家(海部氏)は先祖の地、丹波へと引きあげます。残りの尾張一族は伊勢湾岸へと移住し、熱田神宮を建て勢力を伸ばし、のちに尾張国と呼ばれるようになりました。

 

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時代は遡りますが、ここでヤマタノオロチ伝説を紹介します。

高天原から追放されたスサノオは出雲の斐伊川に降り立った。上流の鳥上の山に老夫婦と泣いている少女がいた。老夫婦は大山津見の子のアシナヅチテナヅチ、娘はクシナダヒメ(櫛名田姫、奇稲田姫)。もとは8人の娘がいたが毎年1人ずつ八岐大蛇ヤマタノオロチに食べられてしまい、この娘が最後の1人という。大蛇の目は赤く燃え、8つの頭と8つの尾を持ち、谷を8つと山の尾根を8つも渡るほどに大きく、腹からは赤い血を垂らしている。

スサノオは大蛇を退治するかわりに、この娘を嫁にもらうと約束をする。スサノオは娘を櫛に変えて髪に差すと、夫婦に8回醸した酒を造らせた。8つの門を立て、そこに酒を入れた8つの樽を置いた。大蛇が現れ酒を飲んで眠ったすきに、スサノオは十握剣とつかのつるぎで大蛇を斬り刻んだ。流れた血で川は赤く染まった。その時剣の刃が欠けたので見てみると、尾の中から大きな剣が出てきた。それが草薙剣くさなぎのつるぎである。スサノオはこれを天照大神に献上した。スサノオクシナダヒメは出雲の須賀で暮らすことにした。その時に、

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」

と歌を詠んだ。宮ができるとアシナヅチに「我が宮の長となれ」と言って、稲田のスガノヤツミミと名付けた。クシナダ姫はヤシマジヌミという御子を生んだ。6代孫がオオナムチノ命である。

 

以上は記紀を織り交ぜてまとめましたが、これでもかというほどに「8」の多いお話です。

それでは名前から見ていきましょう。八岐ヤマタは幸姫命の別名、八岐ヤチマタ姫。大蛇オロチは出雲の龍蛇神。老夫婦の名前はサルタ彦大神の別名、足男槌アシナヅチ、手男槌テナヅチと同じで、しかも父は大山津見(クナト大神)というので、ここで幸の神三神が揃いました。老夫婦が酒を造りますが、出雲王は酒の神でしたね。

クシナダヒメは出雲の初代オオナモチ、菅之八耳王スガノヤツミミの后である稲田姫のことでしょう。スサノオクシナダ姫が住んだ須賀の地名もこの菅からとったのでしょうか。ヤシマジヌミは2代オオナモチ、八島士之身です。日本書紀ではサル彦八嶋篠とも書いています。

大蛇の姿は8つの支流をもつ斐伊川でしょう。砂鉄が出るので黒い川ですが、ここでは赤い川になっています。製鉄のタタラの炎の赤でしょうか。

スサノオは徐福です。徐福が出雲へ来た頃、星を拝むために山へ登った帰りに、出雲族龍神(オロチ)を祭った斎の木のワラヘビを切って回ったそうで、出雲族と幾度も衝突したといいます。特に斐伊川上流の村で多く、「徐福が来た時、宗教戦争があった」と伝えられているそうです。

龍神信仰の出雲族にこのようなオロチ神を惨殺する話などあるはずもなく、ヤマタノオロチ伝説はのちの時代に創作されたものです。でも出雲ではこの話を神楽で上演し続けているところがあるそうで、なんとも不思議な現象です。

八雲立つ出雲八重垣」の歌はスサノオのオロチ退治を前提とすれば「八雲断つ=出雲断つ」のほうが自然です。出雲八重垣は出雲王国の法律、出雲八重書きのこと? 妻籠というのが単に妻と籠るという意味なのか、何か裏の意味があるのでしょうか。柿本人麻呂の歌だとすれば、単純な解釈ですませるはずがないのでは。謎めいています。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、この和歌は出雲族が作ったものであり、妻籠=婦女暴行を禁止する法律を制定し、これが出雲八重書きの中でも特に良い法律であると喜んだ歌であるということです。つまり一夫多婦を禁じた一夫一婦の掟だと。ただし有力豪族は他国と同盟を結ぶために一夫多婦は許されたそうです。

最後に剣について。大蛇の尾から出てきた草薙剣クサナギノツルギ三種の神器のひとつです。別名を天叢雲剣アマノムラクモノツルギといいます。記紀ではヤマトタケルの話の中で名称が突然変わります。もとは天叢雲剣です。さらにヤマトタケルはイズモタケルを討つ直前に、斐伊川で剣をこっそり交換しています。これも意味深ですね。

出雲の伝承では海村雲が初代大和の大王に就任したお祝いとして、出雲王家が天叢雲剣を贈ったと伝えられています。(記紀では村雲は神武に変えられました。)海王朝が終わって磯城王朝以後はこの剣を尾張家が持ち、磯城ッ彦系(登美家)大王には渡さなかったそうで、そのため磯城王朝では曲玉の首飾りを王位継承のシンボルとしたと言われています(曲玉の原石の産地である出雲王国は、古来より曲玉の首飾りを王族や連合国豪族のシンボルとしていました)。天叢雲剣は現在、尾張家の建てた熱田神宮のご神体となっています。三種の神器がバラバラに保管されている理由のひとつが、ここにあるのかもしれませんね。

 

和国大乱(147~188)の経過を出雲の伝承をもとにして簡単にまとめておきます。年代はおよそということで記します。

150年 ヒボコの勢力が播磨へ侵攻

     大和の豪族同士の覇権争い始まる

160年 吉備のフトニ大王が出雲王国を攻撃(第1次出雲戦争)

165年 物部五瀬が東征を開始(第1次物部東征)

175年 物部勢の大和入り

183年 大彦が物部に敗れ大和から北へ退却

国史書による年代の正確さに驚きます。この大乱の後、和国の人々はともにヒミコを立てて王とした、とあります。

 

第9代大和の大王となったオオヒビ(第8代クニクル大王と物部の姫のもうけた御子)は物部勢と協調し、添上郡春日の宮で政治を行ったといいます。このクニクルとオオヒビの父子について、伝承の中に差異が見られます。

オオヒビは物部の血をもつというのは共通しているのですが、クニクルとクニアレ姫の御子であるとか、クニクルと物部の姫君の御子であるといいます。クニアレ姫は登美家出身なので、たぶんこれが間違いではないかと思います。そうだとすれば、クニクル大王はまずクニアレ姫との間に大彦とモモソ姫をもうけ、その後物部東征によって物部の2人の姫君を后とし、そのうちのひとりとの間にオオヒビをもうけ、他方の姫君との間に彦フツオシノマコトをもうけているようです。この彦フツオシノマコトが紀伊の高倉下の子孫である山下陰姫との間に武内大田根、いわゆる武内宿祢をもうけます。その息子たちがこの後大和を大きく動かしていきます。

 

出雲の伝承を調べるには大元出版からの書籍に限られますが、個人の出版社であるために編集や校正が大手の出版会社のようにはいかないのも無理はないと思われます。できるだけ斎木雲州氏の書籍を中心にしてまとめていますが、斎木氏の中でも年代や婚姻関係など統一されていない記述がいくつか見られます。また王家以外の出雲旧家の古老たちからも伝承を集めているために、書籍によってどうしてもバラつきが生まれます。今後そのあたりを検証する必要もあるかと思いますが、まずは出雲の伝承による歴史の大きな流れをつかみたいと思っていますので、ご了承ください。

 

 

夕占(ゆふけ)と母系家族制

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万葉の占いに夕占ゆふけというものがあります。

ゆふけ。なんとも儚く切ない響きをしています。どのようなものなのか、万葉集から見てみたいと思います。

 

☆言霊の 八十やその巷ちまたに 夕占問ふ 占正うらまさは告る 妹はあひ寄らむ

辻で夕占をしたところ「想う娘はあなたに寄ってくるだろう」とお告げがあった

☆夕占問ふ 我が袖におく 白露を 君に見せむと 取れば消につつ

☆八十のちまたに夕占にも卜うらにもぞ問ふ‥‥ 

 

「ちまた」というのは辻(交差点)のことで、岐、巷、衢などと書きます。夕占は夕方、家の門前や近くの辻で想い人のことや自分の運勢を占います。

占いには手順があって、最初に、

「ふなとさへ 夕占の神に 物問へば 道行く人よ 占正にせよ」と呪文を3回唱えます。そして道に境を作り、米を撒き、櫛の歯を3回鳴らした後、その境界の中に入ってきた通りすがりの人たちの話す言葉を聞いて吉凶を占います。

夕方というのは昼と夜の境の黄昏時であり、見える世界と見えない世界をつなぐそのひと時に、神の託宣を聞くことができると感じていたのかもしれません。夕占は室町時代以降は辻占つじうらと呼ばれるようになりました。やがて辻占煎餅というおみくじ入りのお菓子も現れます。今で言うフォーチュン・クッキーですね。

さて、大野晋氏の「日本語の起源」を読んでいるとき、驚きました。この夕占とそっくりな占いが南インドの古代タミル人の詩集に描かれているというのです。

村はずれの道に、米と花や水を撒いて、その中を通りすぎる人の言葉を聞いて吉凶を占います。恋人のことや戦争の成り行きを占うそうです。この占いの名前は「Viricci」で、神意をひらく、という意味ではないかと言われています。時間帯は夕方の場合もあります。呪文はないようです。

谷戸貞彦氏は「サルタ彦大神と竜」の中で、この夕占について触れておられます。要約します。

 

クナト王の妻、幸姫命は八岐姫ヤチマタヒメとも言われ、交差点を守る道の神とされている。平安期には都で道の神に食事を供える祭りが行われた。その祝詞は「大八岐に満つ岩むらの如く、さやります皇神すめがみ等の前に申さく、八岐彦・八岐姫・久那斗と御名は申して、底の国より荒び来む者に、守り奉り、斎いまつれと‥‥」とあり、「クナトの大神と八岐姫、サルタ彦大神が、塞がります皇神」だと表わしている。八岐での夕占の歌が万葉集にあるが、占いは次の文句を唱える。

「フナトの神、サヘの神、夕占の神に物問うならば、道行く人よ、卜いを正しく現せよ」と。この占いの神が八岐姫という。

 

出雲の伝承は、呪文の最初の「ふなとさへ」を「フナトの神、サヘの神」だと説明しています。フナト神はクナト大神であり、サヘは境サエの神(幸の神)に同じです。

谷戸氏は古代タミルの詩集については触れておられませんが、これほどまでに似た占いが両国に存在する不思議さに、感動さえ覚えました。国を超え、夕暮れの光の中でじっと息をひそめて声を待つ人々の心を、とても近くに感じます。

日本では文字として記された万葉集以降の習慣とされますが、出雲族がインドより伝えたのだとすれば、それよりも遥か昔から続いていた可能性も。

私たちはこんなに文明が発達した今もなお、恋や人生を繰り返し占います。なんだか人ってあんまり変わらないのかもしれませんね。

 

 

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待つ女

話は変わりますが、80年代の大ヒット曲、あみんの「待つわ」。このタイトルだけでメロディーが蘇る方もいらっしゃるのでは。

♫ わたし待つわ いつまでも待つわ たとえあなたが振り向いてくれなくても 待つわ いつまでも待つわ‥‥

昭和の終わり頃までは、こういう歌が支持されていましたね。平成になると恋愛の空気感はガラリと変わりますが、この「待つわ」という感覚、万葉集の頃からずっと続いていたのです。

☆君待つと 我が恋ひをれば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

あなたを待って恋しく想っていたら、私の家の戸のすだれが動きました。‥‥秋風が吹いています。(額田王

☆我が背子を 今か今かと出でみれば 沫雪降れり 庭もほどろに

今日は私のいい人が来る日。今か今かとずっと待っていたけれど、ついに我慢ができず庭に飛び出しました。そこにあなたの姿はなく、淡雪が降っていました。

愛しい人を家で待ち続ける姿が浮かんできます。これは現代の感覚で読めば恋人同士の歌ですが、夫婦の歌であるようです。母系家族制ならではの、訪ねてくる夫を妻が自分の家で待つという情景です。

古代のこの婚姻制度を知らなければ、古代を理解することはできないと谷戸氏は言われます。Sorafullも母系家族というものをなんとなくしか理解していなかったので、ここで少し考えてみたいと思います。

 

母系家族制とは 家の跡継ぎが娘、財産もその娘が所有する権利をもつものです。女性が家の主で、刀自とじと呼びました。刀は戸から変わり、自は主と同じ意味です。戸主ですね。紀伊の名草戸畔とべのような女首長は、家だけでなく村~部族全体をまとめる極めて頼もしい存在だったのでしょう。

現代は嫁取り婚ですが、当時は妻問い婚といって夫が妻の家へ通う通い婚か、妻の家に同居する場合がほとんどで、現代のように妻が夫の家に住むというのは、妻のほうがよほど身分の低い場合に限られたといいます。嫁姑問題はなかったということです。

通い婚では、夫は夜道の明るい月夜に実家から妻の家へ行って朝帰りをします(呼合よばい)。妻は月の様子を見ながら夫を待ちます。これだけで歌が詠まれそうですね。

父は他家の人であり、夜だけ訪れる人です。子は母の家で育てられます。集落全体で子を育てるともいえます。

男性は実家の離れで男同士で住み、姉妹のいる実家のために働き、財産の管理運営をします。女性は子を産むことが優先され、食事も男性より良い物を食べていました。なので男性のように逞しかったそうです。三国志魏書にも、和国では父子、男女の差別なしと書かれています。父系家族の中国からは考えられない様子なのでしょう。

夫は子孫を残すために必要な存在なので、一夫多妻になるのは自然かもしれません(多夫多妻もあり)。たとえば縄文時代の平均寿命は14歳です。乳児死亡率の高さの反映でしょう。子どもが生まれ育つということを何より優先しなければ種が絶えるわけですから、日本だけでなく人類は女性を中心とした母系家族から始まっていると言われます。

※ここでは母系家族とは女性に権力があるという意味ではなく、子は母のもとで暮らすことを基本とした社会を指しています。

余談ですが、チンパンジーボノボは同じチンパンジー族で、ヒトに最も近いとされています。ヒトがチンパンジーと分岐したのが500万年前、チンパンジーボノボの分岐が100~150万年前。チンパンジーの雄は縄張りの争いが激しく、別の群れの雄の個体を見つけると追いかけて殺すそうです。ヒトとチンパンジーのDNAの違いはわずか1.6%です。この数字よりも実際には差はないらしく、DNAのスイッチがONかOFFかくらいの違いともいわれます。一方ボノボは同種の争いはなく仲間を殺しません。大変平和的な種だそうです。そのボノボは雌優位の社会なのです。チンパンジーは父系集団です。つまり、ヒトにはどちらの性質も在り、もしかするとDNAのスイッチをONにするかOFFにするかだけで、社会全体が変わる可能性があるのかもしれません。男性性と女性性のバランスを取り戻す道です。

 

妻問い婚では夫の足が遠のけばそれで離縁となります。もちろんその逆もあり。財産も絡まず、嫁姑もなく、どちらかが責任を負うということさえなく、ただ互いの惹かれ合う気持ちによって関係を保つことになるのですから、限りなく純粋に男と女であるわけですよね。反面不安定な関係だからこそ、想いが凝縮し鮮烈な和歌を生むのかもしれません。

また古代は性に対してとてもおおらかであったようで、隠すことなく日常のこととしてオープンだったそうです。和歌も隠語を通してかなり踏み込んだやりとりをしていたとか。女性も歌垣(集団の自由恋活)に参加することが許されていて、うまくいけば臨時の父親の子を得ることができます。私生児という概念はなく、母の実家で大切に育てられます。より多くの子を産むのには適した環境です。農村の家庭で母系家族制が江戸時代まで続いたのは、こういった仕組みもあったようです。

古代末期には豪族たちの間で父系家族制が取り入れられていきます。そして飛鳥時代になると、それまでの豪族たちによる土地と民の支配ではなく、国家としての体制が整い始めます。土地はすべて国の所有となり公地公民制が始まると、6歳以上の者に国が土地を与えるようになりました。割合は女子が男子の3分の2です。税制も始まります。律令国家成立によって、家を守るためには男性の力に頼る方向へと進み始めたのではないでしょうか。

土地をより多く持つ者、商売や物作りで稼ぐ者、そして戦争で財を成していく者。そういった男性たちに女性は従い、室町時代には嫁取り婚へと移行していきます。ですが税が課せられる農漁村は貧しく、家という小さな単位ではなく共同体として生き抜くほかなく、近世まで母系家族制が続いたのかもしれませんね。

 

 

お正月の源流~日本と古代インドの絆

あけましておめでとうございます。

源流なびのSorafullです。

このブログを読んで下さっている方々に心より感謝し、今年も源流探求に邁進していく所存であります!本年もよろしくお願いいたします。

 

  

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 さて今年初めのテーマはお正月です。毎年当たり前のように同じ儀式を繰り返すため、その源流も「なんとなく神道」ぐらいにしか考えたことはなかったのですが、出雲王国に触れたことがきっかけで、とても興味深い繋がりを知ることができました。その一部をご紹介します。

今回は出雲の伝承を離れて、日本語の起源を探求された大野晋すすむの研究をみていこうと思います。大野氏は言語から日本の成り立ちを探られたので、出雲王朝については触れていません。

大野氏の説の概略ですが、日本にはかなり古い時代から南方系の音韻組織をもったなんらかの言語があり、そこへ縄文晩期以降にタミル語(古代インド語であるドラビダ語の中で最古の言語)が重なって、文法と単語が受け入れられていったという説を唱えられました。インドとどのように関係を持ったのかはわからないけれど、生活の根源に関わる多くのものが、同じ時代に日本とインドに平行的に存在し、特に日本人の精神生活の基礎となる言葉がタミル語と対応していることを重視されています。

※3500年ほど前、アーリア人の侵攻によってインドの南方に逃れたドラビダ人(インダス文明を築いた民族)をタミル人と呼ぶようになりました。

そもそも元旦とは、旧暦では1月最初の満月の日を指し、今では1月15日の小正月に当たります。つまり昔は満月の日を月初めの1日としていたわけです。なので、今日は元旦ですが本来はなんでもない日です。ちょっと残念。

それでは現在南インドでみられる小正月の風習と、日本においては現在と過去のものを含め、お正月と小正月にみられる風習を通して、ふたつの国の共通性をみていこうと思います。

ちなみに南インドでは現在の1月1日は何もせず、15日を挟んだ3日間で豊作祈願を行います。日本では太陽暦による大正月(現代の元旦)は歳神様を迎える行事であり、小正月は豊作祈願や家庭の幸いを願う行事が行われます。大正月で忙しかった女性をねぎらう意味で女正月ともいいますね。

 

 ⑴Pongalとホンガホンガ

南インド

15日が近づくと「Happy Pongal!(新年おめでとう)」の横幕が張られます。このPongalの意味は「新年」や「おいしく景気よく炊いたご飯またはお粥」であり、それを神に捧げる新年の太陽祭です。Pongalのもととなったタミル語のPongu(動詞形)の意味には「沸き立つ、増える、富んでいる、実りが多い」などがあります。豊穣祈願ですね。

地方によってそれぞれの流儀はあるようですが、大野氏の現地での体験なども含めて紹介します。

15日の夜、

「ポンガローポンガル! バターポンガル! お砂糖ポンガル! 白いもの(米)ポンガル!」

と大声で叫びながら、子どもを先頭に家族が列になって家の周りを廻ります。

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Wikipedia掲載のPongalのイラスト 

 

日本

「豆ぬがもホンガホンガ、蕎麦ぬがもホンガホンガ、豆腐かすもホンガホンガ‥‥」

と言いながら小正月の晩、大豆の皮や蕎麦の殻などを器に入れて、家の周りを撒いて歩く行事が東北にあり、柳田國男は100年以前から続いていると記しています。ホンガホンガの意味は唱える人も解っていないそうです。地方によって「ホンガホガ」や「ホガホガ」と書かれているようですが、東北弁では「ガ」は「ンガ」と発音されるので同じ音のようです。「ホンガラホ」というところもあり、これは「Pongalo ポンガロー」に対応しています。※日本語のホの音は大昔はpoの音でした。

 

かなり項目が多いので、ここからは大胆に簡略化します。大野晋著「弥生文明と南インド」に大変詳しく書かれています。

 

⑵古い物を集めて焼く(トンド焼き)

南インド

使い古したものを焼く。

日本

 トンド、ドンド、サギチョウなどと呼ばれ、大正月で使った門松、しめ縄、書き初めなどすでに使った古い物を焼く。(地域によってはサイノカミ、サエノカミの祭りとしているところもあるようです)

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⑶小屋を焼く

南インド

スリランカでは牛小屋や柵を焼く。

日本

大正月に子どもたちが作った正月小屋を焼く。古い小屋を焼いて新しく作る。

 

⑷しめ縄を張る

南インド

縄にインドセンダンの葉やバナナ、マンゴーなどの葉を吊す。玄関や村の入り口に張る。

日本

しめ縄を張り、紙を垂らす。

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⑸門松を立てる

南インド

バナナやココナツの木を切って門の両脇に立てる。

日本

松、榊、杉などを立てていたが、のちに松に竹を添えるようになった。

 

若水を汲む

南インド

先に井戸を洗い、新年の朝、新しい壺で水を汲み、花を入れる。「新年の水」という言葉がある。

日本

元旦の朝、初めて汲む水を若水という。井戸に餅を供え、桶に花輪をつける。

 

⑺お粥を炊く

南インド

新年の行事の中心となるもの。大昔は粟穂をそのままか、お粥を炊いて神に供えた。その後赤米のお粥を炊くようになった。今は赤米は作られないので白米。豆や砂糖を入れて炊いた記録がある。

日本

あずき粥を炊く。味付けは地方によって砂糖や塩。

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⑻カラスへのお供え

南インド

炊きあがったお粥をまずはカラスに供える。その時「コー、コー」とカラスを呼ぶ。これはカラスが食糧をもたらしてくれるという伝承に基づく。

日本

青森では「ホー、ホ-」「ポーポポー」と呼びながらカラスに餅を投げ与える。カラス勧請と呼ばれる。餅を食べてくれるかどうかで収穫の吉凶を占った。「シナーイ」「シネー」と呼ぶ地域もある。シナイとはタミル語の粟に対応する。粟穂と呼ばれる小正月の飾り物があり、古くは米が作られる前の貴重な食糧だったからと考えられる。

 

⑼餅を神に供える

南インド

インド本土では取れたてのお米を炊いて神に供えるが、スリランカのタミル人の供え物のひとつが、ココナツで作った丸いお餅のようなものをベテルの葉の上に乗せ、鏡餅と同じように山の形に重ね、頂上に柑橘類や花を置く。他にモタカムと呼ぶ米粉を球形に固めたお菓子のお供えがあり、これは平安時代のモチ、モチヒ(餅)に当たる。

日本

丸い餅を裏白という葉の上に2つ3つ重ねて神に供える。頂上に橙を置く。

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三河万歳が廻る

インド

神の使者という少年が家々を廻り、幸福をもたらす祝言を述べ、鐘や太鼓を鳴らして歌い、小銭をもらう。

日本

烏帽子に大紋を着た太夫と、小鼓や胡弓を弾く才蔵という2人組(三河万歳、大和万歳)が家々を廻り、おめでたい言葉を述べて小銭をもらう。

 

⑾成り木責め

南インド日本

果樹に向かった2人が「成るか成らぬか」「成らぬと切るぞ」と責める。一方が「成ります、成ります」と答える。日本ではこの時小豆粥を供える地方もある。

ただしヨーロッパにも同じような行事があったそう。

 

⑿墓参り寺参り

南インド

15日までに故郷に帰り先祖にお粥を供える。

日本

実家に集まって墓参りをする。

 

⒀お仕着せを配る

南インド

従業員たちに新しい服を配る。彼らはその服に着替えて仕事をしたり遊びに行く。

日本

16日は「藪入り」と言って奉公人を休ませ、主人は新しい衣類一式を配って小遣いも与え、実家に帰らせたり遊びに行かせる。

 

⒁踊り

南インド

16日には女性100人くらいが輪になって歌い踊る。

日本

16日には女性が輪になって踊る。700年頃には男女一緒だったのが別々となり14日、16日に分けて踊ったらしい。のちに男性の踊りは途絶えた。

 

⒂牛馬への祭

南インド日本

家畜の多産を祈ってご馳走を与える。

 

このように共通項は驚くほどに多いのですが、その中でも特に豊作儀礼が共通していることは、穀物、米の起源が同一であることを示す参考になるのではないか、と大野氏は述べています。言語から見てもコメ、アハ、ハタケ、タンボ、モチ、ヌカなど農耕の基礎となる言葉が共通であることは、日本に最初にこれらの文化が入ってきた時に言葉とともに伝わったとみていいのでは思います。

 

最後に出雲の伝承から少し。

ヤマト葛城の高鴨神社の近くに葛城御歳神社があり、ここは正月祭りの神さま、歳神さまが社の名前になっていて、高照姫が祭られています(高照姫はホアカリ(徐福)の后です)。高照姫の御魂は出雲に里帰りして、出雲大社の裏手へ鎮座しました。大穴持御子おおなもちみこ神社といいますが、通称は御歳社みとしのやしろというそうです。お正月には参拝客で賑わうとか。ということは歳神さまとは高照姫なのでしょうか。

【2019年9月追記】富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、高照姫の息子、五十猛は歳神の信者となり、成人すると大年彦と名乗ったそうです。当時住んでいた出雲の大屋町には、 後に大年神社が建てられました。

お正月の飾り物はすべて、歳神さまをお迎えしお祀りするために供えているといいます。歳神さまは元旦の日の出とともに現れるともいわれます(太陽神)。そしてその年の幸福、幸運を運んできてくれます。豊作の守り神であり祖霊でもあります。となると、幸の神の象徴として高照姫が祀られているように思えてきますね。なんだかとてもありがたい、あったかい気持ちになってきます。

今年も皆さまのもとへたくさんの幸いが届きますように。

 

★2018年1月5日改訂(写真追加)

 

 

第1次物部東征~熊野権現vs名草戸畔

古事記による初代神武天皇の東征ルート

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出雲伝承による第1次物部東征ルート

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徐福の北九州への渡来後、次男ヒコホホデミとその子孫たちによって物部王国が築かれました。ヒコナギサタケ(ウガヤフキアエズ)王の御子、五瀬イツセはヤマトへの遷都のチャンスを窺っていました。やがてヒボコ勢の播磨侵攻、続いて吉備による第1次出雲戦争、いわゆる和国大乱に突入し、それを見計らって165年、五瀬は東征を開始します。

有明海を出航するとまず肥後国の球磨クマ川流域で若い兵士たち(久米クメの子)を集めました。次に薩摩半島の笠沙の入り江に停まり、薩摩隼人を兵士として集めます。

この笠沙の近くに阿多という地があります。コノハナサクヤ姫の別名が阿多津姫であり、阿多の姫ということです。この阿多津姫の父は古事記では大山津見とされており、出雲のクナト王のことでしたね。

また出雲王家の分家である宗像の始祖は阿多片隅アタカタスです。阿多の娘を娶ったか何かしらの関係はありそうです。宗像の娘といえばかの三女神です。古事記では阿多津姫がニニギ(ニギハヤヒのこと)との息子、火照命(海幸彦)と火遠命(山幸彦)を生みます。ニギハヤヒ(徐福)の后となった市杵島姫と重なります。

 

海幸彦山幸彦

古事記では山幸彦が兄の海幸彦に勝ちます。物部と海部(尾張)は異母兄弟であり、物部東征によって弟が兄に勝つという史実を例えているようです。

弟の山幸彦=九州の物部=徐福→ホホデミの子孫

兄の海幸彦=ヤマトの海部、尾張=徐福→五十猛の子孫

山幸彦は竜宮で豊玉姫と結ばれヒコナギサタケウガヤフキアエズをもうけます。この出産時に豊玉姫はワニの姿に変わります。これは出雲族の娘であることを示しているようです。ヒコナギサタケは豊玉姫の妹、玉依姫を娶って五瀬やイワレヒコ(神武)をもうけます。

実際の初代ヤマト大王は海村雲で、后は事代主の娘のタタラ五十鈴姫。その御子の后となるのがタタラ五十鈴姫の妹、五十鈴依姫。ここもよく似ていますね。

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東征の航路

記紀では神武東征は瀬戸内海を通りますが、そこは吉備国支配下にあって実際にはリスクが高すぎます。瀬戸内海を通ったのは第2次物部東征だと伝承は伝えています。記紀では二度の東征をひとつにまとめて時代も変えて描かれていると。

出雲の伝承です。五瀬の率いる大船団は笠沙の岬をまわると、四国西南端の足摺岬を通り過ぎ土佐国の南岸を進みます。土佐湾で一度休憩するため川を遡って川岸でしばらく過ごしました。そのあたりには物部という地名がついて、川の名前も物部川となりました。

物部王国のシンボルは銅矛ですが、戦いながら移住するには大きすぎて不便なために銅鏡に変更します。土佐に移り住んだ人々の村が物部川のすぐ東にあって、香我美かがみという地名がついています。

五瀬の船団は四国東岸を北上し紀ノ川河口からヤマトへ向かって遡ろうとします。

日本書紀を要約します。五瀬たちは河内の白肩津から生駒山を越えようとしたところでナガスネヒコと合戦となり、五瀬に矢が当たります。物部軍は引き返し、大阪の茅渟ちぬの海に出てから紀の国に入ります。五瀬は竃山で亡くなり、そこに埋葬されました。軍は名草村に着いて、そこの女賊、名草戸ナグサトベを殺します。(戸畔トベとは女村長です)そこから海路で熊野へ進軍します。

古事記は名草戸畔のことには触れていません。

 

再び出雲の伝承です。物部軍は紀ノ川河口の左岸から上陸し、近くの名草山に登ろうとした。すると名草戸畔の軍勢によって毒矢を放たれ、五瀬の肘と脛に当たった。五瀬は亡くなり、近くの竃山に埋葬された。数日後、紀ノ川対岸にヤマト王国の大軍が現れた。五瀬に代わって指揮官となった弟は船に戻って移動することを決断。南の潮岬を回って熊野川を遡った。そして熊野川の中州に住んだ。敵のゲリラ攻撃を避けるためには見晴らしのいい中州が適していた。そこに社をたて、五瀬を祀った。のちの熊野本宮であり、熊野権現とは五瀬命のことである。

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大斎原おおゆのはらと呼ばれるところが、旧跡地です。昔の地形とはかなり違うようですが、名残はみえますね。明治の洪水のあと、社は中州から山中に移されました。中州の中に社を建てるのは、道教の「蓬莱島の聖地」を意味しています。丹後海部氏の竹野神社や出雲の海童神社にもみられます。

物部勢力はその後熊野の各地に拡散して住みました。のちに熊野国造となります。

また、旧事本紀尾張家の系図には6世建田背が名草姫を后に迎えたと書かれています。出雲の登美家の系図には奇日方の4世トヨミケヌシが名草姫を后としています。名草戸畔や名草姫は世襲名かもしれませんね。尾張家や登美家が后に迎えるほどの勢力を持っていたのでしょう。

 

斎木氏が物部五瀬の直系子孫の方と直接話をされています。

物部五瀬の子孫の伝承です。長く竃山神社の社家であったが、今は氏子となった。五瀬は東征の最高指揮者であったが、怪我を負ってここで亡くなり埋葬され、息子たちが墓を守るためにここに残った。少人数だったため、敵は攻撃をやめた。敵とは高倉下の子孫の珍彦ウズヒコである。物部東征は瀬戸内海を通っていない。

高倉下の子孫は紀伊の国造家になった。そして日前神宮を建てた。紀伊家と五瀬家は婚姻関係を密に結んだ。五瀬家は日前神宮の横に国懸神宮を建てて五瀬命を祀った。

 

次は名草地方の伝承です。なかひらまい著「名草戸畔、古代紀国の女王伝説」にかなり古い時代からの名草の人々の伝承が紹介されています。その中心となるのは小野田口伝であり、あのルパング島から戦後30年たって帰還された小野田寛郎氏の家に伝わる口伝なのです。小野田氏の実家は名草戸畔の遺体の一部(頭部)を祀る宇賀部おこべ神社で、小野田家は名草戸畔の子孫であるようです。なかひら氏は直接小野田氏にインタビューしています。

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全体にぼやけていて申し訳ないですが、東西に流れるのが紀ノ川です。ピンクの囲みは出雲族の居住区を、黄色の囲みは名草の居住区を示しています。「古代紀国の女王伝説」を参考にしています。

 

小野田口伝の抜粋です。

名草の祖先は何千年も前、宮崎から大分のリアス式海岸に住んで半農半漁の暮らしをしていたが、やがて人口が増えたため、よく似た地形(前の海で魚が捕れ、後ろの田で米が採れるところ)の和歌山に移住した。神武がやって来るよりずっと前のこと。紀ノ川流域にキビが生えていたのを全部田んぼになおした。

神武軍との戦いについては、ニギハヤヒナガスネヒコを斬って降伏したからこちらも降伏したことになった。五瀬はナガスネヒコ軍の毒矢に当たって亡くなり竃山に葬られたが、名草戸畔も戦死した。けれど神武軍は名草軍に撃退されて、紀ノ川を上れずに仕方なく海路で熊野へ行った。その後はヤタガラスが案内した。名草の人たちは負けたつもりはない。降伏したのはナガスネヒコだ。

戦の後、国懸クニカカスと日前ニチゼンが統治しにきたが、名草は負けた意識がなかったので反抗し、うまく治まらなかった。国懸はヤマトへ帰り、紀氏である日前が残ってまとめた。権威を振り回さないから土地の人とうまくやっていけた。

伊太祁曽いたきそ神社は植林を教えた神様。大きい太い木を増やした初めの人、という意味がある。木曽の国はここから植林技術を移した。

 

なかひら氏も指摘されていますが、宮崎〜大分の海岸から和歌山へ移住してきたということから、6,300年前の鬼界カルデラ大噴火の影響が考えられます。南九州には1.2万年前の集落である栫ノ原遺跡や、9500年前の最古の定住型遺跡の上野原遺跡にみられる相当進んだ文化をもった人たちが存在したことがわかっています。彼らはスンダランドから海を渡って北上してきた半農半漁の民だったようです。下記のブログを参考にしてください。

 

 

この大噴火によって人々は南九州から避難を余儀なくされるのですが、黒潮の流れに沿って高知、和歌山、三重、静岡、関東へと移住していった形跡がみられるのです。名草の人々の移住が噴火直後であれば伝承に出てきてもおかしくないので、いったん大分あたりへ避難してからのちのことかもしれません。

また大分の宇佐国造家に伝わる口伝を宇佐公康氏が「宇佐家伝承、古伝が語る古代史」として出版されていて、その中で、

宇佐国造家の口伝によると、木造建築の文化は、古の日子国(日向王朝)から国東半島におよんで木国の文化となり、さらに、その文化は近畿地方に移入されて紀国となったといわれている。」

とあります。どれも名草の人たちと関係があるかどうかは推測でしかありませんが、九州の東岸から和歌山への人や文化の流れはあったようですね。

※ウサ族は日本最古の先住民族として9千年前から山城の稲荷山を根拠地にして原始生活を営んでいたそうですが、8500年前にシベリア方面からサルタ族が漂着したためウサ族を圧迫し、いくつもの集団に分かれて全国に散らばったといいます。出雲族は3500年前に渡来したということなので、年代については大きく差があります。

 

紀ノ川の地図に記したように、出雲族は紀ノ川周辺に住んでいたようで、出雲の伝承にも紀国へ移住した人たちがいると言われています。クナト王を表す船戸という地名もみられます。大国主を祀る神社もとても多いようです。ここでも出雲族は先住民たちへ製鉄技術など新しい文化を伝えながら融合していったのでしょう。

その後、徐福の渡来によって息子の五十猛以降、植林とともに造船の技術も伝わりました。五十猛が祭神の伊太祁曽神社は土地の人からとても親しまれていて、紀氏も五十猛の子孫です。名草は出雲族や秦族たちとうまく融合していったようです。そのおかげで神武軍を撃退するほどの勢力となっていたのかもしれないと、なかひら氏も推測されています。

そして名草の地と民を守った名草姫を、今なお人々は大切にしているのです。

 

五十猛については下のブログも参考にしてください。 

 

 

欠史7代とナガスネ彦とアラハバキ

ヤマトの大王の地位を失ったフトニ王は吉備国王となったのち、大山だいせんの西北にある孝霊山の麓の宮(現高杉神社)で晩年を過ごします。この孝霊山という名はフトニ王の諡いみな(死後の贈り名)です。ヤマトから細姫と福姫が一緒に来ましたが、フトニ王は現地の若く美しい娘を寵愛します。后の二人はそれぞれ息子たちのもとへ転居していきます。王は亡くなった後、楽楽福ささふく神社に祀られ、また高杉神社にはフトニ王、細姫、福姫を祀りました。ところがその後天災が相次ぎ、この地の人々は后たちの祟りだと思い、後妻の村娘役を叩く「後妻うわなり打ち」という神事を行います。すると天災がおさまったので、今でもこの神事が続けられているそうです。なんとも怖い話です…

この話が記紀にも出てきます。神武がヤマト入りをしてオトウカシが宴を開いたときの歌で、神武軍の勝利を喜ぶ歌なのですが、途中から後妻を寵愛する内容に唐突に変わります。

要約すると「コナミ(前妻)が食事を望めば身のないスジ肉を、ウワナリ(後妻)が食事を望めば身のたくさんついたうまい肉を」といったよくわからない内容になっています。どういう意味だろうと思っていましたが、斎木氏によると、第1次物部東征がフトニ王の時期であることを示すために、わざと挿入したのではないかということです。確かに吉備国は出雲戦争では休戦に入ったとはいえ、領土を大きく拡大したのちにフトニ王は隠居し愛人と楽しく暮らしたのですものね。勝利の歌といえばそうかもしれません。それにしてもこんな神事が残るなんて、老齢のフトニ王の愛した村娘、どんな女性だったのでしょうか。

 

記紀では欠史7代といって、3代玉手見タマテミ大王から9代大日々オオヒビ大王までの記述は系譜のみとなっています。出雲の伝承では実力があった大王は海王朝の初代村雲、2代沼川耳、3代磯城王朝の玉手見までで、それ以降は大王家とは名ばかりの、ヤマト地方の3割だけを支配する豪族となり、登美家、尾張家(海部家を含む)の3つの豪族の覇権争いが始まったそうです。

※この時代の大王は天皇とは違います。天皇は日本全体を治めますが、大王は豪族たちをまとめるリーダーのようなものです。

5代カエシネ大王(孝昭)尾張家の姫を后にしてクニオシヒト(孝安)をもうけます。実はこのクニオシヒトとは後漢書東夷伝に記された「帥升」のことだといいます。スイショウと訳してあるのに馴染んでいますが、斎木氏はクニオシヒトの中のアクセントの強い「シヒ」をとって「帥飛」としたのが、草書の字を見間違えて「帥升」と書いたのだろうと推測されています。中国では和名を短く書く習慣があるとのことです。

安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らは奴隷160人を献上し、皇帝の謁見を願ってきた。

奴隷のことを当時は生口いくちといいました。瀬戸内海の生口島安芸国)から若者を捕虜にして連れて行った事件があり、島の名前がついたといいます。

この時、大王自身が後漢に行ったことが後になって問題となります。中国では属国の王や高官の役職のしるしは、本人に直接渡す決まりがあったため、大王が出かけて行ったのですが、記紀を作成した奈良時代ではそれは大王の恥とされ、このことを誤魔化す記事が日本書紀に書かれました。6代大王の名をヤマトタラシ彦クニオシヒト、その兄をアマタラシ彦クニオシヒトとしました。この兄は和珥ワニ臣の始祖であると書かれています。古事記ではクニオシヒトはひとりです。出雲王家ではこの2つの名前は同一人物だと伝承されています。また和珥臣は登美家の分家だそうです。

もちろん日本書紀後漢へ行ったことは書かれてはいませんが、あえて兄弟ということを付け足したのには何か意味がありそうですね。

次が吉備王となった7代フトニ大王(孝霊)です。フトニ王が吉備へ移った後、息子のひとりが8代大王クニクル(孝元)となります。クニクルの后、クニアレ姫は登美家の姫です。ふたりの間に生まれたのが三国志魏書に記された卑弥呼のひとりである百襲モモソと、記紀ニギハヤヒに殺されたとする長髄彦ナガスネヒコ古事記では登美に住むナガスネヒコ(トミビコ)と記されています。大彦のことです。

9代大王となるのはクニクルの別の息子オオヒビ(開化)です。オオヒビは物部と妥協して物部の姫2人を后としました。

これが伝承による、記紀に詳細を記されなかった欠史7代の概略です。描かれないということは、都合が悪いからです。

 

物部東征に入る前に、大彦のことをもう少し書いておきます。

大彦は奈良山の北側、木津の曽根山に宮を構え、オオヒビに次ぐ勢力を持っていました。物部嫌いで有名だったようです。のちに登美家の領地である摂津三島に移ります。

斎木氏が出雲の粟島の近くに住む大彦の子孫から話を聞いておられます。事代主の幽閉された粟島のすぐそばに安倍という地名があって、そこには安倍さんが多く住んでいたそうです。前九年の役(平安後期の源頼義による蝦夷安倍氏征伐)で敗れた安倍一族が、先祖の地へ逃れて来たといいます。子孫の方の話をまとめます。

〈大彦は事代主の血を引いている。大彦とは大兄おおえに相当する言葉である。個人名は中曽根彦で、ナカは龍神(ナーガ)、ソネヒコはスネークに通じる。記紀では長髄彦と書かれた。2世紀末の指導者だったが、紀元前2世紀の豪族に変えられ、初代大王(神武)の敵にされた。大彦は安倍家の始祖である。異民族でもないのに蝦夷とされた。〉

記紀ではモモソ姫も大彦も他の親から生まれたことになっていますが、出雲の伝承によると、物部との戦で苦戦する大彦が出雲の富王家のもとを訪れ助けを求めた時、「自分は磯城王朝クニクル大王と登美家クニアレ姫の息子である」と述べたと伝えられています。大彦は東出雲王家の血筋であることに誇りを持っていたらしく、トミ彦と名乗ったこともあったそうで、息子の名は事代主の后であるヌナカワ姫にちなんでヌナカワワケとつけたほどでした。

富王家は大彦の申し出に対し、軍を分散させるわけにはいかないと断ります。日本海方面の同盟国を頼るようにと助言したそうです。そしてトミ家の名を使わないように求めました。すると大彦は摂津三島の阿武山にちなんで安倍家と名乗ると答えたそうです。大彦はまず琵琶湖東南岸に移住し、銅鐸祭祀を広めました。物部がヤマトに侵攻すると銅鐸を壊してまわったので、人々は地下に隠し銅鐸祭祀は終わりを迎えました。それを大彦はとても悔しがり、近江で復活させたのです。明治から昭和にかけて野洲市の大岩山古墳から24口の銅鐸が発掘され、加茂岩倉遺跡に次ぐ多さであり、日本最大となる高さ135㎝のものも出土しています。

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大岩山古墳出土の銅鐸

※出雲では音を「聞く銅鐸」でしたがヤマトでは中~大型の「見る銅鐸」に変化したようです。

その後追ってきた物部軍と野洲川で戦いますが敗北、北陸へ逃げることになります。大彦は北陸方面を通って北へ向かいます。北陸に残った子孫には、若狭国造となったかしわでの、高志国造となった道公みちのきみがいます。息子ヌナカワワケは伊賀や伊勢を通って東海に勢力を伸ばしました。駿河の安部川付近に都を造ります。伊勢に残った子孫は伊賀臣に。近江に残った子孫は佐々木氏となりました。大彦は子孫が多いですね。幸の神のサルタ彦が重なります。

現在の安倍首相の父方のルーツは、前九年の役で敗れた安倍宗任だそうですので、現政権は事代主ということになりますね。

 

安倍一族は自分たちの勢力地をクナトの国と呼びました。クナガ国、クナ国も同じです。三国志魏書に、卑弥呼の女王国に属さない狗奴クナ国には狗古智卑狗クコチヒコという官がいると記されています。新撰姓氏録によると久々智ククチは安倍朝臣と同祖で大彦の後であるとされています。ですが魏書では狗奴国は女王国の南に位置しているというので、魏書をそのまま読むことではつながりません。

 

さらに物部は駿河にも追いかけてきたので、安倍勢は東北へ逃れ、北上川方面に日高見国を造りました。谷戸貞彦氏の「サルタ彦大神と竜」によると、日高見国はのちに荒覇吐アラハバキ王国と呼ばれたそうです。

Wikipediaの情報ですが、安倍首相の父、晋太郎氏が祖先を調べたところ、青森県の石塔山荒覇吐神社に宗任のお墓があることが分かったそうです。大山祇神社ともいうようで、出雲のクナト王ですね。

【2019.6.2 訂正】安倍宗任のお墓は筑前大島にあります。

 

アラハバキとは出雲の龍神木信仰を言います。龍神木は斎の木、波波木、宝木ともいいます。(ハハは蛇の古語。波波木は伯耆国の語源です)また神様には恵みの力である幸魂さきみたまと悪を懲らしめる荒魂あらみたまがあり、サルタ彦神は強面で道を守ったので荒神と呼ばれました。龍神荒神といわれます。荒神と波波木でアラハバキです。のちの時代ですが修験道の開祖、役えんの行者は出雲の血筋の人で、幸の神三神を三宝荒神に変えて祀ったと言われています。

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東出雲の阿太加夜神社の龍神木 

 

龍蛇神について詳しく書いています。
somosora.hateblo.jp

 

 ※補足ですが、大彦は鏡を物部の道教的道具として嫌っていたので、東海北陸には鏡が広まりませんでした。

 

 

和国大乱~日矛の渡来と吉備王国

中国の史書にみられる「倭」という漢字は蔑字なので、ここではと書きますが、史書に記された文章の紹介ではそのまま倭という字を使います。卑弥呼なども同様とします。

 

 三国志魏書の倭人によると、

その国(倭国)も、もとは男を王としていた。男が王であったのは7、80年間であったが、国が乱れて攻め合いが何年も続いた。そこで1人の女性を選んで王とし卑弥呼と名付けた。神霊に通じた巫女で、神託により国を治め人々を信服させた。

後漢書東夷伝では、

桓帝霊帝の間(147~188年)、倭国は大いに乱れ、各国が互いに攻め合って、何年もの間統一した君主がいなかった。(略)倭国の人々はともに卑弥呼を立てて王とした。

と和国大乱について記されています。

出雲伝承では男が王であったと書かれたのは海王朝の頃のことで、その後磯城王朝になると豪族同士の覇権争いが始まったといわれます。ヒメ・ヒコ制(王と巫女による政治)も強固になっていき、ここから日本は絶え間ない戦の時代へ突入しました。

おおまかですが、徐福渡来からの2千年は戦いの時代でした。母系家族は庶民の中では長く続きますが、豪族たちは父系家族制へと変わります。3500年前、ドラビダ人が日本列島へ避難してきた時も、父系家族であるアーリア人に母系家族のドラビダ人が太刀打ちできなかったことが要因だったといいます。戦いを前提とすると父系家族の強さが必要なのでしょう。「勝つ」ことが世の価値観の優位である限り、男性性の強さに従うことになるのかもしれません。

現在の世界の状況を見て、さあ、戦いを止めましょうと呼びかけるだけでは無理があります。男性性に偏りすぎた価値観が女性性とのバランスを取り戻していく道が必要になってくるのではないかな、と思います。長く続いた戦いの歴史の余韻のせいか、無意識に男性に力を明け渡す女性の習慣に気づくことも大切だと思います。

と、話があらぬ方向へいってしまいそうですが、今の世の中がどうしてこうなっちゃったのか、ということを無意識レベルまで探るつもりで見ていかないと、どんな手立ても対処療法で終わってしまうなと思うのです。

陰極まれば陽となり。もうすぐ冬至ですが、自然界は陰陽のバランスで成り立っているので、冬(陰)が極まれば春へと転じますし、夏(陽)が極まれば秋へと転じます。自然界の一部である人間社会のバランスも、そろそろ転じる頃と思いたい。北欧圏の男女平等と国民の幸福度の高さを見ると、陰中の陽(冬極まった中の春の芽生え)を感じたりもして。

※補足ですが、男性性は男性の中にだけあるのではなく、男女ともに男性性と女性性が内在しているので、そのバランスを含め意識しておくことも大事かと思います。

 

 古代の国名地図

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さて、倭国大乱に入る少し前の出来事から始めたいと思います。

2世紀の初め、韓国から辰韓の王子、日矛ヒボコが出雲へやって来ました。徐福の時のような大船団ではなかったようです。記紀では新羅の王子とされていますが、出雲の伝承、並びにヒボコの子孫は辰韓だとしています。

船団は出雲の薗の長浜に着きオオナモチと面会します。オオナモチは出雲八重垣(法律)を守ることや先住民の土地を奪わないことなど約束するならと条件を出しましたが、ヒボコは拒否しました。オオナモチは出雲、石見、伯耆国に住むことを禁じます。そこでヒボコは東へ進み但馬国豊岡市の沼地に停泊し船上生活を始めます。そして円山川の河口の狭くなったところの岩石を取り除くと、沼の水が流れ出て豊岡盆地が現れました。そこにヒボコたちは田畑を作って住み始めます。

このことは第2次大戦中に斎木雲州氏の父、富当雄氏が、ヒボコの直系子孫である神床家(1500年に渡り出石神社の社家を務めた)の方と縁があり、互いの伝承を確かめ合ったそうです。さらに斎木氏もその後神床氏と直接話をされているようです。

神床家の伝承ではヒボコは辰韓王の長男であった。しかし次男を後継者とするため、まだ少年だったヒボコを家来と財宝を持たせて和国に送った。そのためヒボコは父を恨んで反抗的な性格になっていた、ということです。出雲王に反発した結果、家来たちも苦労したのだと。ヒボコは豊岡で亡くなり、出石神社に祀られています。神社裏に禁足地があり、そこがお墓だそうですが、敵が多かったために秘密にしてきたといいます。最後まで苦難の連続だったのですね。

古事記ではヒボコは和人の妻を追いかけてやって来たことになっていますが、実際はそうではなく、父から和人の女性を妻にして早く解け合うようにと言われたことが、和人の妻の話になったようです。

子孫はやがて豪族となり出雲と戦いますが、その後の子孫にかの息長垂姫オキナガタラシヒメ(神功ジングウ皇后)が現れます。母親がヒボコの家系です。ちょうど辰韓の王家が断絶して、家来が新羅を起こした時期にあたります。神功皇后新羅の領土と年貢を自分が受け継ぐ権利を持っていると主張し、そのために三韓遠征が始まるのです。記紀では神功皇后仲哀天皇の后となっていますが、成務大王の后ということです。この神功皇后の男性関係や息子の応神天皇についての驚きの伝承があり、それは出雲と神床家では完全に一致しているそうです。また回を改めて紹介します。

ヒボコの死後、子孫は勢力を増し、出雲王国領である播磨国へと進出を図ります。播磨は出雲とヤマトの連合王国の中継地にあたるので、出雲にとって大事な地域でした。

同じ頃、九州の物部王国も支配地を拡大し筑紫全域から壱岐対馬まで広がり、伊予や土佐も味方になっていきました。物部王はしだいに近畿への進出を企み始めます。しかしまだ出雲とヤマトの連立政権には力が及ばず、そこで物部王は但馬のヒボコの子孫と共謀し、播磨国を南北から挟み撃ちにして占領しようともちかけます。紀元後150年頃、ヒボコの勢力は播磨への侵攻を開始します。狙ったのは良質な鉄の採れる地域でした。戦の様子は播磨国風土記に記されています。

実戦経験のない出雲軍はヤマト磯城王朝のフトニ大王に援軍を頼みましたが無視され、ヒボコ軍に敗北します。出雲王国はヤマトとの中継地を失い、助けてさえもらえなかったことから連立政権は終わりを迎えました。

出雲はヤマトとの共通のシンボルだった銅鐸をやめて、新たなシンボルとして銅剣を造ることにします。出雲両王家は領地の境界である神庭斎谷かんばさいだに斐川町荒神谷)に集まり、旧式の銅鐸6口と物部から貰った銅矛16本を埋納し土で覆いました。他の勢力圏の青銅器は今後出雲国内に配らないことを決めます。

写真は1984年に発見された荒神谷遺跡です。江戸時代以降はここに入ると罰が当たると言われていたそうです。

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下の写真右側がこの時埋納されたものです。(レプリカ)

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本物はすべて古代出雲歴史博物館に保管されています。

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一方、物部王はヒボコ勢を裏切りました。神床家の伝承では播磨侵攻の約束の日、物部王国は動かなかったと伝えています。

のちにヤマトのフトニ大王が播磨に攻め入り、さらに丹波の海部氏が但馬北部を占領します。ヒボコ勢は方々へ離散していきました。

フトニ大王は出雲領の播磨を奪い、続いて息子たち、イサセリ彦(大キビツ彦)とワカタケ彦(若建キビツ彦)に出雲領の吉備を占領させます。フトニの狙いは吉備の鉄だったようです。息子たちは吉備地方のすべてと美作みまさかまで占領しました。その頃ヤマトでは覇権争いが起こり、フトニは大王の地位を失い吉備に移ります。吉備王国の誕生です。

ヒボコ勢は物部に裏切られ、出雲は親戚であったヤマトに裏切られ、フトニ王は自国から追い出されたのです。戦の世というのは、人を信じたら負けなのですね。これではたとえ勝ち続けても、幸せは遠のくばかりでは…? なんて言えるのも現代だからですが。

 

160年頃、さらにフトニ大王は息子らに命じて出雲王国を攻撃し始めます。これを第1次出雲戦争と呼びます。吉備は出雲に奥出雲を譲ることとと、すべての銅剣を譲ることを要求しました。神門臣家の領地である奥出雲は、当時の和国で最も良質の砂鉄の産地です。出雲が要求を拒否すると、吉備軍は奥出雲に向かって南から次々と攻めこんできました。出雲兵は山岳に隠れながらゲリラ戦を行って防衛しますが、多くの死傷者がでたそうです。

奥出雲まで吉備軍が近づいてきた頃、出雲両王家は協議します。神門臣家は銅剣を渡すことで休戦を望み、向家は徹底抗戦を主張し、結局妥協点は見いだせず、ここで600年続いた出雲王国は東西に分裂したのです。両家が独自の外交をすることとなりました。

向家はすべての銅剣344本を、神門臣家は14本を、神に守ってもらうために再び神庭斎谷に埋納しました。向家のものにはサイノカミのX印が刻まれています。神門臣家は残りの銅剣を溶かしインゴットにして吉備に渡し、属国となりました。吉備王国は新たなシンボルとして平形銅剣を造り支配地に配ったそうです。

 

荒神谷遺跡から発掘された358本の銅剣です。写真上半分の金色に輝く剣はレプリカです。

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銅剣はマツリゴトに参加した豪族に渡すために用意されたのですが、鉄器を望む人が多かったために余ったといいます。銅剣を持って帰った豪族は、それまで持っていた銅鐸を埋納し、銅剣の祭りに変えたそうです。 

 

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フトニ王は東出雲王国がまだ属国になっていないことを後から知って、攻撃を開始します。出雲両王家は銅鐸をまだ所有していたので、また奪われることを避けるために、今度は神庭斎谷から3.4㎞離れた神原の郷の岩倉の地に埋納しました。吉備軍侵入の最後の防衛線になると予想したからです。境さかいの神(幸の神)に守ってもらう意味もありました。向家の銅鐸は14口で幸の神のX印が刻まれています。神門臣家と合わせて39口の銅鐸です。

岩倉の谷の入口には大きな磐座があったので、その地名がついたそうです。地元の言い伝えに「たくさんの宝を埋めた」とあり、それが出雲風土記、神原の郷の項に「天下を造った大神(オオナモチ)が御宝を積み置きになった場所である。神宝の郷というべきなのに、今の人は間違えて神原の郷と呼んでいる」と書かれました。埋納からおよそ1800年後の1996年、加茂岩倉遺跡の発掘により、言い伝えが事実であることが証明されました。

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吉備軍は伯耆国から侵攻し日野川沿いの溝口が本営となり、のちにそこに楽楽福ささふく神社が建てられます。出雲兵が籠ってゲリラ戦をしていた山は、吉備軍から鬼住山と呼ばれました。出雲兵が鬼です。

これが出雲王国最大の戦いであり、3分の1の兵士が戦死したといいます。古事記大国主が八十神たちに焼いた大岩で殺される場所が、この時の戦場である天万です。

東出雲王国で死闘が繰り広げられている最中に、物部軍が紀ノ川からヤマトに侵攻するとの情報が入ってきました。吉備王国は出雲に休戦を申し出ます。第1次物部東征の始まりです。出雲、吉備、ヤマトの内乱を仕掛け、その隙をついたのでしょう。物部王国が何枚も上手だったようです。

 

 

神在月の旅⑶ 粟嶋神社と美保神社~父娘を結ぶ海

 

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風土記の頃の中海と周辺

 

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江戸時代中頃の埋め立てによって粟島は陸続きとなりました。現在の山陰本線もかつては海の中ですね。弓ヶ浜という名前は「夜見島」から変化したのでしょうか。

 

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米子水鳥公園から粟島を見ています。とても小さな島です。だから粟島?

中海の周辺には国内で見られる野鳥の種類の4割余りが飛来するそうですよ。コハクチョウはここを寝ぐらにしているとか。野鳥観察にはもってこいの場所ですね。

それでは、粟嶋神社へ向かいます。

 

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 もともとは山が御神体神奈備山)だったので、神殿は麓にあったそうです。今は山頂に建っています。

 

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明治時代に造られた187段の階段です。標高36m。かなり傾斜が急で、手すりがなかったら怖くて振り返ることができません!

 

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 少名彦命が祀られています。個人名は八重波津身、記紀では事代主です。昭和11年再建の本殿は大社造りで、縦削ぎの千木が小さく見えています。

 

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 本殿裏手からの眺望です。中海がすぐそこに。

 

伯耆国風土記逸文

相見の郡。郡役所の西北方面に余戸の里がある。そこに粟嶋がある。少日子の命が粟をお蒔きになった時、粟の実が稔って穂が垂れていた。穂に乗ると弾き飛ばされて常世の国までお渡りになった。それでその島は粟嶋という名が付いたのである。

 

出雲王家の伝承による事代主の最期をまとめます。

美保の埼で釣りをしている事代主のもとに、ホヒの息子タケヒナドリ(日本書紀の稲背脛イナセハギ)が諸手船に乗ってやって来た。「薗の長浜で八千矛様(大国主)が行方不明になったので一緒に探してください」そう言って事代主を船に乗せた。数隻の船で王の海を西に進んだが、そのまま行方不明となった。事代主の遺体は粟島の洞窟で発見された。餓死だった。大国主の遺体は猪目洞窟(島根半島出雲市)で発見されたが、同じく餓死だった。大国主を誘い出したのはホヒだという。

 

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階段下の広場に、万葉集(355番、生石村主真人の歌)の石碑が建っています。大国主と事代主が岩屋におられたことを歌っています。この志都の岩屋というのは麓の西側にある洞穴のことです。

 

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小暗い山道を少し不安になりながらもしばらく歩いていくと、

 

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静の岩屋が現れます。柵の向こうの洞穴は狭くて奥が見えません。鳥居には八百姫と書かれています。神社の説明によると、昔、若い娘が知らずに人魚の肉を食べてしまった。それは不老不死になるという肉で、娘は何年経っても娘のまま。世を儚んだ娘は尼さんになってこの洞穴に入り、物を食べないで死を待った。命が尽きた時、800歳になっていたので、八百比丘尼びくにと呼んで長寿の守り神として祀った、とあります。先ほどの石碑の和歌が続けて記されています。意味が繫がりませんね。

調べてみると八百比丘尼の伝説は各地にあるようで、福井県小浜が発祥のようです。尼さんとなって全国各地を巡礼した末に故郷の小浜の洞穴で入定したということです。もしかするとこの静の岩屋にも訪れ、ご祈祷をされたことから話が残ったのでしょうか。事代主の真相を隠しながら、似た話を持ってきたのかもしれません。

 

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岩屋の前には水鳥公園が広がります。ここはかつて海だったのですね。

波の音しかない暗い洞窟の中を想像すると、胸がつまります。副王として、夫として、父として、どれほど無念だったでしょう。

 

美保神社では毎年4月に青柴垣あおふしがき神事が行われます。中世末に事代主の子孫である太田正清が、事代主のことを忘れないようにと、古事記に添って儀式化したそうです。

  古事記 タケミカヅチはイザサ(稲佐)の小浜で大国主に国譲りを突き付けますが、大国主は息子の事代主に聞いてみてほしいと答えます。そこでタケミカヅチは天の鳥船とともに美保の岬へ向かい事代主に尋ねました。すると事代主は「この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に言葉をかけ、乗っていた船を足で踏んでひっくり返し、青柴垣(聖域)に向かって逆手をひとつ打つと、自ら水中にお隠れになりました。

  青柴垣神事 1年間身を浄めた氏子代表の二人が当屋となり、神事の前日から断食をして神懸った状態になります。顔を白く化粧して事代主の神の化身となるのです。田楽踊りのササラ子が町中を「御解除おけどでござーい」と叫びながら事代主を探します。見つからないのでお葬式が出ることとなります。当屋は支えられながら、それぞれ青柴垣のある二隻の船に乗って港内を一周します。船では物悲しい神楽が演奏され、榊の囲いの中で秘儀が執り行われます。船が港に着くとアメノウズメやサルタ彦がお迎えに出て、当屋は神社に戻ってきます。死と再生の神事のようです。

 

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美保神社社殿 Wikipediaより 撮影Boss

さて、この美保神社というのは事代主の娘である美保須須美姫が父の霊を祀った場所なんです。母親であるヌナカワ姫は故郷の越の国に息子タケミナカタとともに帰ります。出雲族の半数の人たちが、秦族と共に住むことを拒んで故郷を後にしました。そんな中、事代主の娘は美保の関にひとり残ったのです。

美保須須美姫の住まいに市恵美須社が建てられ、事代主と美保津姫(ヌナカワ姫)が祀られました。全国に3385社あるえびす神社(事代主系)の総本社です。えびす神はもとは漁村で海幸の神として信仰されていたようですが、中世に七福神となって商売繁盛の神さまになり全国に広まりました。

(注)西宮神社は蛭子ひるこ系のえびす神社総本社です。蛭子はイザナミイザナギの最初の子で、不具だったために船で流されます。クナト王と幸姫命の子孫ということであれば事代主にも重なりますね。古事記で描かれる少名彦は海の向こうから船に乗ってやって来ます。

 

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別号二御前(事代主大神) Wikipediaより 撮影Boss

4世紀になって向家が市恵美須社の西側に美保神社を建てました。

向家は本殿に妻入りの屋根をあえてふたつ付けました(美保造り)。左手には事代主を、右手には美保須須美姫を美穂津姫の名前で祀ったのです。千木は左が出雲式の縦削ぎ、右が九州式の横削ぎです。これは物部の秋上家が王宮を神魂神社にして祭ってくれたことへの感謝の気持ちでした。また、出雲と九州系の人々が過去を越えて協力しようという表明でもあったそうです。

Sorafullは以前美保神社を訪れたことがあります。(その時の写真のデータが見つからず本当に残念です‥‥)出雲の歴史も何も知らない時期でしたが、いくつか回った神社の中でも特に心に残る場所でした。海辺の街も風情があって素敵でしたし、なにより海に向かう神殿が堂々としていて、風がとても心地よく流れる場所、そんな印象だったのです。

「出雲と蘇我王国」から引用します。

拝殿の柱列を見て、ギリシャパルテノン神殿を連想するのは、私だけではないであろう。この拝殿の側面はなんと開放的なことか。どこからでも人々が入れる。先住系の人でも、渡来系の人でも隔てなく受け入れている。これ以上に民族的に平等で、どこの人でも受け入れる形を示した神社建築は、日本では他にないであろう。

 

事代主の想いを娘が守り、そして子孫がそれを受け止め、さらに民族の悲しみを乗り越え本当の幸せへ向かうように未来へ指し示していく。出雲の人々の強さは、幸の神の大らかさ、精神的豊かさからきているのかもしれないなと思うのです。

幸の神は日本の最初の人格神ではありますが、絶対神ではなく祖先神の総称なので、イメージとしては愛する祖神おやがみ様という感じでしょうか。祖先たちに守られ、男女の聖なる結びによって子孫が繁栄することを祈る素朴な信仰です。ここに過去も現在も未来もひとつとなった心があります。

素朴ですが、生命を尊ぶという信仰はどの存在も大切にするということです。だから戦いは生まれません。生命を生み育てる女性を虐げることはありません。女尊男尊です。そして自他ともに大切なので人種や宗教の違いを超えることができます。

もちろん人だけでなくこの世のすべては神と同じように尊く、世界全体とともに生かされているという感謝が自然に育まれるのだろうと思います。根本にあるのは「私」を超えた全体の幸せを願うという大らかさです。これが縄文時代からこの国の人々が大切にしてきた信仰なのです。和の心の原点だと思いませんか。

 

最後にSorafullの希望的な推測を書きますね。

古代の地図が正確とはいえないでしょうが、もしかすると、もしかすると、美保須須美姫の住まいから遠く美保の海の彼方に粟島が見えていたのではないかと。父をひとりにはしない、そんな決意が伝わってくるような気がします。

事代主は父としては幸せだったのかもしれませんね。

 

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