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源流なび Sorafull

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡

 

地名というのは先人からの貴重な遺産。どのような地形、性質だったのかだけでなく宗教、職種、誰が関わっていたのか等々、多くの情報を未来へ伝え得るものですが、一旦変更されるとそれらの情報とともにあっけなく失われてしまいます。

国内の地名残存率を見てみると、平均で4割。ところが淡路島は8割も残っているというのです。郡や郷だけでみると9.5割!さすが国生みの島ですね。

 

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今回訪ねた淡路島の五斗長垣内ごっさかいと遺跡の「ごっさ」も不思議な名前ですが、由来については残念ながらまだ腑に落ちる説に出会っていません。

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遺跡近くの棚田

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2004年、淡路市黒谷の五斗長ごっさ地区を台風が襲い、ため池が決壊して棚田が土砂に埋まってしまいました。50世帯、高齢化の進むこの地区では若い人がますます減って大きな痛手となりました。それでも立ち上がるしかないと復旧の工事を始めます。ところが土砂を取り除いていくと、水田の下から国内最大級の鉄器生産集落跡(1~2世紀)が現れたのです。

その後住民の方々は自分たちの手で遺跡の施設を整備したり、見学者への説明など地区活性化に向けて活動を続けておられます。施設内では地元食材の手料理でもてなすカフェ(土日のみ)も皆さんで運営され、ほっこりとした心地いい空間となっています。五斗長カレーを頂きましたが、地元産の甘い玉ねぎが丸ごと入っていて、辛さとのバランスが絶妙!とってもおいしかったです。

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播磨灘を見降ろして、広々とした気持ちのいい場所です。海に沈んでゆく夕日がきれいでしょうね。

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海岸から3㎞、標高200mの丘にあり、東西500m、南北50mほどの尾根の上に広がっています。

23棟の竪穴建物跡のうち12棟が鉄器を作る鍛冶作業場です。一番大きな建物では柱を10本使い、直径が10.5m。

100点を超える鉄器や、朝鮮半島製とされる板状鉄斧が出土しています。鉄器の中では鏃やじりが多いです。

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下の写真は一番大きな建物の復元です。中では地元の方による火起こしや鞴ふいごの体験会が行われていました。

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皮袋で風を送ります。

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遺跡入口にある施設では、現在洲本で開催されている「古代淡路島の海人と交流」という展覧会のサテライト展示として、舟木遺跡の一部展示が行われていました。一般の方はまだ舟木遺跡に入ることはできませんので、とても有難い情報です。

舟木遺跡が知られることとなったのは、昭和41年に近所の小学生が土器を発見したことに始まります。海岸から2㎞ほど、標高150~190mの丘に位置し、東西500m、南北800mという広さ。五斗長垣内遺跡の16倍になります。

こちらの遺跡からも大規模な鉄器工房跡が現れ、時期は五斗長垣内遺跡より少し遅く、2世紀後半から3世紀前半までの使用と推定されています。

五斗長垣内が1世紀半ばに現れ2世紀半ばに鉄器生産の最盛期を迎え(建物の巨大化)、間もなく交代するかのようにさらに大きな舟木遺跡が出現、3世紀前半には消滅しました。

出雲伝承の示す年代を考慮すると、五斗長垣内は倭国大乱(147~188年)の時期に重なります。ヒボコの播磨侵攻(150年頃~)、吉備と出雲の戦争(160年頃~)、第1次物部東征(165年頃~)。そしてより大規模な舟木が現れますが、第2次物部東征(246年頃~)が始まるととともに消滅しています。ここで戦乱があったというような痕跡は今のところないようで、捨てて移動した可能性が高いと思われます。

 

遺跡の中心付近には舟木石上神社が鎮座し、周辺から大型の器台型土器(祭祀用と推察)が出土しました。下写真のD地区と書かれた囲みの左下に石上神社とあります。

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淡路市教育委員会 平成30年度の舟木遺跡発掘調査現地説明会資料より

黒い太枠が遺跡の範囲で、黄色や青のかなり小さな長方形が平成27~30年度に調査された場所です。2m幅の溝(調査区)を何ヶ所か定めて発掘します。

平成29年度のわずかな調査区域だけで104点の鉄器が出土し、五斗長垣内遺跡の規模と出土数から考えると、今後どれだけの発見があるのか予想できないほどです。ところが来年度は調査書の作成のため発掘作業はお休みだそうで、全体像が見えてくるのはかなり先のことになりそうですね。

※上の地図には記されていませんが、平成3~6年に調査された区域も少しあります。

下の写真は航空レーザー測量による三次元立体地図です。B地区とD地区を拡大して、竪穴建物の位置と絵画土器が出土した場所を示しています。D地区の南尾根が祭祀場だった可能性が高いそうです。書き込まれてはいませんが、D地区の西側の丘に舟木石上神社があります。

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同資料より

 

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平成27年度以降に発見した鉄器以外の主なものは、

中国鏡片(中国南部産の材料を使用した後漢鏡)

絵画土器、器台型土器(祭祀用と推測される)

他地域からの搬入土器(河内、但馬、丹波方面)

鍛冶工房跡

鉄製の漁具

塩土器、イイダコ壺(発掘状況からみて祀りで使われた様子)

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この鉄製ヤスは、弥生時代としては北部九州と山陰地域で少数の出土例があるのみで、他地域では極めて稀な鉄器だそうです。山陰では青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡など、近年鉄器の出土が増えていますが、青谷上寺地遺跡からは上の写真と同じような逆刺かえしがついたヤス、釣針が出土しています。海の民による何らかの交流があったのでしょう。

これらの遺跡も最盛期は淡路島と同じく200年頃となります。

出雲伝承では奥出雲は良質の砂鉄が採れ、ウメガイと呼ばれた両刃の小刀が豪族達に人気だったそうです。他にはフトニ大王が占領した吉備や、ヒボコが狙った播磨からも砂鉄が豊富に採れたといいます。淡路島には野ダタラの跡もないようなので、鉄の加工を行う鍛冶場として機能していたのかもしれません。

 

舟木石上神社

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電柱の左下の小さな看板に「石上神社」とあります。カーナビでは表示されなかったので、この交差点を見落とすと辿りつけません。

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三輪山の真西に鎮座する舟木石上神社です。鳥居の左脇には女人禁制を示す碑が建っていて、女性は右手の小道を進んで稲荷神社からの参拝となります。

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出雲伝承では太陽信仰の司祭者は古来より女性(姫巫女)であり、男性となったのは3世紀半の大田田根子(太田タネヒコ)からです。

ここからは同行者に撮影をお願いしました。

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ご神体の磐座です。その下の空間に小さな祠が祀られています。

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人為的に支え石が置かれているようにも見えます。祠は南向き。

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磐座の右手にまわり横から見ると、下写真のように大きな割れ目があって、ホト岩(女神岩)であることがわかります。ここがちょうど東を向いています。

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祠の背後にはたくさんの巨石が。

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写真では影になってわかりにくいですが、ふたつの巨石が三角の空間を作り(ホト岩)、中に小さめの石が置かれています。人為的なものであれば児玉石=子神石かもしれません。子宝を願って祀られるものです。

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小ぶりの三角の立石のまわりに御幣がたくさん立てられています。ここは鳥居から入ってご神体の磐座に向かい左手になります。

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横から見るとお祀りされていることがわかります。

地元の方は荒神さんと呼ぶそうです。出雲の竜神は怖い顔をしているので荒神とも呼ばれるようになり、それを役の行者が全国に広めました。もとは幸の神(幸神)です。

 

「舟木」という地名にもなった、古代に造船や住吉大社神官として活躍した船木氏について、次回辿ります。

 

 

 

 

 

太陽の道⑵松帆神社、伊弉諾神宮

 

 

ところで淡路島の伊勢久留麻神社は、伊勢の斎宮跡と舟木石上神社を結ぶとされる太陽の道(北緯34度32分)から僅かにずれていて(北緯34度31分)、実際には久留麻神社の真北1㎞に位置する松帆神社が太陽の道にぴったりと重なるんです。

創建が1399年なので古代の信仰とは関係ないと思っていたのですが、実は不思議な縁があったことをT様に教えて頂きました。今回の旅ではこちらへは行かず、残念!

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楠木正成と松帆神社

楠木正成は富田林の美具久留御魂神社(下水分社)、千早赤坂村の建水分神社(上水分社)等を氏神として崇敬していました。千早赤阪村金剛山の西側ですが、東麓にはかつて出雲族の高天村がありました。

楠木公は湊川の戦いで自害する直前、守護神としていた八幡大神の御璽(文殊のようなもの)を家臣の吉川弥六に託します。弥六たちは敵陣を突破してなんとか淡路島へ渡り、楠木村(現在の淡路市楠本)の山中に小さな祠を建てたそうです。ところがそのすぐ南には彼らの氏神様と同じ来馬大明神・久留麻神社が。神のお導きと思わずにはいられなかったでしょう。それから60年経ったのち、幡山に幡山八幡宮として遷座、創建され、それが現在の松帆神社ということです。

神社からは昭和の初めに、名刀「菊一文字」が発見されました。後鳥羽上皇が自ら焼入れをされたといわれる十六弁の菊紋入り小太刀です。吉川弥六の末裔吉川家には「菊一文字は落ち延びた家臣で廻し持ちして隠し、その後領主を通じて八幡宮に奉納した」という口伝もあるそうで、楠木公が後醍醐天皇より恩賞として賜った太刀の可能性も‥‥。

松帆神社ブログには、現在地への遷座に尽力したのが正井将監(本名・菊池能平)であると書かれていて、祖父は九州肥後国の菊池家。祖父も湊川の戦い南朝側として参戦し、敗戦後は九州へ単身戻ることができたけれど、何故か孫は淡路島へ。

出雲伝承では楠木正成も菊池家も出身は出雲忍者(出雲散家)であり、両家は親戚同士だといいます。(菊池家は筑紫舞と繋がりがありそうな「山の能」を継承していたことを、以前の記事で紹介しました。)

松帆神社は太陽の道の上にあって三輪山の真西に位置し、山頂とはたった25mの誤差しかないことをT様はGPSで確認しておられます。鬼門は神戸の湊川神社楠木正成殉節の地)~京都であると。

正井将監が楠木公と親戚かつ出雲忍者の家系ということにも頷けてしまいそうです。

 

 淡路島のイザナギ大神

以前の記事でも古代淡路島についてT様の情報をもとに紹介しました。 

 

多賀に鎮座する淡路国一宮、伊弉諾神宮は、イザナギ大神が余生を過ごした幽宮かくれみやだとされています。ところが淡路島北端にある石屋いわや神社そばの洞窟(恵比須神社奥の岩樟神社)こそが元幽宮だという説もあるんです。

なんだか大国主や事代主が幽閉されたという出雲の岩屋を思い出してしまいます。(この海辺の洞窟は現在では奥行が3mですが、昔は52mもあったそうです。岩屋城を築城する時に削られたとのこと)

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石屋神社は崇神天皇の御代に三対山の頂上に創建され(築城の際に南方に遷座)、祭神は国常立尊イザナギ尊、イザナミ尊。

成務天皇は石屋神社の分霊を祀れと勅命をだし、対岸の明石に岩屋神社が創建されました。主祭神イザナギ尊。

神功皇后三韓征伐の際に、明石からわざわざ三対山の山頂へ登って戦勝祈願したといいます。

松帆神社裏手にある知賀地神社にはイザナギ尊、イザナミ尊が北向きで古い祭祀方法で祀られているそうです。真北に岩屋神社、真南に伊勢久留麻神社。これはT様によると神霊結界だそうです。

また、神戸市垂水の五色塚古墳(400年頃築造と推定される)の円墳から中心軸を見通した先が、明らかに対岸の三対山を意識した作りだとT様は指摘されています。被葬者はわかっていません。

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兵庫県最大の前方後円墳(復元)です。

上~中段の葺石は淡路島北東岸産と推定されています。日本書紀にも神功皇后の時、亡き仲哀天皇のお墓を作ると偽って、皇后と敵対する皇子らが島の石を運ばせたとあります。

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前方部から淡路島を望む写真ですが、三対山を向いているようですね。

このように崇神天皇の時代から(本来は垂仁天皇でしょう)淡路島北端が重視されていて、第2次物部東征後に淡路島へ遷され祀られた、物部の祖霊神ではない偉大なる(畏れ多い)存在があったのだと思われます。

日本書紀では崇神天皇の御代に、疫病の流行や百姓が反逆したりと国が治まらなくなったので、天皇天照大神(幸姫命)を豊鋤入姫に託して大和の笠縫村に遷し、大物主神(事代主)は大田田根子に祀らせ、大和大国魂神(香語山ー村雲)は市磯長尾市に祀らせることにしたとあります。美具久留御魂神社も崇神天皇大国主命をここに祀らせたのが始まりといいます。

物部東征後、大和方面で祀られていた神々を新朝廷のもと、それぞれの子孫たちに祀らせたということになります。

 

さて、最後は淡路国一宮、伊弉諾神です。鳥居は阪神淡路大震災で倒壊したため再建されました。

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表神門。

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拝殿。Wikipediaより

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中門とその奥にご本殿。
実はずっと禁足地であったイザナギ大神の神陵が、この本殿の下にあるといわれています。明治時代に墳丘を覆うように整地し、その上に本殿を移築したのだと。本殿の床下には墳丘に使われていた数十個の石が格納されています。

T様によると、もともとご神体は円墳で、その前段に本殿が営まれる古い形態の神社だったそうです。明治政府は千数百年にわたって絶対禁足地として守られてきた古墳を破壊して完全な更地にし、石室、石棺を白日の下に曝し学術調査?が行われ、石棺内部には2体のご遺体を認めたと伝承されているとのこと。ご遺体はその後どうなったのでしょうか。そしてその方々は誰なのでしょう。

出雲伝承ではイザナギ大神とはクナト大神のことです。とはいえここにご遺体があったとは考えられません。出雲王家に繋がる方なのでしょうか。

 

この写真は伊弉諾神宮の宮司さんが専門家に計測を依頼して作られた「陽の道しるべ」の石碑です。伊弉諾神宮が中心となっています。

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冬至の日の出の方角を見ると熊野那智大社の大瀧とされていますが、碑文に説明されている「南への角度28度30分」だとすると那智大社ではなく花窟はなのいわや神社がその方角にあたります。日本書紀にはイザナミ尊を紀伊国の熊野の有馬に埋葬し、土地の人が花を供えて祀ったと記され、それが花窟神社とされています。

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中島尚彦氏のサイト「日本とユダヤのハーモニー」を拝見したところ、この角度をさらに正確に調べると、伊弉諾神宮の奥宮ともいわれる岩上神社(巨石信仰)から花窟神社(巨石信仰)への角度にほぼ重なるのだそうです。出雲族の女神を祀る花窟神社のことは少し前の記事「弥彦神社と伊夜比咩神社」で書きましたが、ここから出雲の女神を那智大社へ勧請しています。

夏至冬至ともに朝日を参拝する方角は、出雲族の信仰が伺えます。

 

T様は飛鳥宮を中央に、真東は伊勢内宮(幸姫命/天照大神)、真西は伊弉諾神宮(クナト大神?)にあることから、人為的なものを感じると。このラインは北緯34度27分(飛鳥宮は34度28分)。距離的にも飛鳥宮がほぼ中央にありますね。

もうひとつ、伊勢の佐那神社もこのライン上にあるんです。北緯34度28分。佐那神社は天の岩戸を開いた手力男の神を祀る船木氏の神社といわれます。

一方、淡路島の舟木石上神社は伊勢の斎宮跡とを結ぶ太陽の道(北緯34度32分)にあります。

伊勢と淡路島を結ぶふたつの太陽の道に、船木氏が関わっているのかも。

船木氏は大田田命の子孫。初代大神神社の男性司祭者、大田田根子(太田タネヒコ)です。

次回、舟木遺跡、五斗長垣内遺跡を紹介しながら、舟木氏について考えていきたいと思います。

 

T様、今回もたくさんの貴重な情報を教えて頂きありがとうございました。私の理解不足、見当違いなどありましたらご連絡下さい。

 

 

 

 

 

太陽の道⑴伊勢久留麻神社とイザナギ大神の道

淡路島へ行ってきました。

前々から気になっていた五斗長垣内ごっさかいと遺跡と舟木遺跡を目指します。1~3世紀の鉄器工房が現れたというかなり興味深い場所です。

その前に、前回記事の伊勢久留麻神社が近かったので、先にそちらを回ってみました。 

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東向きの拝殿です。昔は来馬大明神と呼ばれていたそうです。

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ご本殿。創祀年代は不詳ですが、社伝によると敏達天皇の頃(572~585)に伊勢国の久留真神社より勧請されたとあります。

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東を向くと鳥居の先に小さく海が見えています。古代は目の前に海が広がっていたでしょう。(昔は少し内陸にあった可能性もあるそう)

実は前回記事で大阪、富田林市の美具久留御魂神社のことを教えて下さったT様より、この旅の後に再び貴重な情報を頂きました。

 

久留麻周辺の神社は愛宕山神奈備/ランドマークとしているように思われるとのこと。以前は山頂に大きな三本松が立っていて、そこに愛宕神社の祠が祀られていたそうです。虫被害で松が伐採され、近年麓のショウキさん(場所がわかりませんでした)の祠の横に遷されたと。

そういえば久留麻神社の境内にも愛宕社の祠がありました。

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久留麻神社からは愛宕山の方角に伊弉諾神宮があります。久留麻神社から見ると、夏至の日没は舟木石上神社の方角に、冬至の日没は伊弉諾神宮の方角になるそうです。反対に舟木石上神社からは冬至の朝日が、伊弉諾神宮からは夏至の朝日が久留麻神社の方角から昇るのだとのこと。

そして伊弉諾神宮から久留麻神社に向かってイザナギさまが延々と鎮座しているそうで、なんとそのずっと先の尼崎市吹田市イザナギ神社等もあって、このライン上の要所要所にお祀りされているようです。

由緒を調べてみましたが、尼崎市伊邪那岐神社はわかりませんでした。

吹田市の伊射奈岐神社は佐井寺と山田の地に並んで鎮座しています。延喜式神名帳には摂津国島下群に伊射奈岐神社二社とあります。

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佐井寺社。

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山田東社。

佐井寺社は、雄略天皇22年に豊受大神丹波国の真名井原より伊勢外宮に遷座した翌年、天照の神託を受けた倭姫の教えによりイザナギイザナミ両大神を「佐井が原」に祀ったのが始まりであるとしています。その後イザナミ大神を東北の地(山田)に遷座し姫宮とし、本社を奥宮としたそうです。山田東社の由緒には後から分かれたということは記されておらず、山田の地名は伊勢山田(外宮の地)から付いたとあります。

「佐井が原」とは幸の神のサイでしょう。すぐそばに「佐井の清水」という泉があったことを示す碑が建っています。東隣は摂津三島。事代主の妃、活玉依姫(玉櫛姫)の実家である大豪族三島の領地です(摂津国から山城国西南端まで)。東奈良遺跡からは銅鐸の鋳型が出土しています。事代主亡き後、活玉依姫と息子のクシヒカタ(天日方奇日方=天の奇しき力を持つ太陽を祭る人。出雲の太陽信仰を象徴するような名前ですね)が出雲の人々を連れて三島に里帰りしたので、そこは富家の領地のようになりました。摂津は出雲連合国に。ここから大和へ最初に移住したクシヒカタは、三島の人々も大勢連れて行ったといいます。

その後も物部勢に追われた大彦や尾張氏も、摂津三島へ避難のため移住したり、さらに後継体天皇(富家次男)も越前から大和の大王になるためやって来た際には三島氏の協力を得ようと、その地に近い淀川と木津川の分岐点に楠葉ノ宮を建てました。高槻市の樟葉です。このように摂津三島の地というのは、古来より出雲王家の富家と深い関わりがあるのです。

また、この夏至の朝日のラインを北東に向かってもっと伸ばしていくと、なんと諏訪大社に行き当たります。富家事代主の御子、建御名方富彦=諏訪大明神です。ここまでくると「まさか~」と苦笑い。ところが、滋賀県多賀大社がこのライン上にあると気づき、多賀大社といえば古事記写本のひとつに「イザナギ大神が坐すのは淡海の多賀」とあって近江を示しています。ただし日本書紀には「淡路の洲くにに幽宮をつくり」とあるため、海と路の誤写であって多賀とは淡路島であろうと考えられています。その多賀大社イザナギ尊、イザナミ尊を祀る)が伊弉諾神宮と夏至の朝日のラインで繋がっています。

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多賀大社 Wikipediaより

古事記以前はこの地の豪族、犬上氏の始祖を祀っていたという説もあるようですが、詳しいことはわかりませんでした。

多賀大社の南方に別宮、胡宮このみや神社が鎮座しており、イザナギ尊、イザナミ尊を祀っています。神体山の青竜山頂上には磐座があって、この巨石信仰が起源といわれています。敏達天皇の勅願所であり、多賀大社奥の院となる聖徳太子創建の敏満寺の鎮守社として栄えたそうです。もし古事記以降に多賀大社の祭神がイザナミ尊、イザナギ尊になったのだとしても、巨石信仰がこの地に根付いていたのであれば、古くは出雲族の存在があったことが伺われます。

多賀大社には「御烏喰おとぐい神事」と呼ばれるものが伝わっており、祭りの前には本殿脇の先喰台の上に神饌のお米をお供えし、神饌に穢れがなければカラスが啄むということです。この神事は熱田神宮や広島の厳島神社でも行われるそう。これって東北の農家で収穫を占う「カラス勧請」ですね。以前の記事「お正月の源流」で紹介しましたが、インド(タミル族)のお正月の風習と共通するひとつです。

調べてみると、伊弉諾神宮を基点とする夏至の朝日のラインには、出雲族が関わっているところが多いことが見えてきました。

このライン上ではありませんが、海中の夫婦岩で有名な伊勢の二見浦には、出雲系の二見輿玉おきたま神社が鎮座し、サルタ彦大神が祀られています。

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Wikipediaより

左の三角の岩が女神、右手が男神。しめ縄は縁結びをしています。この神岩を遥拝するために神社が設けられたのが始まり。昔は伊勢神宮の参拝前にこの海で禊(沐浴)をするのが慣わしだったそう。現在も夏至祭では夫婦岩の間から昇る朝日を参拝しながら禊をするようですね。夏至の前後2週間ほどは遠くに見える富士山の頂から朝日が昇るのだと。この写真もよく見るとダイヤモンド富士。まさに神々しいです。

淡路島の伊弉諾神宮から諏訪大社へと続く夏至の太陽の道を見てきましたが、やはり太陽信仰に基づいた意図を感じさせます。まさかとは思いつつも、古代の人々の信仰心を理解するには、遺されたものを拾い上げていくほかありません。

 

長くなりましたので、次回、伊勢久留麻神社の北側に位置する松帆神社と、淡路国一宮、伊弉諾神宮を紹介します。

 

 

 

 

オオタタネコと美具久留御魂神社

中西・秋津遺跡

先日、弥生時代前期最大の水田跡が見つかったとの報道がありました。奈良県御所市の中西・秋津遺跡です。

2009年から調査が始まっていたようで、当初は古墳時代前期(4世紀前後)最大級の祭祀集落跡として発表されました。当時の中心地であった太田村の纏向からは15㎞南西に位置していますが、一豪族のものとは考えにくい規模であり、初期ヤマト政権による宗教都市ではないかという見解だったようです。その後水田跡が徐々に見つかって、今回の調査結果を合わせると43000㎡となり、地形を考慮すると総面積10万㎡以上になる可能性もあるとのことです。東京ドーム2つ分?

緩やかな傾斜地を利用しての灌漑設備を伴う広大な水田が、この時期にはすでに作られていたことがわかりました。

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遺跡の場所を見ると、出雲族と海村雲率いる秦族の連合国が誕生した地域になりますね。村雲は初代ヤマト大王

火雷神社は村雲たちの住んだ笛吹の高尾張村に鎮座しています。鴨都波神社、一言主神社は出雲の富家分家の登美家。御歳神社、高鴨神社は出雲の神門臣家分家が創建したということです。登美家はやがて三輪山磯城地方へ移住し、海王朝が2代続いた後の磯城王朝となっていきます。

大陸からの水稲技術を広めたと考えられる海村雲ですので、ここに広大な水田があったことに繋がりそうです。

ただし発掘調査では水田の時期としては約2400年前と言われています。出雲族が葛城地方に移住してきたのは、伝承によると紀元前200年頃のことです。200年の差を誤差として捉えていいのかどうか。

  

大田田根子は太田タネヒコ

続いて、今回もコメントの紹介をさせて頂きます。

前回の記事に、神社での参拝の作法は通常は2拍手ですが、出雲大社宇佐神宮弥彦神社だけは4拍手だと書きました。

T様より、大阪府富田林市の旭ヶ丘に鎮座する美具久留御魂みぐくるみたま神社も4拍手だという情報を教えて頂きました。この辺りは登美家分家の大田田根子オオタタネコの本拠地であったろうと。

 

富士林雅樹著「出雲王国と大和政権」によると、記紀大田田根子の本名は「太田タネヒコ」だと出雲旧家では伝承されているそうです。纏向の太田村の地名となった人物です。出身は和泉国の陶村すえむらあたりで、自身が創建した陶荒田すえあらた神社堺市)がそこに鎮座しています。今もそこは「太田の杜」と呼ばれているようです。

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そして斎木雲州氏の著作の中では八咫烏とは登美家本家の賀茂建津乃身だと記されていますが、こちらの伝承では太田タネヒコだとしています。大彦勢が大和から去った後、大和を統一できるのは物部勢だと見抜き、軍を熊野から磐余へと導いたというのです。太田タネヒコは本家の登美姓を名乗ったので、物部軍は太陽信仰を持つ鳶とびとして「黄金色の鳶」と呼んだのだと。(金鵄)

※斉木雲州氏の示す登美家系図とは一部違っています。

物部勢が磐余にやって来ると、登美本家の人々は北方へ逃げ、一部は奈良市の登美ヶ丘や山城国南部へ移住しました。そして代わりに太田タネヒコが三輪山へ進出したということになります。

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美具久留御魂神社の近くには富美ヶ丘、陶荒田神社の近くは登美丘という地名が残っていて、ダンスで話題となった登美丘高校もこちらにあります。富田林の富も?

太田タネヒコは朝日の昇る三輪山へと向かって出世していったようですね。
 

さて美具久留御魂神社ですが、延喜式内社とされ、境内には裏山古墳群があり4基の古墳が残されています。社伝では崇神天皇の御代にこの地に大蛇が出たため、天皇大国主命を祀らせたことに始まるそうで、主祭神大国主命の荒御魂となっています。(東の三輪山には大物主の和御魂が祀られています)

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ご本殿と上拝殿。

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下拝殿。

大田田根子といえば記紀の中で、崇神天皇の時代に疫病が大流行し、天皇の夢に大物主神が現れ「我を大田田根子に祀らせよ」とのお告げがあったため、大田田根子を探し出して三輪山の祭祀をさせたと記しています。それまで三輪山の司祭者は姫巫女たちでしたが、この時から男性に変わりました。大神神社の初代神主、三輪の大王です。

そして魏志倭人伝に記されたいわゆるヒミコ(伝承ではモモソ姫)の祭祀を補佐し、身の回りの世話をした人物が大田田根子だと伝承は云います。斎木氏はモモソ姫は大彦の妹としていますが、「出雲王国とヤマト政権」では旧家の伝承ではモモソ姫は太田家の娘と伝わっており、タネヒコの姉ではないかと。

以前からどうして突然大田田根子がこのような重要な地位に就いたのかと不思議でしたが、この人こそが物部軍を磐余へ導いた八咫烏なのだとすれば納得です。親戚内の勢力争いがあったというわけです。

注)記紀では崇神天皇の御代としていますが、崇神天皇とされたイニエ王は九州から出たことはないということです。

 

美具久留御魂神社の名前の由来ですが、ご神託の言葉の中の「山河の水泳みくくる御魂」(山から流れ出た水を分配する神様)からつけられたと社伝にはあります。

横道に逸れますが、珍しい名前だったので他の地域にもみられるのかなと調べたところ、少し似た名前の神社が淡路島にありました。伊勢久留麻神社です。敏達天皇の580年頃に伊勢鈴鹿市久留真神社から勧請したと伝えられており、久留真神社は延喜式内社で大国主を祀っています。(伊勢久留麻神社の主祭神は大日孁貴オオヒルメムチ

出雲族は大和地方に移住した際、伊勢にも進出しており、最初に創建したといわれる鈴鹿市伊勢国一宮、椿大神社つばきおおかみやしろは出雲の出雲井社から幸の神を遷し、サルタ彦大神を祀っているということです。遷した人は後に伊勢津彦と呼ばれました。社家は宇治土公ウジトコ家で、皇大神宮儀式帳(804年に提出された伊勢神宮内宮の儀式帳)には「伊勢内宮の大内人(神官)の宇治土公氏の祖は大田命」と記されています。

久留真神社の現在の宮司は太田氏のようですが、子孫の方でしょうか。淡路のほうは継承者が途絶えているとの情報が見られました。

 

 

さて、参拝作法の「4拍手」の話に戻ります。

出雲大社の説明によると、最も大きな祭典である5月の例祭では8拍手をするそうで、8は無限の意味をもち、神様をお讃えする作法だということです。通常はその半分の4拍手となります。8は出雲の聖数ですね。伊勢神宮神職の方が行う祭祀の際には8拍手ということですが、一般の方は2拍手。熱田神宮も8拍手です。

この3社は三種の神器と関わりがあります。出雲の八尺瓊勾玉伊勢神宮八咫鏡熱田神宮の叢雲剣。

伝承によると、もともと出雲では「2礼3拍手、祈りの言葉、4拍手1礼」だったそうで、3拍手は出雲の聖数であり、神霊が目覚める合図だったそう。4は「おしまい」の「終」の意味。

そもそも「2礼2拍手1礼」が広まったのは、明治に制定された神社祭式行事作法に始まります。それまでは多種多様な作法であったそうです。ほとんどの神社が昭和に定められた2拍手に従う中で、8拍手や4拍手にするというのは、それなりの理由があることなのかもしれませんね。

4拍手の出雲大社宇佐神宮弥彦神社、そして美具久留御魂神社。北から越地方、大和地方、出雲地方、北九州地方として見てみると、古代に栄えていた地方を代表しているように思えてきます。そしてそれぞれに出雲の血筋であるようです。宇佐家伝承によると、ウサ族の母系祖神は市杵島姫、つまり出雲の宗像三姉妹。弥彦神社は大彦の子孫の可能性も高いかなと考えています。美具久留御魂神社は太田タネヒコの領地のようなので事代主の子孫となります。

 

太陽の道・レイライン

今回三輪山二上山そして伊勢と話が出たので「太陽の道」について少し。

奈良盆地では春分秋分の日に三輪山から日が昇り、二上山に沈んでいきます。多神社から臨む朝日は三輪山の頂上から昇り、桧原神社から眺める夕日は二上山の雄岳と雌岳の間に沈むそうですよ。大和三山を見渡せる雄岳の頂には、謀反の疑いで自害させられた大津皇子のお墓があるともいわれ、夕景は彼岸への入り口を思わせるとも。

三輪山二上山北緯34度32分の緯度線上にあります。この東西のライン上に多くの神社などパワースポットが並んでいるというミステリー。東の端は伊勢斎宮跡(さらには伊勢湾に浮かぶ神島)、西は淡路島の舟木石上神社へ。(この神社は伊勢久留麻神社の近く)

これが太陽の道・レイラインですが、三輪山の太陽信仰を考えれば、三輪山を中心として自ずとそうなったということだろうと思っていました。二上山はたまたま三輪山と東西に並んでいただけですしね。ただ今回太田タネヒコのことを調べたことで、面白い繋がりが見えてきました。

次回、太陽の道から浮かんでくる太田氏、舟木氏を探ってみたいと思います。

 

 

 

 

弥彦神社と伊夜比咩神社

今回は頂いたコメントの紹介をさせて頂きます。

 

御所市の「くじら」 

第1次物部東征で物部軍が熊野からヤマトに向けて侵攻する際に、記紀では土着の豪族たちと戦う場面が幾度も描かれていますが、出雲伝承では戦いはなかったと言われます。

記紀は物部軍が勝利するたびに天皇に歌わせますが、その中のひとつにクジラが出てきます。

「宇陀の高い山城で、鴫しぎを獲る罠を張った。ところが私が待っている鴫はかからず、大物のクジラがかかった」

鴫というのは川辺に住む鳥です。それを山に捕まえに来たら海の王者、クジラがかかったというのです。シギというのは磯城シキ王朝にかけているとして、クジラとは何なのか。

例えば物部軍を先導した八咫烏とは出雲伝承によると登美家です。登美家は事代主の子孫。事代主は海の神、えびすでもあります。えびすは漁業の神としてのクジラのことでもあります。つまり出雲の事代主をクジラと例えたのではないかと考えました。この記事に対して、S様より葛城山の麓、御所市に櫛羅くじらという地名があります」と教えて頂きました。

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地図の葛城山東麓にある一言主神社(出雲伝承では一言主とは事代主のこと)の北方が櫛羅です。この地域は出雲から移住した加茂家(登美家)や高鴨家(神門臣家)が集まっています。火雷神社は高尾張村と呼ばれた村雲たちの地にあります。

また伝承によると金剛山は古くは高天たかまと呼ばれ、山の東に高天たかま村があったそうです。ここは出雲の神門臣家が祖先を葬る土地で、高天原たかあまはらと呼ばれる聖地だったと。現在は高天原の石碑が建っています。祖先神たちの住む天上界のモデルとも考えられます。

記紀に描かれた物語では、神武天皇は宇陀で土蜘蛛(土着の民)を征伐していきます。宇陀はここからは離れていますが、葛城の一言主神社境内には土蜘蛛塚が、高天原にある高天彦神社そばには蜘蛛屈と呼ばれる住居跡があり、物語のモデルとなっているのかもしれません。

つまり神武の歌は、ヤマトの磯城王朝(尾張家と登美家の連合国)を倒しに来たら、出雲の登美家(八咫烏)が罠にかかった、という意味を含んでいると考えられるのでは。

 

 

「英」という字

九州の霊山、英彦山。読みは「ヒコサン」です。

もともとは日の子(天照大神の御子)である天忍穂耳命主祭神としていたので日子山であったのが、彦山となり、18世紀に「英」の尊称を贈られ英彦山となりました。

M様はこの「英」の字を調べられたそうで、読みは「はなぶさ」「はな」であり、元来の意味は「美しい花」を表しているとのこと。つまりハナ+ヒコ=美しい(≒立派な)ハナの彦。やはりサルタ彦大神でしょうかと。

日の子とは、太陽の女神である幸の神の幸姫命の御子と考えればサルタ彦大神ですよね。そうであれば「英」という尊称を贈られたことは、天狗という後世のイメージとは違う本来のサルタ彦大神のお姿として祀られておられるようで、うれしくなります。

「英」には「ひいでる」といった意味もあり、突出して優れているイメージにも重なり、突き出た(サルタ)鼻のサルタ彦大神への尊称として相応しいなと思います。

 

 

弥彦神社の伊夜彦大神

日本には「三彦山」と呼ばれる山があり、英彦山雪彦山(兵庫)、弥彦山(新潟)です。どの山も修験道の霊山です。

N様は新潟の弥彦やひこをご神体とする弥彦いやひこ神社へ参拝されました。越後国一宮です。

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大鳥居(背後に弥彦山Wikipediaより

奥宮のある弥彦山の頂上には御神廟があって、天香山命妃神熟穂屋姫命が祀られているそうです。

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奥宮の御神廟

天香山命は徐福の長男である五十猛、のちの海香語山。穂屋姫は徐福と市杵島姫の娘であり、この異母兄妹のもとに村雲が生まれます。熟穂屋姫の「熟」は「ニギ」ハヤヒ(徐福)からきているのでしょうか。

N様が神職の方に祭神について伺ったところ、伊夜彦大神、大屋彦命、大彦命、高倉下命という別名があって、古事記の話にあるように神武東征の際に熊野で手助けした功績として、越の国に派遣された神様であるとのお話だったそうです。和歌山には天香具山神社や神倉神社があるけれど、過去の文献にはどのように記されていますかとのご質問でした。

出雲伝承で弥彦神社について目にしたことはありません。なので推測になることをご了承下さい。

 

まず物部東征で熊野で手助けしたのは記紀では高倉下となっていますが、時代が違うので子孫だとしても伝承にはありません。第2次物部東征の時に八咫烏と呼ばれた登美家の者が協力しています。

高倉下は香語山と大屋姫(大国主の孫)との間に生まれました。その後香語山は穂屋姫を妃として迎えます。紀国に移住したのは高倉下であり、その地に父を祀ったのでしょう。コメントには天香具山神社とありますが、和歌山では見つかりませんでした。五十猛(香語山、大屋彦)を祀る伊太木曽神社などがありますが、植樹をしていったのは高倉下のようです。

また伝承では熊野には先住の出雲族がいて、幸の神信仰を持っていたといいます。神倉神社花の窟いわや神社も幸の神の女神を祀っていました。倉は御袋(子宮)を意味します。どちらも巨大な磐座がご神体です。割れ目のある岩を御袋岩、ほと岩、女神岩、琴引岩などと呼びます。

神倉神社のゴトビキ岩は、南出雲にある日本一大きな御袋岩「琴引コトビキ岩」と同じ名前を付けたといわれます。岩の下から銅鐸も出土しています。男神が琴(女性)を引くようなイメージから琴引岩と呼ばれたとのこと。

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神倉神社のゴトビキ岩

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花の窟神社・七里御浜から見たご神体の巨岩  Wikipediaより

もともとは出雲族の信仰でしたが、のちに神倉神社は熊野速玉神社の摂社に、花の窟神社の女神は熊野那智大社に勧請されました。

 

さて、弥彦神社ですが、香語山や高倉下が祀られているといわれても繋がりが見つかりません。別名の中に大彦がありますので、こちらなら頷けるのです。

出雲の富家の親族である大彦の子孫は北陸で勢力を持ち、若狭、加賀、越国の国造家になっています。国造の支配領域がはっきりとはわかりませんが、弥彦神社であれば越後の高志深江国造(大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔)と思われます。弥彦神社の社家は明治まで高橋氏で、大彦の子孫の高橋氏でしょうか。

万葉集には伊夜日子、9世紀の続日本後紀には伊夜比古神と記されていたのが、17世紀以降の縁起には祭神が天香山や高倉下となっているようですので、もともとは伊夜彦神だったのが後に変化したという可能性も。伊夜彦神がどのような神さまなのかはわかりませんが、山そのものがご神体というところに、原初の古代信仰を感じます。

ちなみに弥彦神社の分布をみると、北海道から東北、北陸に集中しています。

それから弥彦神社では珍しく鎮魂祭が行われており、石上神宮物部神社と関係があるように見えます。ところがなぜか11月の年1回ではなく、4月と11月の年2回行われます。出雲の春と秋の大祭のようですね。

もうひとつ気になるのが、神社で参拝する際、通常は2拍手ですが、4拍手するところがあって、出雲大社宇佐神宮弥彦神社の3社となっています。

 

最後に、石川県の能登島にある延喜式内社、伊夜比咩いやひめ神社で行われている火祭りのことに触れておきたいと思います。

7月のオスズミ祭りでは、年に一度、越後の国を作った伊夜彦神がここを訪れ、巨大な松明の火に降臨するといわれています。つまり夫婦の逢瀬です。

男衆が手に持った燃え盛る藁の松明を振り回し、合図とともに30mもある大松明に火をつけていきます。その火柱は10㎞離れた場所からも見えるほどだそう。やがて大松明は倒れ、その方角によって豊作豊漁を占います。また大松明の先に付けられた御幣を取った者に、幸運が訪れると信じられています。(御幣とは出雲伝承では男性の種水を意味します。)

実は先に紹介した熊野の神倉神社でも、御燈祭りという火祭りが行われます。こちらは旧正月のお祭りで、姫初めを意味するそうです。社の前に男神の象徴である大松明があり、男衆は争うようにしてその火を自分の松明に移します。火は男性の種水です。彼らは松明の火で女神のゴトビキ岩を叩き(種まきの意味)、それから数百段ある石段を火を掲げて駆け下りていきます。男神と女神の和合を祝うお祭りなのです。

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御燈祭りの様子 Wikipediaより
 

 熊野の那智大社にも火祭りがあり、これは花の窟神社から夫須美フスミ大神を勧請したことに始まるそうです。夫須美大神とは幸の神の女神で子宝の神様ということです。

長野には野沢温泉村道祖神祭りという幸の神信仰の「とんど焼き」の巨大版といった火祭りが続いています。道祖神祭りという名ですがサイノカミとも呼ばれ、神様は八衢ヤチマタ彦と八衢姫の夫婦神。クナト大神と幸姫命ですね。小正月に向けて2日かけて大きな社殿を作り、祭り当日はそれに火をつけようとする松明をもった村人たちと、防ごうとする厄年の男衆のまさに命懸けの戦いが行われます。

このように古くからの火祭りは出雲に起原があることが伺えます。

けれど能登の伊夜比咩神社の祭神は大屋津姫となっています。大屋津姫(大屋姫)といえば出雲の八千矛王(大国主)の孫であり、香語山の后(いわゆる正室)。弥彦神社に香語山と妃の穂屋姫が祀られるようになってから、あえてここに大屋津姫を祀ったのか、それとも最初から?

伊夜比咩神社は加宜かが国造家の領域にあって、大彦の子孫、ソツ鳴海の後裔です。弥彦神社はおそらく高志深江国造家の領域で、こちらもソツ鳴海の後裔となります。ここにふたつの神社の繋がりがあるのかなと、今はこの辺りで留めておきたいと思います。

 

ご質問へのお返事がいつも遅くなってしまい、申し訳ございません。コメントを送って下さる皆さまには大変感謝しております。今回もありがとうございました。

次回に続きます。

 

 

  

大嘗祭の儀式から見えてくるもの

明日11月10日には、台風で延期となっていた天皇陛下ご即位のパレード「祝賀御列の儀」が行われます。お天気にも恵まれそうですね。

先日の即位礼正殿の儀では、皇居に架かる虹が大きな話題となりました。激しく降り続いていた雨も、天皇皇后両陛下がお姿を現される直前には弱まり、雲の隙間から注ぐ光の下、儀式は粛々と行われていきました。まるで神々の祝福に包まれているかのような不思議な時間でしたね。

天皇陛下は学生の頃より水についての研究を続けておられ、水運に始まり「足りない水」から「多すぎる水」つまり水害の対策へとその研究の幅を広げてこられたそうです。10月の相次ぐ水害に、研究者としても心を痛めておられたでしょう。そんな中で行われた正殿の儀の、奇跡ともいえるひと時の晴れ間と虹は、令和の時代への希望を後押ししてくれたような気がします。代々語り継がれること、間違いありません。

 

さて、続く14、15日には大嘗祭「大嘗宮の儀」が予定されています。

大嘗祭とは即位した新天皇が行う新嘗祭です。全国から集まった農産物を神に供え、国の安寧と五穀豊穣を祈ります。天皇の一代一度の特別な儀式であり、その中心となるのが大嘗宮の儀。ようやく令和の大嘗宮も完成したようですが、ここでどのような儀式が行われるのか、これまで公にされたことはありませんでした。

今年の4月と10月に放送されたNHKスペシャル「日本人と天皇」の中で、その儀式が初めて再現されました。研究者の方々や平成の大嘗祭に関わった人たちへの取材を基にしています。

 

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令和の大嘗宮 Wikipediaより


写真の模型には大きな神殿が3つありますが、写真上方が主基殿(西)、左下が悠紀殿(東)です。

大嘗祭は戦国時代から200年ほど中断し、江戸時代中期に復活した時には簡素な小屋を建てて行っていたといいます。貞享4年の大嘗会調度図には主基殿と悠紀殿しかみられません。ふたつの神殿を囲む塀も、古代の村にありそうな細枝を束ねたような簡素なものです。昔は大嘗宮の建築期間は5日ほどだったそうで、今のような立派なものになるのは大正以降であり、長い歴史からみるとごく最近の変化です。

 

儀式は夕方から未明にかけて行われます。まず悠紀殿ゆきでん天皇が入ります。8m四方の内陣と呼ばれる部屋は、菜種油で灯しただけの薄暗さ。その時すでに神が降りてきているとのこと。

中央には神が休むための寝床が敷かれています。

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大嘗宮内部の図(宮内庁Wikipediaより

 

伊勢神宮の方角に神座しんざが置かれ、天皇天照大神とすべての神々と向き合うように、御座ぎょざ(90cm四方の畳)に座ります。

この部屋の中では2人の女官がお手伝いをします。天皇は各地から集められた食材を受け取り神に供えます。その年に収穫した米、粟、海産物、栗や干し柿などの果物で、これらは神饌しんせんと呼ばれます。饌は「け」とも読み、古語で食物を指し、神にお供えする食物の意で神饌=御饌みけ

神饌はお重のような箱に一品ずつ整然と納められ、神座と御座の間に並べられます。天皇はそれらを柏の葉でできた32のお皿に1時間半かけて丁寧に盛り付け、右手に並べていきます。それから伊勢神宮の方角に向かって拝礼し、御告文おつげぶみを読みあげます。

「伊勢の五十鈴の川上におわします天照大神。(略) もろもろの民を救わん。よりて今年新たに得たるところの新御物を奉る」

儀式を締めくくるのは直会なおらいと呼ばれる神との食事です。天皇は米、粟、酒を神と一緒に口にします。

この後、同じ儀式を主基殿すきでんでも行います。

 

ここで、出雲伝承をみてみましょう。

新王が跡を継ぐ際、「幸さいの神」の特別な収穫祭が秋に行われ、王宮横にユキの社スキの社が建てられました。

※幸の神については以下の記事に書いています。 

 

ユキの社の斎壇上には、矢を入れるゆきが祀られ、スキの社では田を耕すすきが祀られます。「靫」はその機能から女性の象徴という意味があり(男性である矢を納める)、幸の神三神の幸姫命サイヒメノミコトのご神体です。「鋤」は田(女性)を耕すという機能から男性の象徴とされ、クナト大神のご神体とされています。

幸の神三神とは出雲族の祖先神であり、クナト大神、幸姫命、サルタ彦大神。クナト大神と幸姫命はイザナギイザナミのモデルとなった夫婦神。息子がサルタ彦大神。幸の神は子孫繁栄の神とされ、縁結びと子宝の神でもあります。

ユキの社=矢を入れる靫ゆきを祀る=幸姫命

スキの社=田を耕す鋤すきを祀る=クナト大神

 

幸姫命は「田の女神」ともいわれ、子宝に恵まれることと田の実り(結実)が重ね合わされ、豊穣を祈ったということでしょう。

縄文時代土偶と呼ばれるものの多くは女神像であり、人々は安産や多産を祈願しました。祀ったあとには割って田畑に埋めたそうで、これも女性の生み出す力を信じて作物の実りを願いました。古事記にはオオゲツ姫という、体から食べ物を次々と生み出す女神が描かれています。オオゲツとは「大いなる食物」という意味です。しかもスサノオに殺された後には、体から五穀の種を生み出します。縄文の女神像に重なりますね。

ちなみにスサノオの后は櫛稲田姫ですが、出雲の初代主王である菅之八耳王スガノヤツミミの后が稲田姫です。実家は須賀にあったと。古事記ヤマタノオロチ神話にはこれらの名前が使われています。

 

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長野県棚畑遺跡「縄文のビーナスWikipediaより

 

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長野県中ッ原遺跡「仮面の女神茅野市ホームページよりお借りしました。

 

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青森県亀ヶ岡遺跡「遮光器土偶」(アラハバキ女神像)


最初の「縄文のビーナス」は縄文中期。2枚目の「仮面の女神」は縄文後期のもの。どちらも妊娠した女神像ですが、仮面の女神がなぜ逆三角の顔になっているかというと、古代の世界では逆三角形は女性の下腹のビーナスの丘、三角の丘を表していたからだそうです。上向きの三角形は男性の象徴となります。このふたつの三角が重なればいわゆる六芒星となり、男女和合を表しますユダヤ人だけのものではありません。古代の世界ではX印や十印も男女が重なる姿(和合)を示し、渦巻模様は妊娠を表すというように、ホモサピエンスの共通イメージ力というものが脳の機能に備わっているのかもしれませんね。

さて、3枚目の「遮光器土偶アラハバキ土女神像)」は縄文晩期~とされています。

斎木雲州氏によると縄文時代には素焼きの女神像が作られ、オオケツ姫と呼ばれ、多産を祈った後には砕いて畑に蒔くと豊作になると信じられていたといわれます。弥生時代になってからは東北人がアラハバキ土女神像を使っていたと。当時からこの名で呼ばれていたことが伝わっているそうです。(「出雲王国とヤマト政権」P. 255~に詳細が載っています)

須恵器で作られたアラハバキ女神像は頭上に灯火皿が付いていて、夜に出産する妊婦の足元に置かれたので出産土女神とも呼ばれました。閉じた大きな目が特徴的ですが、これは亡くなった母系祖先を表しているとのこと。イヌイットが使っていたゴーグルに似ていることから遮光器土偶と名付けられていますが、古代の人々の切なる思いを想像すると、土偶土人形)とは呼べなくなりますね。

 

話が逸れてしまいましたが、出雲王国の新王による特別の収穫祭の続きに戻ります。富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」から抜粋します。

新王はユキの社に入り、幸姫命の御心霊ととともに神酒を飲み、新米のご飯を召し上がる。中央には寝床が設けられ、二つの枕が置かれる。片方の枕には幸姫命が宿り、その横の枕に新王が寝る。そして新しい王の名が唱えられた時、先祖神の霊を身に受けて、神から新王と承認されたことになる。后はスキの社に入り、やはり同じ儀式を行う。それで神から王の后として承認され、新司祭者としての神威が強まったと考えられた。》

 

現在の大嘗宮の儀では、悠紀殿と主基殿で同じ儀式を天皇が行います。新米の収穫地として東日本の悠紀地方と西日本の主基地方の2ヶ所が選ばれることからも、東と西を分けなければならない理由は何だろうと考えてしまいます。

ところが出雲王国の場合は幸姫命とクナト王に対して、新王と后がそれぞれ結びの儀式を行い、祖先神に認めてもらうということになります。(后はマツリゴトの司祭者として大きな役割をもっていました。)

男女の和合と食物の実り(結実)を重ねて豊穣を祈る古代の収穫祭です。これならばふたつの神殿で同じ儀式をすることは理解しやすいです。

出雲王国の儀式の一部が現在の天皇家にも引き継がれているのだとすれば、いつしか女性(姫巫女ヒメミコ)の力が失われ男性優位の社会へ移行した結果、后の出番はなくなり、天皇がふたつの神殿で同じ儀式を行うことになったとも考えられそうです。

 

天村雲の霊水と神饌

さて、以前の記事で大嘗祭のもうひとつの起源にまつわる話を紹介しました。記事後半になります。 

 

記事の中では、春日大社や摩氣神社に祀られる天忍雲根命アメノオシクモネを、初代大和大王の天村雲命アメノムラクと同一人物ではないかという仮定で進めています。

丹後国風土記残欠や丹後の籠神社、摩氣神社の伝承には、天村雲命が天の水と地上の水を合わせて霊水とし、神饌を料理して奉ったことが記されています。また春秋に田を耕して稲種をまき、それを広めて人民が豊かになったと。天村雲命は水と農業、食物の神として崇められているようです。

それまで陸稲だったところに、大陸から水稲がもたらされ日本の国土は豊かになりましたが、紀元前200年頃に大陸から渡来した徐福(村雲の祖父)らの水稲技術が広まったことも大きな要因と考えられます。

※徐福は日本名でホアカリまたはニギハヤヒと名乗り、記紀ではニニギノ命やスサノオとして描かれています。

丹後の伝承の、天の水と地上の水を合わせるというところが、天孫族(天)と出雲王国(地)の連合国を大和に最初に築いたといわれる村雲らしいなと思いませんか。

 

古事記では出雲の国譲りの際、大国主が天神の使いのタケミカヅチ服従を示すためにご馳走を用意する場面が描かれます。新しく臼と杵を作り、新たな「火」を切り出して最高の食事を作ります。そして大国主はこの火を未来永劫焚き続けましょうと宣言します。

平安時代に編纂された「延喜式」によると、大嘗宮の儀において天皇が内陣に入る直前には、女官が臼と杵で粟をついたり(稲舂いなつき)、神饌の米ご飯、粟ご飯は切り火で起こした火で蒸されたものであったりと、出雲との繋がりが見られます。幸の神信仰では臼は女神で杵は男神、ついてできた餅は子宝と考えられ餅つきは神事として行われていました。

また出雲ではヒノキで作られた火切り臼と呼ばれる板の上で、杵を錐きりのように擦って火を起こし、その火で神に供える食事を作っていました。これを「火切り神事」といいます。ヒノキのヒは出雲王の霊を意味しています。

そしてこの火で炊いたご飯を一生食べる人が、出雲王の代理者となることを「火継ぎ神事」といいます。出雲王の御霊を受け継ぐという意味なのでしょう。

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大嘗祭用の臼と杵(宮内庁Wikipediaより

 

神武天皇のモデルのひとりと考えられる初代大和大王・天村雲の霊水と、古代出雲王の火(霊)。そして日本各地で収穫された食材。これらがひとつとなったものが、大嘗祭の神饌として供えられているのかもしれません。

出雲伝承によると紀元前200年頃、大国主と事代主を失った出雲の半数の人々が大和へ進出し、そこへ丹後から天村雲率いるハタ族が移住してきたため連合国を作ります。初代大王として村雲を迎え、その后は事代主の娘、タタラ五十鈴姫です。大王就任のお祝いに出雲王が銅剣を贈りましたが、それが三種の神器のひとつである村雲(叢雲)の剣。クナト王が日本に持ってきた矛を真似て作られたと。

 

これらの伝承を通して大嘗祭を見てみると、遠い祖先たちが遺してくれた大切なものがそこに詰まっているようです。出雲族の子孫繁栄の願いと、ハタ族(徐福の渡来集団)の五穀豊穣の祈り。そして民族の協力と和合。

それらは儀式の「形」として継承されてきただけではなく、二千年という長い時の中で、祖先を敬い子孫たちの繁栄と幸せを願う人々の想いによって今へと繋がることができたのだと思えてなりません。

21世紀に入り、この文明をもってしても抗えない自然の猛威を知ることが日常となった今、皇室を始め祖先たちの積み重ねてきた祈りの重みを、改めて感じています。

大嘗祭は皇室の行事とされていて、関心のない方には他人事になりがちですが(以前の私‥)、すべての国民の幸せを祈って行われる誠に有難く尊い儀式なのです。

 

 

 

宮地嶽古墳⑹翁の舞と山の能。そして磯良舞


 

宮地嶽古墳の埋葬者は誰なのか、6回に渡り探ってきましたが、そろそろ今回でひと区切りとしたいと思います。

 

宮地嶽神社では磐井の子孫(孫)を祀っていて(埋葬者?)、それは安曇氏であるという情報があるようです。磐井の孫というのは年代から可能性ありと思われますが、安曇氏というのは現段階ではまだ繋がっていません。筑紫国造家と安曇氏に婚姻関係があったという根拠に辿りつけませんでした。

宮地嶽神社のかつての祭神、宮地嶽大明神「安倍相丞」から、大彦の子孫とされる筑紫国造磐井を辿ってみたところ、物部ばかりが現れ、そこに高木神の存在が透かし見えるようでした。

「勝村大神(藤高麿)」と「勝頼大神(藤助麿)」については物部の血筋である可能性は高いようです。

シリーズ最初の記事で、津屋崎古墳群の中では宮地嶽古墳だけが博多に面しており、宗像氏の古墳とは思えないと書きましたが、調べていくうちに、相島がもとは大彦の子孫である安倍氏の領地であった可能性も考えられることや、宮地嶽古墳(岩屋不動)が明治以前までは修験道支配下にあったことなどから、宗像氏のものではなくとも安倍氏に関わる場所ではないかということも頭に置いておく必要があると思い始めています。宮地嶽神社の以前の宮司家が阿部氏であったことも気になります。

そして宮地嶽大明神・安倍相丞とは、この流れでいくと磐井の御魂を祀っているとしたいところですが、やはり可能性のひとつというところで留めておきます。

 

さて最終回の今回は、宮地嶽古墳と安曇磯良を繋ぐ筑紫舞の本質について、考えてみたいと思います。

 

筑紫くぐつ舞の「翁の舞」

筑紫舞の決め事として、神前か神社の境内でしか舞ってはならず、投げ銭をもらうこともダメ。神社からお札をもらってそれを売ることで収入としていました。すべてが神様に対するものであり、見物客は神様のお相伴です。またそれぞれの神社の祭神に奉げる舞を持ち、同じ神でも地方によって舞ぶりを変えていたそうです。

基本の動きには「神に近づく技」「人々の穢れを身に受ける技」といった意味がつけられ、さらに「鳥飛び」「波足」「水けり」など水辺の名前が多くみられます。海から神様がやって来て砂浜で舞うというのも多いらしく、海人族由来ということも頷けます。

舞は大きく「神舞(神に奉げる舞)」と「くぐつ舞(祭礼の時に人々に見せる舞)」に分けられ、菊邑検校はこの違いについて、

「神舞は、わが身をいとわねばならぬと思うて舞う翁。くぐつ舞は、人の身をいとうて舞う翁」

と教えたといいます。ということはすべて「翁の舞」になりますね。鈴鹿千代乃氏は、傀儡子たちは神社の祭礼でくぐつ舞を舞うことによって人々の穢れをわが身に受け、それを神主のいないような神社で神舞を舞うことによって神にゆだねて神から魂をもらっていたのではないかと言われます。西山村光寿斉さんが少女の頃、神舞を奉納していたのが神主不在の神社とか、誰もいない海辺だったということからそう思われると。

国としては天皇が祭祀者となって国中の大祓を行い、天皇が自ら受けた穢れを祓戸四神に託し、川から海、海底から地底へ、そしていずこかへと持ち去って消滅させてもらいます。「水に流す」という文化はここから始まっているようです。天皇や神々と同じ祓の力を持つ者が、漂泊民である傀儡子だというところに、不思議な繋がりを感じずにはいられません。国の最高位の存在と、体制の外側をさすらう者が同じ力を持っているのです。

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日本の古典芸能の源流ともいえる筑紫舞には、この国の古い歴史が刻まれている可能性もあるようです。

筑紫くぐつ舞の中心には「翁の舞」があります。別名、国問いの翁。先ほどの翁は広義であって、今度は狭義の翁の舞についてです。これは神舞ではなくくぐつ舞なので、人の穢れをわが身に受ける祓え舞です。

菊邑検校は翁とは神に近い長老で、おじいさんではないと言いました。翁は仮名か、できれば片仮名でオキナと書くようにとも。発音は「沖のう」に近かったそうです。

古田武彦氏はこの翁の舞を古代中国の宮廷舞を模倣したものだと言われます。諸国の翁が集まってそれぞれが名告り、諸国の舞を舞うという形をとります。舞うといっても能のような幽遠さ、荘厳さです。三人立、五人立、七人立、十三人立とありますが、光寿斉さんが教わったのは七人立まで。

三人立⇒都、肥後、加賀の翁

五人立⇒上記+出雲、難波津より上りし翁

七人立⇒上記+尾張、夷の地より参りし翁

検校は歴史的な背景を一切語らなかったので、主に古田氏の推測となりますが、都の翁は筑紫舞の本拠地である太宰府辺りかと言われています。検校は「その時々の都です」と言ったそうですが。

三人立は最も古い形と考えられ、都の翁が中心となっています。古田説では古代中国の礼記に記された「東と南の二方の蛮夷の舞楽」の形式を真似たものとして、都からみて辺境である東方の越と南方の肥後、という形ではないかと。

ところが五人立からは肥後の翁が中心になります。磐井の乱後、表向きは筑紫は大和王朝の支配下となったけれど、装飾古墳の分布を見ると、阿蘇山を中心として肥後から筑後、豊後の辺りが栄えており、これは磐井の乱でダメージを受けなかった肥後に主力が移行したと考えられるのではないかということです。実は菊邑検校は肥後の出身です。

 

時代が下りますが、11~16世紀頃の肥後の菊池家「山の能」という舞楽が伝承されており、能舞台で能太夫が演じ、その中心に「翁の舞楽」があったことを古田氏は見つけておられます。菊池家が断絶したために途絶えてしまい現存せず、筑紫舞との関連は謎のままですが、光寿斉さんの伝承している「翁の舞」の能のような幽玄さというところに、肥後の「山の能」とを結ぶ微かな可能性を感じます。

菊池家は能面を使い、検校の伝える筑紫舞は能面を使いません。理由があってのことだそうです。肥後国誌には17世紀に旧菊池郡の隈府で山の能を伝承していた座中が、能面は自分たちのものだと主張し裁判になったが解決したと記録されています。その後菊池家滅亡に伴い山の能は消滅したと。菊池と菊邑。何か関係があるのでしょうか。

ちなみに菊池家の家紋は鷹羽紋です。ここにも高木神が現れましたね。もとは日足紋だったのが、12世紀頃、夢に阿蘇の神が現れ鷹羽紋を与えられたそう。能面を霊宝として祀っていた北宮神社は、ちょうどその頃に阿蘇大明神を勧請しています。戦国時代では家紋を変える時、血筋が変わるということもきっかけになるらしく、実は出雲伝承では菊池家は出雲忍者の出身だったと。楠木正成と親戚であり、分家子孫には西郷隆盛も。例えば鷹羽紋に通じる血筋となってから菊池家の「山の能」が始まったとして、それが出雲忍者(山伏)であるとか?「山の能」という名前に山伏や洞窟の舞を連想しますね。

【補足】菊邑検校は「面を付けて舞うのは技量が足りないからであり、演じる者が神になりきれば面など必要ない、祓えには必要ない」といった趣旨のことを言われています。鈴鹿千代乃氏は人形や面は、穢れをそれらに吸収させ自らには受けまいとする防護であり、筑紫くぐつ舞は素面で、命懸けで祓えの芸を演じた人々であって、それが能面を使わない理由だと言われます。

 

翁の舞に戻ります。名告りの様子と光寿斉さんに教えた人を記します。昭和11年の宮地嶽古墳での奉納舞の後、翁の舞の稽古が始まり、全国から光寿斉さんのもとへ次々と教えに来られたそうです。翁の舞を教わった人は必ず次世代の人に伝えておかなければならず、受け取った人は何十年先であっても、いつでも舞えるようにしておかなければならいのだと。)

肥後の翁はどっしりと総大将のように「われは肥後の翁」と名告ります。検校とケイさんが教えました。

加賀の翁はさわやかに「加賀かんがの翁」と。富山の人だったのではないかと。

都の翁は水のような透明感をもって性別もなく「都の翁」と。伊勢から来た人ではないかということです。

五人立では出雲の翁が加わりますが、大国主のように袋を担ぐような格好をして「われは出雲のオーキナにておじゃる」と機嫌をとるように(へつらうように)名告ると、ぺこっとお辞儀をします。検校は大国主ではないと言ったそうですので、出雲王国滅亡後の出雲国造家(ホヒの子孫)を表しているような。出雲から来た人だったようです。

難波津より上りし翁は大和か難波かわかりませんが、あえて「より上りし」と説明が加えられ、水をかき上げるような中腰になってチョンチョンと出てきて名告ります。筑紫のほうが上であることを婉曲な表現で伝えているのかもしれません。西宮神社の近くから来た人で「えべっさんにお参りして、百太夫さんにご挨拶して来ました」と言われたそう。

七人立尾張の翁は「われこそは尾張の翁」と淡々と落ち着いて。愛知県海部郡津島町から来た人でした。

夷の地より参りし翁は軽々と鳥飛びで現れ「夷の地より参りし翁」と左右をキョロキョロ見ます。群馬県から来た「ケノのシロミさん」と呼ばれていました。毛野でしょう。

十三人立については、光寿斉さんは昭和11年の奉納舞で一度見ただけとのことです。この舞はその時の奉納舞を仕切る役の人への労いのものらしく、他と違って砕けた雰囲気で、光寿斉さんは習わずじまいでした。中心はタカクラの翁(アサクラかも)。他に吉備の翁、熊野の翁、オオエの翁、酒匂カニの翁、機織りの長、です。この13人とオトという女役で舞われます。

オオエの翁は大江山酒呑童子の伝承を語ってくれたそうで、丹後ですね。タカクラは高倉、紀伊でしょうか。吉備については地域によって、検校が神様の向きが違うと言って奉納を避けたところがあったようです。

この翁の舞に歴史が刻まれているかもと想像すると、ミステリーの謎解きのように引き込まれてしまいませんか。

 

鈴鹿千代乃氏は昭和52年頃から光寿斉さんより伺った話を記録しておられ、十三人立の熊野の翁については平成4年になってようやく思い出されたそうです。それに伴い、肥後の翁を中心とした舞だけでなく、奉納する土地によって中心となる翁が変わるということも思い出されました。長くなるので省きますが、伊勢神宮、出雲、尾張での奉納舞も伝承されています。

鈴鹿氏、古田氏と光寿斉さんの縁がなければ、筑紫舞についてこれほどの内容は記録されなかったのではないかと思います。両氏に出会われたことで多くの記憶が蘇り、昭和11年の洞窟舞の場所も探し出すことができました。筑紫舞というあまりに膨大な内容を、少女一人の身にたった11年間で授けられた特殊な状況を想像した時、現在しっかりと次世代に継承されているこの奇跡の陰に、光寿斉さんを初め伝承に関わる方々のどれほどの努力があったのかと頭が下がります。

 

筑紫舞と安曇磯良

長くなりましたが、最後にSorafullに残されたふたつの疑問について、書き留めておこうと思います。

ひとつは古事記に描かれた、天孫を先導したサルタ彦のその後です。

伊勢の阿邪訶あざかの海で漁をしていたところ、サルタ彦は比良夫ヒラブ貝に手を挟まれて溺れてしまいます。その時、三つの御魂が現れました。沈んでいった時に底度久ソコドク御魂が、海水が泡立った時に都夫多都ツブタツ御魂が、泡が弾けた時に阿和佐久アワサク御魂が。

不思議な話です。サルタ彦が海で溺れて三御魂となります。どちらかというと山のイメージがありましたけど。そしてヒラブ貝という貝は存在しないそうです。貝とは女性のホトを指すらしく、サルタ彦がアメノウズメに溺れたという解釈が多いようですが、漢字を見ると阿曇比羅夫(比良夫)や阿倍比羅夫を連想させますよね。2人とも7世紀半ばに水軍を率いて活躍した将軍です。古事記が完成する50年前のことです。

同時代に同じような功績を残した2人が同じ名前というのもまた不思議な偶然。(2人とも斉明天皇の命で百済救援に向かい、間もなく阿曇比羅夫は白村江の戦いで戦死、安部比羅夫は大敗した後のことはわかりません。)あえてこの比良夫という名前を使ったところに、隠された意味があるのかなと勘ぐってしまいます。

古事記の作者はなぜサルタ彦を海で溺れさせ、比良夫貝という架空の貝をその原因とし、そして安曇族の祀る綿津見三神のように海の三御魂を生じさせたのか。まるでサルタ彦を安曇氏、安倍氏に繋げようとするかのように。

 

もうひとつの疑問は、西山村光寿斉さんが最後に伝承したふたつの舞についてです。

「浮神(うきがみ)」は磯良の舞ですが、これを習得する前には「源流翁」という舞を先に学ばなければならないそうです。源流翁とは「都の翁」のことで一人立です。この舞は一生に一度だけ、しかも50歳を過ぎなければ舞ってはならない、そんな決まり事があると。

最も大事な舞が磯良舞であるなら、その前に習得しなければならない、一生に一度だけ舞うものとはいったい何なのでしょう。都の翁とは誰なのか。

磯良舞についてはこの記事に書いています。

 

検校自身はこのふたつの舞を光寿斉さんに伝えるつもりはありませんでした。舞う機会はないからと。まわりの者がそれでもと頼み込んだことで、光寿斉さんに伝えられたのです。それによって筑紫舞が安曇磯良と結ばれていることが明らかになりました。けれど不思議なのは、筑紫舞を命懸けで守ろうとしてきたのであれば、その中の最も大切な舞をなぜ検校は光寿斉さんに教えようとしなかったのでしょうか。永遠に消滅してしまうかもしれないのに。

春日大社志賀海神社、大分の柞原八幡宮、古表・古要神社にもみられる服属儀礼としての磯良舞は、海人族と八幡信仰が結びついて生まれたものであり、本来の安曇磯良の姿ではないから? 確かに祖先の変容させられた悲しい姿をむやみに舞う必要はないですよね。

それとも傀儡子たちが筑紫舞を継承してきたことで、祖先である安曇磯良を伝え残す術としての磯良舞であり、本質は「翁の舞」にあるのだから、光寿斉さんが筑紫舞として覚える必要はないと考えたのか。もし後者であれば筑紫舞の出発点は海人族⇒安曇族だけれど、しだいに物部の歴史(九州王朝)を反映するものへと変化していったということもあるかもしれません。

ただ、筑紫舞の「祓の力」ということを考えた時、王権やその推移といったことよりも、人々の営みによって生じざるを得ない穢れの浄化や鎮魂が、筑紫舞本来の存在意義だったのではないかと思えるのです。翁について「日本に48州あればそのすべてに翁がいる」と検校が言ったそうです。神に近い存在である翁がその土地の穢れを祓うための舞であったのでしょう。だからこそ翁の舞は神に奉げる神舞ではなく、穢れをわが身に受けるくぐつ舞なのでは。

検校の残した言葉に触れていくと、王権というよりも民衆に寄り添い生まれたものが筑紫舞の土台にあるような気がします。そして体制の外側に生きる者たちによって掬い上げられた滅びの歴史が、必然として舞の中に織り込まれていったのではないでしょうか。

 

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菊邑検校の話をもうひとつだけ。

地唄舞の中では曽我物語だけがタブーのようになっていて、光寿斉さんが頼んでも曽我に関わるものは絶対に教えてくれなかったそうです。このことは、以前は6世紀末に物部氏蘇我馬子に滅ぼされたからかと思っていましたが、それより前の磐井の反乱と称して継体天皇蘇我王朝)によって九州の勢力は最終的に抑えられ、大和朝廷に飲み込まれていったこともあるのかなと思うようになりました。

 

さて、N様から頂いたご質問から始まった「宮地嶽古墳の被葬者とは誰か」を探る旅は、方々へと寄り道をした結果、謎を残したまま一旦終わりを迎えることになりました。ですが新たな発見がとても多く、今回チャレンジする機会を与えて下さったN様に、心から感謝しております。

そして迷走ばかりの長文の連続にお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。

 

参考文献(大元出版の出雲伝承以外)

「よみがえる九州王朝」「古代の霧の中から」古田武彦

「市民の古代」第11集、第12集、新泉社

神道民俗芸能の源流」「穢れと芸能(論文)」鈴鹿千代乃著

記紀万葉の新研究」尾畑喜一郎編より「筑紫舞聞書」鈴鹿千代乃著

 

【皆様へ】コメントを送って下さる皆さま、本当にいつもありがとうございます。頂いたコメントでこちらから紹介させて頂きたい場合もあるのですが、もし非公開を望まれる内容がございましたら、ひと言添えて下さると助かります。今回もS様より嬉しいご報告を頂けたのですが、ご紹介してよいのかどうかわからず控えさせて頂きました。よろしくお願い致します。